Ⅰ魔女の弟子

魔女の弟子(1)

 悪い魔女なのです。

 あの者は、人々を地獄へ連れ去る冥界の女王なのです。

 その証拠に、あんなにも大きな黒妖犬ヘルハウンドを連れている。ご覧なさい、犬と魔女の、この世のものとは思えぬ赤い瞳を。あの禍々しい血色の眼玉こそが、冥界より来たる者の証でありましょう。

 なれば村を脅かす恐ろしい流行り病は、あの者達のせいに違いないのです。死の象徴である黒妖犬ヘルハウンドを侍らせ森に棲まう傲慢な魔女は、村の豊かな暮らしと私達の繁栄を妬み、災いを齎したに違いありません。

 不老不死との噂ある、魔術師が束になっても敵わぬ魔女が相手となれば、残る手段は禁術にて封印するしかありますまい。今こそ覚悟が必要です。今こそ尊い犠牲が必要なのです。強き獣を贄とし悪魔の力を借り、彼の者へ決して解かれぬ封印を施すのです。


 ──おお、神よ。

 災いたる魔女を退ける術を求め、ただの一度きり悪魔に縋る我々を赦し給え。



 そうして勇気ある村の魔術師達は団結し、とある土砂降りの夜に捨て身の奇襲を仕掛けました。彼らは暗い森の中で、魔女の四肢を同時に切り落としたのです。強い雨が人の気配を消す代わりに森の匂いを濃くしていたので、幸いにも黒妖犬ヘルハウンドに致命傷を与えることにも成功しました。

 魔術師達が攻撃に用いたのは、森で狩った獣の王を贄とし授かった、強力な呪いです。その効力は確かなもので、魔女は文字通り手も足も出ないどころか、魔術で傷の回復を試みることもままなりません。魔術師達は十分に封じの呪いをかけておいた二つの棺桶の一方に、切り落とした魔女の手足を急いで投げ入れました。もう一方の棺桶には、四肢を無くした痛みで泣き叫ぶ魔女と、深手を負った黒妖犬ヘルハウンドを一緒に詰め込みました。

 元々は長身の魔女と大きな黒妖犬ヘルハウンドをそれぞれに封印しようと用意した特注の棺桶ですが、万が一にも恐ろしい魔女が復活してはたまりませんから、魔女の手足を別の棺桶へ入れて分けてしまうことにしたのです。


 懸命に悪い魔女を封じようとしている魔術師達の体は、衰えを知らぬ大雨に打たれてすっかり冷えきっていました。泥に濡れた震える手で蓋に釘を打ちつける間にも、魔女の狂おしい叫びが森に響き渡ります。それは冥界より響く呪詛のような恐ろしい耳障りでしたので、このやり方に異を唱える者は一人もおりませんでした。 

 悪しき魔女の血と雨で濡れた二つの棺桶を、魔術師達は信仰の対象としている神秘の湖へと運び、その底に沈めました。そうして三日三晩のあいだ湖の畔に留まり、飲まず食わずのまま神に祈りを捧げ続けると、精魂果てて一人残らず力尽きました。


 程なくして流行り病は落ち着き、村には平穏な日々が戻りました。やはり人々に死を齎す病は、森の魔女の仕業であったのです。

 村の大人は魔術師達の偉業を称え、湖の畔へ立派な石碑を立てて、勇敢な魔女退治の物語を子へと語りました。

 魔女が沈められた神秘の湖は、穢れなきものを空へと近づけ、悪しきものを底に沈める不思議な力を持っています。ですから、魔女が再び復活する日は未来永劫訪れないでしょう。

 もう、恐ろしい病の起こる心配などありません。


 めでたし、めでたし。




 

