第63話 湖
「母上が仰っていたことは忘れてくれ」
賑やかな広間から出て、月明りに照らされた外廊下を歩きながらルドは苦笑を浮かべた。
「王妃様の……」
「兄上、心配なさらなくてもセレスには伝わっていないようです……っ」
私の顔を覗き込んで大袈裟に肩を竦めて見せたレナートの額を指でピシッと弾く。
「そうなのか?」
「そのように驚かれても困ります。伝わるも何も、王妃様のどのお言葉のことを忘れろと言っているのかルドは口にしていないのですから」
「いや、確かにそうなのだが……」
口ごもるルドを横目に、王子二人の護衛騎士を連れて静かな外廊下を進んで行く。
この先には小さな薔薇のアーチがあり、そこを潜り抜けると大きな湖が姿を現すらしい。
ルアント宮は音楽祭が行われる日だけ一部を公共の施設として開放しているが、それは劇場のある東側と広間のある中央、四つある庭園も門と東の二つだけ。他は立ち入り禁止区画とされているのでそちらへ足を踏み入れたことはない。
初めは大人しく宮殿内を探索して時間を潰すつもりだったのだが、ルドの提案によって目的地が湖へと変わった。
「まぁ、本音を言うと王妃様との会話は緊張していてほとんど覚えていません」
「緊張……セレスが?」
「私が居ても良い場所ではなかったので」
辺境の領地を持つ田舎貴族が上級貴族と同等の扱いを受けているのは、全て御爺様の功績によるもの。
あの壇上に立ち陛下からお声を掛けていただけるのは選ばれた数少ない者達だけであり、フィルデ・ロティシュの孫という価値しかない私が立っても良い場所ではない。
寧ろ、あの場で真っ直ぐ立って居られただけでも褒めてほしいくらいだ。
怪訝な顔をするルドに微笑みかけ止まりかけていた足を動かす。
「それよりも、ルドとレナートを連れ出しても良かったのでしょうか?」
今更なのだが、王家主催の音楽祭なのに主役の内二人が広間から居なくなってしまった。
「ふはっ、私達が連れ出されたのだな……」
「それはそうでしょう。御爺様の一言でこうして広間から出ることになったのですから」
何が面白いのか口元を押さえて笑うルドに溜息を吐くと、隣を歩くレナートにギュッと手を握られた。
「駄目なら父上が止めていたから大丈夫。それに、父上と母上はフィルデ様とゆっくり話せれば嬉しいし、兄上と僕はセレスが居て嬉しい」
少しだけ背が伸びたレナートが何度かギュッ、ギュッと手を握りながら見上げてくる姿がとても可愛くて、まるで天使のよう……いや、天使に違いない。きっと間違えて空から落ちて来てしまったのだろう。
「セレス、顔が崩れているぞ」
「天使が、天使で……」
「言動がおかしくなってきたな。レナート、少し離れなさい」
「はい」
王妃様を間近で拝見したことがなかったから今迄気付かなかったが、レナートの容姿も雰囲気も王妃様にソックリだった。
「そうか、女神が天使を産んだのか……」
「本格的におかしくなる前に現実に戻ってこい」
「いっ、だっ……!?」
ふむ……と頷いていたら背後から後頭部を叩かれ、右隣を歩く犯人を睨みつけた。
「折角美しい装いをしているのだから、そう睨むな」
「……紳士にあるまじき行為ですよ?」
「淑女にあるまじき顔と言動をする者を止めただけだ。仕方がなかった」
「相変わらず口が減らない方ですね」
「お互い様だろう?」
ニッと口角を上げ弾む足取りで前を歩いて行くルドは、王族らしくあろうと振る舞う王太子殿下ではなく、砦に居たときのような年相応のルドウィークに見える。
「楽しそうですね」
「友との再会に喜ばない者はいない。それに、私が密かに通う特別な場所に向かっているのだからな」
「湖ですか?」
「毎年此処へ来ると護衛を連れて一人で湖を眺めに行っていた。この宮殿は美しい庭園が有名だが、夜の湖の景色は格別だ」
「真っ暗なのでは?」
「行けば分かる」
目を輝かせ足を速めたルドにレナートと顔を合わせて笑い合う。
「急がないと置いて行かれそうだ……レナート?」
くいっと袖を引かれレナートに視線を移すと、「僕も楽しいよ?」となんとも可愛らしい言葉に心臓が悲鳴を上げた。
力強く頷いて肯定して見せれば神々しい笑顔が返ってくるではないか……尊い。
おかしなことを口走らないように唇を噛みしめていると、少し先を護衛騎士と共に歩いていたルドが急に立ち止まった。
一人の護衛騎士がルドを下がらせ前に立つ姿を視界に捉え目を凝らすと、湖の入り口である薔薇のアーチの側には見知らぬ男が立っている。
護衛騎士が分離していては、護れるものも護れない……。
