第4話 母の皺の訳

 祖母が亡くなってから八年後、母が乳ガンだと告知された。とはいっても、父は母の死後、しばらくしてから私たちに乳ガンだと伝えたことだった。母が入院した当初は、私たちには、良性の腫瘍だからなにも心配いらない。かならず治ると話していたのだった。私はまだ二十七歳で、根が楽観的だったので、父の話をそのまま信じ込んでいた。手術は成功し、三週間の入院のあとに家に帰ってきた。


  手術まえの母は、週になんどか踊りの稽古にでかけ、毎日買い物にでかける明るく元気な人だった。それが、外に一切出ることもなく、ずっとテレビを観ているか雑誌を読むだけの日々を送るようになっていた。食事も私や弟、ときには父とで用意をした。仕事で帰る時間もまちまちのせいもあるが、家族みんながそろっての団欒の幸せが遠のいていった。人は無くしてからそのありがたさを知るとはよく聞く話だけれど、まさにそのとおりだと思った。平凡な日々のくりかえしではあったが、その月並みな幸せは、なににも代えようがないものだったのだ。


 母は手術で片方の乳房を切り取られた。女性のシンボルである乳房を病によって奪われたのだ。母がお風呂に入るたびに自分の胸をみつめてはとても切ない気持ちになっていたのではないかと思う。


  その後、母が退院してから一年後、定期検査で新たな腫瘍がみつかったということで、再入院することになった。久しぶりに母を見舞うと、まるで別人のようにみえる母がいた。今思えば抗ガン剤の副作用だろう。髪の毛は抜け落ち、体は痩せ細っていた。吐き気がして食事も喉に通らないのだという。しかし、そんな母の姿をみても、かならず母は治るはずだ。しばらくすれば母は元気になって退院するのだと信じていた。


  母の体は日を追うごとにやせ細ってきた。歩けずベッドに寝たままであるために、たまにみせる足は枯れ木を思わせるほどの悲しい細さになっていた。中年太りだわね、と豪快に笑い飛ばしていた明朗活発な母の面影はどこにもみあたらなかった。闘病してからの母の顔には、いままでにみられなかった皺が増えているようにみえた。母の顔をみるのが辛かった。母の顔に刻まれた皺の訳を想像することが恐かった。きっと母にも、子供には話せないような皺に秘められた出来事が数多くあったにちがいない。


 父は仕事を辞めて母にずっと付き添っていた。日本各地から病気に効くとされるものを注文しては試していた。そんな父が愛おしく思えた。我が親ながら素晴らしい夫婦だと思った。


  その後、三ヶ月がたち、母が退院をしてきた。父の話では母の体調がよいので、自宅療法をするとのことだった。あとで聞いたことだが、これ以上治療をしても進展がないので、いちど家に帰って家族と過ごしてもらおうということだったらしい。確かに母は寝たままの状態で、起きあがることなど出来なかった。父と 私、そして弟とで母の介護の日々がはじまった。しかし、母がどんな状態であれ、家に母がいることはとても嬉しいことだった。


 そして一月初旬に、私の夢のなかに祖母が現れた。少しばかり悲しげな顔をしていた。私を手招いてなにかを伝えようとしているようだ。祖母の手招きに誘われ近寄ると、祖母が私の手をとった。するとみっつの場面がみえてきた。


  最初は大きなホールのようなところで、入り口にあたるところにはたくさんの靴がみえた。それから煉瓦づくりのような建物がみえてきた。建物の真ん中のあたりに煙突があって、その煙突から黒々とした煙が立ち上っていた。そして、小さなバスの中、小さな箱らしきものが白い布に包まれていた場面だった。


  その夢をみてもなお、その夢の場面がなにを意味するのかわからないでいた。母親のお見舞いにもあまりいかずにいた。たまにお見舞いにいくと、もっと頑張らなきゃよくならないよ、と母に厳しいことばかりいっていたのだ。いや、ほんとうは薄々母の最期に気づいていたのかもしれない。無理矢理に父の言葉を信じようとしていたのかもしれなかった。母のあまりに酷いやせ方に、父のいう良性の腫れ物だという話に、少しづつ不信感を抱くようにはなってきてはいたが、母が死んでしまうということなど想像など出来はしなかった。今にして思うことは、かたくななで現実に向かい合おうとしない私に、祖母は葬式場や火葬場、そしてお骨を入れた箱をみせてくれたのかもしれないと思えた。。


 祖母の夢をみた翌日、母の容体が悪化し、救急車に運ばれた。そのとき、髪の毛が抜けて薄くなった頭を恥じていたのか、鬘をつけていたのだが、母はそんなときでも鬘をつけようと焦っていた。そんな母の姿をみて、最期まで女であろうとする母の思いに心を打たれていた。


  病院に着くと母はすぐに危篤の状態になった。病室には頭を抱えている兄と、うつろな目をして母をみつめている弟がいた。そして苦しみにあえぐ母の手を力強く握りしめている父の姿があった。久しぶりに五人の家族がひとつの部屋にいた。兄は仕事の関係で関西に住みはじめてから八年ぶりだった。


 母が苦悶の表情をするたびに私は目を閉じ、母がうめき声をあげるたびに耳をおさえた。


 父がナース室に内線電話をかけると、女性の看護師さんが麻酔の注射をうちに来た。看護師が母に麻酔の注射をすると母は安堵したような顔をして、ゆっくりと息をするようになった。そして、