***



「なんて酷い話なのかしら。大昔の出来事とはいえ、こじつけも甚だしいわ」


 授業の半ばで読み上げられた古い伝承に、一人の女生徒が率直な意見を述べた。

 不満げに眉を顰める彼女はアデル・メアージュ。貴族の家柄の十九歳になる利発な娘で、家の反対を押し切ってこの特別教室に参加するようになってからは、意欲的な態度で授業に臨んでいる。この学び舎に足を運ぶ『未成年の独創者』の中でも特に真面目な彼女は、あまり人気のない歴史の授業でも最前列にて教授の話をノートに書き付けていた。

 視察の多い実技の授業以外は身が入らない者が多いというのに、アデルは座学での学びの大切さも理解しているようだ。教壇から少し離れた位置に座って教室全体の様子を眺めている皇太女、ウィステリア・シャルロット・ヴィエルジュから見ても、実に関心する態度である。


 未成年の魔術師向けに、王都で特別教室が開かれるようになって早五年。授業は週に二回、座学は街中の劇場近くに建つカレッジの一室を貸し切って行われている。

 今日集っているのは特級クラスの面々、十五歳から十九歳までの『独創者』の中でも特に魔術が完成されていると、高い評価を得ている者達ばかりだ。


 今しがた教授が紹介したのは、二百五十年前にこの地で行われたとされる『魔女退治』の伝承である。次期女王の立場であるウィステリアはこの逸話について、専属の教師からとうの昔に学んでいる。何せ自身が身を置く王宮は、件の伝承に登場する湖の上に浮かんでいるのだ。

 しかし、この手の古い伝承は広く周知されているとは言い難い。教室に集う生徒が全員若い魔術師である以上、ウィステリア以外の者が初耳なのは当然である。


「ええ、ええ。全くもってアデルさんの仰る通りです。いま紹介した伝承は、理に適ったものではありません。森に住む魔女と流行り病には、因果関係などあった筈がない。実際、この後にも再び疫病が発生した為に、かつてこの地にあったラーゴという村はもぬけの殻となってしまいました。この地への遷都が行われたのは百五十年前ですが、ラーゴが廃村となったのは、それより百年も昔のことです」


 教授は大きく頷いてアデルの意見を肯定した後、伝承の舞台である村の結末を明かした。そして一呼吸置いてから、更に説明を付け加える。 


「しかし伝承の『魔女退治』が起こった当時、凡そ二百五十年前というのは、魔術について本格的な研究が始まる前の時代です。魔力の高い魔術師ほど容姿に稀有な特徴が表れるという、今では皆さんでも知っている常識すらまだ普及しておらず、また、あなた方のような『独創者』なる存在を、誰も認識出来ていませんでした。近年の統計から鑑みれば、二百五十年前は今より遥かに魔術師が多かったと推測されます。にも関わらず『独創者』は同じ魔術師にすら理解されず、『師から魔術を学べない落ちこぼれ』、若しくは『異端の存在』とされていたのです」


 教授の話に、教室全体がざわつく。全員が『独創者』である生徒側からすれば、かつては落ちこぼれと評価されていたなど言語道断、聞き捨てならない内容なのである。


 『独創者』とはその名の如く、『独自の魔術を創造する者』を指す。

 全国民の僅か一割程である魔術の素質を持つ者の中の、更にひと握り。近年は時世の為に殊更王都へ集められているので、この教室にいる彼らは自身の特殊性を珍しくもないものと錯覚しがちであるが、実際は突然変異と言っても過言ではない程の希少な存在だ。

 通常であれば魔力を持って生まれた魔術師は、これと決めた師から魔術の法則と使い方を学んで成長していく。しかし、一般的な魔術法則とはかけ離れた魔術法則を各々が持っている『独創者』は、全く勝手が異なる。端的に言えば、他者からの教えが一切役に立たないのである。

 『独創者』にとって魔術とは、物心ついた時には自然に扱えて当然のものであり、より才能を開花させるにはまず自身の魔術法則の理解を深めていくこと、それからは、試行錯誤と訓練が重要となる。

 今も昔も『独創者』の魔術鍛錬とは、誰の助けも受けられない孤独なものだ。二百五十年前ならば、一般的な魔術法則が通用しない『独創者』の孤独は、今よりも更に深かったことであろう。