「兄上……?え、セレス!」
即座に周囲に視線を走らせ人影や死角となる場所を確認したあと、レナートの腕を掴みルドの元へ駆け寄った。
「ですから、案内を頼まれただけなんです……っ!」
急いでルドに合流すれば、護衛騎士に首元に剣を突き付けられた男性が誤解だと悲鳴のような声を上げていた。
全身黒の装いは広間でグラスや軽食を運んでいた者達と同じ物。
「何があったのですか?」
「この者が湖の方を窺っていたから声を掛けたのだが……」
「湖を……?刺客ではなく、不審者でしょうか?」
「ち、違います。私は音楽祭に出席されている貴族のお嬢様に湖へ案内するよう言われただけです!」
「貴族のお嬢様……?」
「はい。案内したあとは戻っていいと言われたのですが、護衛の方が居ないようでしたので心配で。少し湖を眺めたら戻られると思っていたので此処で待っていたのですが……」
彼の言っていることが正しいのであれば、この時間帯に護衛も付けずにたった一人で貴族のご令嬢が湖を眺めていることになる。
「湖は立ち入り禁止区画では?」
「そのはずなのだが……何故案内した」
「許可を得ているのかお聞きしたのですが、必要ないと言われて。高貴な方なのかと……」
ルドの咎める声に肩を跳ねさせた男性は、恐る恐る私達を窺いながらとんでもないことを口にした。
「王女様がお忍びで来られているということはありませんか?」
「間違いなく王都に居る。それに、護衛も付けずに移動するわけがない」
それもそうだと頷き、コレが演技だとしたら大したものだと目の前の男を見据える。
手と袖に武器を隠している素振りはなく、着ている物に不自然な膨らみもない。
「王族を騙る者などいるでしょうか?」
「普通であればいない。だが、令嬢が王族だと口にしたわけではない」
「その男が勝手に勘違いして案内しただけだと……」
ジッと皆から睨まれ身体を小さく丸める男を念の為にと護衛騎士が拘束する。
残るは……。
「このアーチを抜けたら湖ですよね?」
「セレス……護衛に向かわせる」
「まだそこの男が安全だという保障がありません。なので、ルドとレナートの側から護衛騎士を離すわけにはいかないでしょう?」
「だが……」
「大丈夫です。様子を窺うだけですから」
広間へ戻り他の騎士に湖へ向かってもらう方が良いのだが、もし湖に居る令嬢が本当に高貴な方だった場合取り返しのつかないことになる可能性もある。
「そこから顔を出すだけにします。何もなかったら直ぐに戻りますので」
アーチの奥を指差し、乳母に内緒でドレスの下に仕込んだ短剣をそっと叩く。
右に一本、左に二本。
本当は剣を持ち込みたかったのだが王族が出席する場に持ち込めるわけがなく、多少心許ないがコレでも頑張ったほうだ。
足音を立てないようにそっと薔薇のアーチの中へ入る。
数メートル程度の花に覆われた薄暗い道を歩き、出口付近が明るいことに首を傾げつつアーチから顔を出し、眼前に現れた光景に目を見開いた。
「……凄いな」
大きな湖を囲むようにある木々の一つ一つに灯りが点され、湖の水面にその灯りが映り込み幻想的な空間となっている。
空を見上げれば吸い込まれそうなほど暗い夜空に無数の星が輝き、その下には絵物語のように美しい湖。
ルドが格別だと言うだけあると景色に心を動かされながら、息を顰めて湖がある方を窺う。薔薇のアーチから湖までは舗装された細い道があり、その道は水辺まで続いていて……。
「……え」
湖の直ぐ側に立つ人影に気付き目を細め、見覚えのある姿に驚き小さく声を発してしまった。
背丈からしてまだ幼い子供。長い髪は綺麗に巻かれ、胸元から足元まで華やかな色の花のコサージュが贅沢に施されている真っ白なドレス。
「ミラベル……」
木々の灯りでハッキリと見えた人影の正体に愕然とし直ぐに動くことができなかった。
目元を覆っていた右手を下ろし、態と音を立てて舗装された石畳の道を歩く。
カツ、カツ……とヒールの音が鳴っているというのに、振り返る素振りを見せないミラベルを不審に思いドレスに手を入れナイフを握った。
「おい」
湖を眺めるミラベルの背後に立ち低い声で呼びかけると、風もないのに髪を押さえてゆっくりと振り返ったミラベルは微かに笑みを浮かべていたのだが……。
「……っ」
私を見て一瞬眉間に皺を寄せたあと首を傾げ。
「何で、あんたが此処に居るのよ……!」
吠えた。
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