第2話 祖母の皺の訳

 祖母の子供たちが成人すると、荒井浜でひとり暮らしをしていた祖母は、私の父が転勤するさい、今、住んでいる新発田市へと一緒に引っ越したのだった。祖母は私たち家族の住む家の近くの家へひとり移り住んだ。それから私は毎夜祖母の家に泊まりこむようになった。自分の家よりも不思議に気分が落ちつくからだった。


 祖母は朝にはなにやらみたことのない整髪料をぬりながら、長い髪の毛を整えていた。日中は近所の人と世間話をかわし、テレビをみたりして過ごしていた。祖母のつくる料理は昔ながらのもので、じゃがいもや人参などの野菜を、醤油と味りんや砂糖などで味付けした惣菜でとてもおいしいものだった。味噌汁は具のほうが多かった。また祖母はキセルに煙草の葉をつめては吸っていた。それはニコチン臭く、私にとってはあまり心地よいものではなかった。もう五十年ほどもたっているのに、幼い頃、祖母とふれあっているときのことを思い出すたびに、整髪料とキセル煙草の香りが甦ってくる。


 祖母の家には昭和の記憶が色濃く残されていた。祖母の家の壁には昭和天皇と皇后、両陛下のお写真があった。また古銭も多く持っていたのだが、私たち兄弟が、テレビで放映していた銭形平次の真似をしてその古銭を投げ合ってしまい、今は一枚も残っていない。仏壇には戦地で亡くなられた祖母の息子の遺影があった。どこか悲しげにみえる写真からは、十代で亡くなった無念さがにじみでているようだった。もちろん、戦地に向かうさいに撮られたものではなく、旧制中学に在籍している頃に写したものだと聞いていた。そして不可思議な話も聞いていた。

 戦地で亡くなった連絡を受けて、祖母は息子の思いを訊きたいと、村の拝み屋のもとに行ったのだという。そして、祖母の息子が妹の腹を借りて生まれかわってくると語ったのだ。妹とは私の母のことだ。そして、私が祖母の息子の生まれ変わりだとされている。祖母の息子が四日に亡くなり、私が四日に生まれたというのが理由らしい。よって名前も祖母の子の名前の一字をもらって私の名が名付けられたのだと聞いた。もっとも私には前世の記憶がない。ましてや私が祖母の子の生まれ変わりだとは信じてはいない。しかし、やりたいことも出来ずに若くして亡くなり、思い残すことが多かった祖母の子の人生を思うと、その方の名前をいただいたのだから、悔いのない日々を送らなければならないとも考えていた。そしてまた、戦争を経験した人たちが生きている限り、この世界から、戦争の痛ましい記憶が消え去らないだろうとも思った。


 祖母との生活は楽しく安らいだものだった。しかし、一緒に寝起きしていた祖母との平穏な日々は突然にも終わることになった。祖母の借りていた家は家主である叔母の都合で売られてしまい、祖母は最初に私たちの家にやってきた。いままで自分ひとりで家事をこなして生活をしていたのだが、私の家ではとくになにをするわけでもなく、祖母にあてがわられた部屋に閉じこもるようになっていた。私の父とも親しく話をするわけでもなく、祖母もしだいに居づらくなってきたのか、今度は叔母の家に住むことになった。しかし、そこもまた長く住むことはなく、祖母は親戚中の家をあちらこちらに漂流したあげく、結局は養老院にいくことになったのだ。


 大人の世界には子供の知らないなにかがあるのだろうが、私の心の壁にはやりきれない思いだけがあった。

 「お母さん、おばあちゃんが可哀想だよ」

 中学生だった私が、母にとがめるようにいうと、

 「仕方のないことなのよ」

 と、母の悲しげな表情になにかほっとしている自分がいた。私は自分の無力さを呪った。祖母に対してなにもしてやれない子供の自分がただただ哀しかった。

 祖母が養老院へと向かう途中、

 「おばあちゃん、どこにもいかないで」

 と泣きながら声をかけると、祖母はうなだれた。私はただ、祖母の顔に刻まれたいくつもの皺の道を、ゆったりと涙が通ってはこぼれ落ちていくのをみつめているだけだった。


 あのときほど、祖母の、寂しげな顔をみたことはなかった。

 私は中学生になった頃、学校での授業を終えると夕刊の新聞配達をしていた。自転車に乗り、数十軒の家に配達していたのだが、いつも一部くらいは余分に持たされていた。その余った新聞をみて、販売店の人に頼んで養老院にいる祖母に届けさせてもらうことにした。祖母は毎朝新聞を読むのが日課だった。けれども、祖母が養老院に入ってから新聞を読んでいるようすがみえなかった。祖母のことだから、まわりに気遣いをしているのだろう。それとも、もうさまざまなことに関心がなくなったのだろうか、とも思った。