 そして人は、理解の及ばない存在を恐れるもの。その畏怖は魔力を持たぬ者でも、魔術師だとしても、原理は同じなのだ。


「では、教授。先程の伝承にあった、誤った制裁を受けた『森の魔女』とは、私達と同じ『独創者』だったのですね?」


 アデルが質問投げると、教室内に飛び交っていた私語がぴたりと止んだ。アデル以外の生徒も、授業の合間に紹介された伝承に興味を示している。全員が教授の言葉に、熱心に耳を傾けていた。


「断言は出来ませんが、そうである可能性が高いでしょう。どちらにせよ、彼女は並の魔術師達には及ばぬ高い魔力の持ち主だったが為に、周囲から孤立し誤解されてしまったと推測されます。赤い目を持つ者という記述が事実ならば、その魔力は測り知れません。齢七十になる私ですら、この目の色の魔術師の話は他に耳にした覚えがありませんからね。もしも彼女が現代に生まれていたならば、その実力を認められ、我が国を守る魔術師として活躍したに違いありません」


 教授の返答に、アデルが「ああ、なんてことなの」と小声で嘆く。しかし勤勉な彼女は、授業の内容をノートに書き記すことも忘れない。

 忙しく万年筆を動かすアデルの後ろで、頬杖を付いている小柄な少年が一言。


「俺なら旅に出るな。そんな古臭い信仰ばっかりの、自分が理解されない村なんか捨ててさ」


「そうですね。二百五十年前も同じような考えを持つ人や、不幸にも迫害を受けた魔術師、その味方になった人達がいました。そうした人々が寄り集まり、自由を求めて戦い自分達の為の土地を得て、建国した国がニコラシュ共和国です。現在我々が、長きに渡る戦争をしている隣国ですね」


「あっ……? そっか。だから敵国のニコラシュ共和国は、今でも周りの国と土地を巡って小競り合いしてんのか!」

 

「そういうことです。その昔、ニコラシュ共和国には様々な国から人々が移り住みました。彼らは貴族制度を廃し、魔術師への理解を深め、社会階層や生まれに寄らない平等な国を新たに作ろうとしたので、当時は政策に賛同する者が多かったのです。魔術師を多く抱える新しい国の勢いは凄まじく、大規模な魔術戦に周辺国は押されるばかりだったといいます。しかし人口が増えるにつれ、人種や思想の違いから、国内での紛争も起こり始めました」

 

 教授の解説が湖の伝承からニコラシュ共和国のものへ移ると、教室の空気がぴんと張り詰めた。

 この場にいる優秀な『独創者』が成人する頃まで戦争が続いていれば、必ず全員にヴェスパー王国軍から協力要請がかかる。好戦的な敵国から防衛する為には、他者に解析されにくい魔術法則を持つ、独創者の力がどうしても必要であるからだ。

 我が国では、魔術師の参戦は強要ではない。だがこの特別教室に居るということ自体、協力の意思があると示しているのと同義となる。

 

「各区で独立の声が高まるのに比例して軍が力を持つようになると、ニコラシュ共和国は次第に、始めの理想とはかけ離れた国へと変貌していきました。今やニコラシュ共和国は、魔術師をも強制徴用している軍事国家です。そして我が国と近接するミラージュ区、独立は困難と考えた彼らがその土地ごとヴェスパー王国への返還を望んだのを発端に、隣国と我が国の間には軋轢が生まれ、三十二年前の今日、長い戦争が始まりました。現在は戦火が町へ及ばないので休戦しているように見えるかもしれませんが、それは兵器での大掛かりな火力戦を行えないよう、国境付近で我が国の魔術師達が抑え込んでいるからです。戦争は魔術中心のものへ移行しただけに過ぎず、未だ正式に終わってなどいないのです」


