第2話 偽の婚約者

1

「なりません!」


 私が答えるより先に、ラディーレが声をあげた。

 ラディーレが思い切り席から立ち上がったので、皿からナイフが滑り落ちて、生成りのテーブルクロスに刃先についていたソースが飛び散ってしまった。


「もちろん本物の婚約者ではない。ただ、君らがこの国での永住権を手に入れるには、この国の誰かと結婚をするということが手っ取り早いと思ってね。幸い私には、今恋人も結婚したいと思うような女性もいない」


「他に方法はないんですか?」


 勤めて私は冷静を装って尋ねたが、実際は胸がドキドキと高鳴っていた。

 生まれてこの方、誰かに嘘でもプロポーズをされたことなどなかったからだ。


「ない」


 アルベルトが言い切ったので、ラディーレは「この方は、ナタリア王国の姫君ですよ。そんな偽装とはいえ、他国の公爵に誰の許可もなしに嫁ぐなど!侮辱でしかありません!他の方法を要求します!」と大きな声で目の前の男に詰め寄った。


「滅びた国の姫よ。ラディーレ」


 私の言葉にラディーレが驚いたように私の方を向いたが、無視を決めてアルベルトの方へと向き直った。


「レックス公爵」


「アルベルトと呼んでくれて構わない」


「では、アルベルト。私はあなたと婚約すること異存はありません。ですが、私だけが永住権を手に入れることになりませんか?」


 私の質問にアルベルトは「配偶者の一親等……つまりは親と子供までなら、証明書を発行することができるはずだ」と答えた。


「ラディーレを親として申請するということですね」


「そういうことだ」


「婚約期間はいつまでにするおつもりですか?」


「永住権を発行するには、入籍というのも必要だ。入籍してしばらく落ち着けば別居というのも構わないだろう。それに三年間結婚生活が続けば離婚しても証明書は永続する」


「わかりました。お受けいたします」


 私があまりにはっきりと答えたので、ラディーレは「そんな……!ですが」とまだ納得していないようだった。


 ラディーレの気持ちはありがたいが、今後証明書も持たないまま他国を放浪するのは避けるべきだと私は考えていた。

 私が思っているよりも、祖国ナタリア王国の黄金石を狙う人物は多いのではないかと思ったからだ。

 全ての問題が片付けば、離婚してしまえばいい。

 それほどまでに、この提案は私たちにとってメリットの大きいものだった。

 それに、アルベルトという男ともう少し一緒にいたいと思ったことも本音の中の一つではあった。


 目が覚めると、いつもと異なった天井に少し驚いたが、そういえば公爵家に匿われたのだということを私は思い出した。

 肌触りのいいシーツは、教会の中にあった物よりも格段にいい物だった。

 暖かな空気は、暖炉の火が絶えることなく燃え続けていたからだった。

 あの古い教会のように隙間風に悩まされるようなことは、この冬はないかと思うと少しだけホッとしたような気持ちになった。

 意識的には、気にしていないつもりでも身体が冷える隙間風や部屋は、私の心に少なからず影響力を持っていたようだった。


「お目覚めですか?」


 いつの間に立っていたのか、メイドが一人私の視界の中に入ってきた。


 この家に来てから一度も見たことがないメイドだった。


「ええ。たった今目覚めたわ」


 部屋の中にラディーレ以外の人物がいるということに違和感があったが、これも慣れるべきなのだろう。 

 私が、ベッドから起き上がるとメイドは、椅子にかけられている今日着る予定のドレスと靴をさして「こちらでお着替えを」と言った。


「昨日着ていたドレスは?まだそんなに袖を通していないけど」


「アルベルト様より、お召し物はどこに出ても恥ずかしくないようにと申しつけられております」


 どうやら私は、着せ替え人形のように毎日違うドレスに袖を通せるらしい。


「贅沢な生活ね」


 私がポツリと呟くと「それが公爵家……貴族の役割でもありますから」とメイドから返事が返ってきた。


「あなたの名前は?」


「ランスとお呼びください。朝食会場でアルベルト様がお待ちでございます」


 ランスは、私をさっさと着替えさせて朝食の会場に向かわせたいようだった。

 着替えが終わると、大きな鏡の前に座らされて、長く伸びた不揃いの髪の毛を整えられた。


「枝毛が多いですね」


 ランスはボソリと呟くと、目にも止まらぬ速さで私の髪の毛を美しく仕上げ、ボサボサになっている眉毛まであっという間に整えた。


「すごいわ」


 私が感嘆の声をあげると「残りは朝食の後にしましょう。マーレ様は身だしなみに関して存じ上げないことがあまりにも多そうですからね」


 皮肉なのか本心なのかわからないが、ランスの言う事は最もだったので、私は深く頷くことにしておいた。

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