 祖母にはじめて夕刊を手渡したとき、祖母はほんとうに嬉しそうな顔をした。私も祖母に新聞を持ってきてよかったと思った。それから毎日のように祖母に夕刊を届けるようになったのだった。


 祖母が生活をしている養老院は、幹線道路から五百メートルほど離れたところにあり、周囲には家もない静かな場所に建てられていた。二階建てのクリーム色の建物で、庭にはいたるところに小さな人工池があった。


 ガラガラと音がするチェーンの自転車が、祖母の居る養老院に近づくたびに、ハンドルが重く感じられるようになっていた。祖母は配達に立ち寄る時間にはいつも窓に立って私が来るのを待っていた。遠くから目にする祖母の姿は、絵の具で色づけされる前の絵画のデッサンのようにみえた。祖母のほうに近づいていくと、ようやく深い皺におおわれた頬が、ほんの少しだけゆるんだ。

 「おばあちゃん、元気?」

 「おう、かあちゃんはなにやってるだね?」

 「スーパーでパートをやってるよ」

 いつもたあいのない話で終止していた。そして果物やお菓子を私にもたせるのがつねだった。


 なぜ毎日のように祖母に夕刊を届けにいくのか、それは自分でもよくわからない。なにやらわきあがってくる感情に後押しされて、養老院へと向かっていたのだ。あの頃、祖母になにもしてやれなかった罪償いの気持ちもあったのだろうか。祖母の顔をみるたびに、安堵とも、もの悲しいともいえない切ない気分に包まれるのだった。そして、知らないあいだに、潮とは異なる苦さのある塩辛い味のする涙が流れていることもあった。


 私の記憶のなかには、悪口や愚痴をもらす祖母はいなかった。母から聞いた話では、祖母が若い頃に、祖母の夫、私にとっては祖父が祖母とは別の女性と北海道の小樽で暮らしていたときも、祖母は女手ひとつで子供たちを育て、家業であるさまざまな商品を扱う問屋を営んでいたのだという。おそらく、祖母は子供たちとともに過ごす時間はなかなかとれなかったのかもしれない。

 その後、父の転勤のため、私たち家族は北海道へ引っ越すことになり、もう新聞を届けにいかなくてよくなったことに、なぜか心の荷物をおろしたような気持ちになった。あの寂しそうな祖母の姿を見続けることに耐え切れなくなっていたのかもしれない。


 北海道に移り住み、高校生になってからも、年に一度故郷に帰省するたびに家族みんなで祖母に会いにいった。祖母が入った養老院の部屋は十二畳くらいの広さで、四人のおばあさんたちが、四隅にカー テンで遮られることなくともに寝起きをしていた。


 年老いても頭のきれる祖母が、会いに行くたびに祖母は赤子に還っていくさまをみせていった。キューピー人形にさまざまな服を着せ、小さな座布団をこしらえて、その上に人形を座らせていた。そしてときおり人形に話しかけ、まるで自分の子供のようにかわいがっていたのだ。子供や孫の顔の区別もつかなくなった祖母は、頭をぐらぐらさせながら、私の母に、

 「ほれ、一万円」

 といって、母になにか買ってこいと百円玉を渡した。母は困惑したような顔で、手のひらにのせられた百円玉をじっとみていた。その祖母の姿をみたとき、おばあちゃん、これからはもう悩んだり寂しく思うことがないんだねと、心の中で祖母に語りかけていた。


 私の知るかぎり、祖母は一度も寂しいとは口にしなかった。言い出せば皺の数ほどもあるだろうに、悲しみ寂しさ、そして喜びのひとつひとつを、ひっそりと皺という引き出しのなかに入れてしまっているようだった。


 

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