 成人する二十歳を迎えれば、戦う為に国境付近に赴く。その時を想定して、この特別教室は開かれている。今ここにいる彼らは、我が国とニコラシュ共和国の歴史を学びながら、自身の魔術が戦争に於いてどれほど有用であるかを計っているのだ。

 実技の授業を時折視察にやって来るのは、交代制で戦場に身を投じている成人の魔術師である。その際に『弟子』に選ばれれば、彼らは特別教室での学びを続けながら、次代の戦争を担う魔術師としての準備期間に入る。

 特級クラスは独創者ばかりなので、視察にやって来るのもまた、独創者の魔術師のみであった。独創者同士では魔術を学べる訳でもないので形ばかりの師弟関係となるが、師となる独創者から戦況を聞き、敵の戦術を知るのは彼らにとって有益となる。そして師となる独創者は、後に『弟子』が国境へ出る際には良きバディとなれるかを重視して彼らを選定するのだった。

 特級クラスでは現在、魔術的にも性格的にも相性の良い魔術師に指名を受けた十数名が、既に師を得ている状態だ。


 王都に国中から優秀な魔術師の子を集め、強制的に弟子を取らせるこの制度は五年前に始まった。

 ウィステリアの母、女王としても苦渋の選択であった。ヴェスパー王国は工業技術の革新に力を注いできた国だ。周辺諸国に先駆けて、蒸気機関を発展させてきた自負がある。本来ならば争いを好まず、魔術師の持つ魔力を国力の糧とする考えはない。

 故に、隣国と同じ轍は踏まぬと長い間踏みとどまってきた。しかし相手は兵器のみならず魔術戦にも長けたニコラシュ共和国、戦争を終わらせる為にも、敵国に対抗する人材を得ていかなければならないと判断したのだ。


 ウィステリアは、今ここにいる彼らが戦場へ行かない未来を願っている。

 ヴェスパー王国は現在、ニコラシュ共和国と平和条約を締結させる為に、落としどころを探っている状況だ。双方の国と貿易がある大国、海の向こうの砂漠の国トレシュアンが一足先に調整役を申し出てきたが、次いで他国も様々な思惑から名乗りを上げてきたので、事態は戦争の始まった頃よりも複雑なものになっている。



「さて。話が逸れてしまいましたが、歴史に興味が湧いてきたようで何よりです。隣国との戦争の経緯は追い追い更に詳しく学ぶ所ですが、今日は私達の暮らす、この王都に纏わる歴史を学んでいきましょう」


 講義は教科書に沿った、我が国の歴史の授業に戻された。

 その内容は、既にウィステリアが王宮で学び得ている知識と相違ない。


 この辺りは二百三十年程前までは、広大な森であった。

 その森の中で、湖を流末とする内陸河川、及び、湖そのものを水源として暮らしていたのがラーゴの住人だ。森と共に在った、小さな村であったとされる。

 開拓の折に、ラーゴの村は朽ちた状態で発見された。森の外との関わりは稀であったようで、そこにあった独自の湖信仰の噂すら、国の中枢には届いていなかった。

 既に村の住人は一人も残っていなかったが、発見されたかつての日記や湖の畔に建てられていた石碑を元に調査が始まると、広い湖の底には膨大な魔力を帯びた磁鉄鉱が沈んでいることが判明した。


 そもそも自然の作り出す神秘である鉱物は、魔力と深い関わりがある。偶然にも好条件が重なれば、長い年月をかけてそれ自体が魔力を蓄え、魔石と呼ばれるものに変化してしまうことも稀にあるのだ。

 湖の底に存在した巨大な磁鉄鉱も、その類であった。湖へ注ぐ河川の水は気の遠くなる程の年月、僅かずつながら絶えず魔力を運び続けてきた。そうして底に沈む磁鉄鉱は、通常ならば有り得ない程の磁力と、人の力量では与えられぬ程の魔力を得たのである。