 「会いたいな、ああ会いたい」

 と、なんどかつぶやいた。

 「誰に会いたいの?」

  と、母になんど訊いても、母はなにひとつ答えずに、ただ会いたいなという言葉をくりかえすだけだった。もうすでに母の意識はあの世にあったのだろうかと思った。今でも思う。母はいったい誰に会いたいと思っていたのだろう。そのときの母の口調はまるで幼子のようだった。子供の頃の友だちなのか、それとも自分の父親か母親に会いたいといっていたのだろうか。


 母の兄弟にあたる親戚たちがかけつけてきた。それぞれに母の名を呼ぶが、母はなにも答えずに苦しそうに顔を歪めるだけだった。

 それからベッドで寝ている母の手を握りしめていた父が、

 「よくがんばったな。もういいんだ」

 と、ポツリとつぶやくと、母は突然、ピクリとも動かなくなった。

 医師がしばらく心臓マッサージをしたあと、母の脈をみて、お亡くなりになりましたといった。私もなぜか自分の腕時計をみた。午後四時二十四分、享年五十二歳だった。そして近くに置いてあったコップの水を飲み干した。突然自分でもわからない激情の波が押し寄せてきた。

 「かあさん、起きてくれよ。かあさん、頼むから!」


 私はそう叫ぶと母に泣きすがった。ただひたすら泣き叫んでいた。兄も弟も幼児のように泣きわめき、そしてなぜか看護師も涙をぬぐっていた。父は疲れ果てたのか、病室のベッドに寝たまま、数時間も、起きようとはしなかった。


 母の通夜がはじまった。線香とろうそくの火を絶やさないでいるのが昔からの習わしらしい。私はただ、無力感にうちひしがられていた。私とほかの兄弟たちは交代で眠った。涙で濡れた枕の冷たさで目が覚めた。そして、ああ、悪い夢だったんだと安堵するのもつかのま、やはり母の死が現実であったことを、下のほうから漂ってくる線香の香りによって知らされた。


 母の葬式場は、夢でみたように広いホールだった。たくさんの人たちが母の見送りに来てくれていた。そしてつぎからつぎへと、 

 「まだお母さんはお若いのに、お辛いことで」

 などと、お悔やみの言葉をいってくることにしだいに腹がたってきて、

 「ほんとうにそう思っているのかよ!」

 と、毒づくと、まわりの人たちは、気がふれた者をみるような目で私をみた。


 葬儀のあいだじゅう椅子のうえで寝ていた。なんども弟や兄に起こされたが、ひどい脱力感で、どうしても起きていることができなかった。


  火葬場も、そして母のお骨を入れた小さな箱も、夢でみたままだった。葬儀もひととおり終わったが、連日弔問客がやってきた。


 その後、二週間も過ぎた頃、あまりに静かすぎて怖いくらいの日々が訪れた。父は呆けたようになり、ガスをつけたままにし、いくつものヤカンや鍋をダメにしてしまった。そして、世話をみられないと、家で飼っていた犬二匹と小鳥たちを、私や弟に相談せずに人にあげてしまった。私にはそうしたことを責める気力さえわいてこなかった。母を亡くした辛さに負けて、父を支える余裕がなかったのだ。


 そんなある日、父はようやく母が乳ガンであったことを私に教えてくれた。私は父に怒りを覚えた。なぜ最初から伝えてくれなかったのかと。


 父から母のことをあれこれ聞いたあと、家族のみんなで母の遺品の整理をはじめた。母と父の寝室のタンスには、父が買ったであろうガンの病を乗り切る方法を書いたいくつかの本があった。父は真剣に、また必死になって母の病を治そうと懸命だったことが充分に伝わってきた。そして、母の書きかけの闘病日記もみつけた。しかし、表紙だけで本文は書かれてはいなかった。母もまた、子供にはわからない世界で経験したさまざまな出来事を、なにひとつ語ることなくすべてを皺のなかに包み込んであの世に逝ってしまった。


 もう、母の体に刻まれた皺の訳を聞くことが出来ない。語ってくれる人はいない。いや、もし母の思いを述べる語り部がいたとしても聞きたいとは今は思わない。人に語りたくない思い出が皺に刻まれていくのだから。人は生きてきた人生の分だけ秘密があってもよい。ただ自分自身に語ればよい。語りすぎて人の心に重い荷物を背負わせてはいけないのだと、祖母と母の生き様をみてそう思えた。


そして、父も頭髪には白いものが増え、自衛隊で鍛えた肉体も、定年後はたるみがいちじるしいものになっていた。気がつけば顔にはいくつかの皺がくっきりとみてとれた。職場では上官としてつねにしかめっ面をしていたのだろう。眉間にはそそり立つように四本の皺が寄っていた。父の顔にみられる皺のいくつかは母の死によるものなのだろうか。そんな父を支えてくれる人たちもいた。私や弟が自分のことで精一杯で、余裕のない時だった。陰になり日向になって父を励まし、前向きに生きる力をあたえてくれた人たちには、今でも感謝しても感謝しきれない。父は今も詩吟や追分の師匠として、毎週お弟子さんたちに教えている。 

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