 その湖上で浮くのは、古き伝承にある「穢れなきもの」などではない。特定の金属だ。ビスマスとの間に驚くべき浮力が発生すると報告が上がれば、宙へ浮かべる形で王宮を建設する案が持ち上がった。湖の魔石が持つ神秘の力は、王族を守る天然の要塞に相応しいと判断されたのだ。遷都の計画はこうして始まり、森の開拓と合わせて豊富な水源を生かす水路が掘り進められ、無数の水車が造られ、住み良い王都を築くべく整備が進んでいった。

 斯くして百五十年前、湖の上に浮上する王宮を中心に、新たな王都は造られた。遷都が行われると、王族のみならず貴族院に属する貴族達も、新たな王都へと移住してきた。かつて王都であった地は、現在のヴァレリオス。今は研究都市となって、蒸気機関の研究開発で国を支えている町である。


「教授。僕、ヴァレリオスになら行ったことがありますよ。トリアングルム・エクスプレスに乗ると案外あっという間ですよね。でも、あんな蒸気の煙と曇り空ばかりの町が、昔は王都だったなんて信じられません」

 アデルと同じ十九歳である少年が、ヴァレリオスの印象を述べた。

 教授は一つ頷いて、彼の言葉に答える。

「ヴァレリオスは隣国との開戦間もなく研究都市と定められてから、我が国の蒸気機関研究を牽引し続けている町ですからね。水力を組み合わせて環境を保っている王都に住み慣れていると、そのように感じるかもしれません。しかしヴァレリオスも広い町です、注意深く見渡せば、今でも旧王都の名残を見つけることが出来ますよ。郊外には古い貴族所有の、綺麗な森だってあります」

「へえ、流石に郊外までは見なかったな。中心街が賑やかで、旅行者も多くて面白かったので。あの町はウィザード・コロッセオでの決闘も凄いんだ、王都以上に町の外から挑戦者が訪れるって有名で」 

「おや、決闘場の話が出ましたね。若い男子諸君は強い魔術師への憧れが殊更強いものです、皆さんの中にも、観戦がお好きな方もおられるのではないですか。実はこの、魔術師達の決闘場であるウィザード・コロッセオが各地に出来たのも、百五十年前の遷都がきっかけなのです」


 丁度良い、話の逸れたついでだとばかりに、教授は最後にウィザード・コロッセオについて語り始めた。


 この地が王都となった百五十年前は、まだ魔術師達の決闘が自由に行われていた時代でもあった。

 遷都を機に新たな法が定められていき、その中で魔術師同士の私的な決闘行為は禁止された。その際、国が魔術師達の不満を解消する手立てとして主要都市に設けたのが決闘場『ウィザード・コロッセオ』だ。賭け事の場となったのは、決闘自体を全て禁じて社会の近代化を目指したいと考える派閥からの反対意見を抑えるべく、税収を見込める仕組みにしたからである。

 観客は、一対一で決闘を行う魔術師を対象に賭け事をする。勝利した魔術師には自身に賭けられた額と比例する報酬を支払うが、掛け金からは一定額の税金も徴収される。その税金は全て公共事業に宛てられ、各都市の発展に一役買ってきたのであった。

 おかげで湖の周辺に集中している政府機関の建物は、予定よりも早く建設を終えることが出来たのだとか。


「はい、そろそろ時間ですので、今日はここまで。それでは皆さん、ユア・ハイネスへご挨拶を」


 授業の終わりを告げると、教授は一番最初にウィステリアの前へやって来た。

 座っているウィステリアの後方には、城から付き添ってきた護衛の者が二人立っている。教授は差し出したウィステリアの手を恭しく取り、唇を寄せた。仕草のみの、実際には口付けない手の甲へのキスは敬意を表すものだ。

 授業の最後にこうして全員の手に触れて挨拶を交わすことも、ウィステリアの大切な役割の一つである。


 一時の緊張した空気はどこへやら、ウィステリアの前へ並び始めた生徒達は少年少女特有の無邪気さで、人気の催し物であるウィザード・コロッセオの話に花を咲かせている。

 それでも護衛と教授の見守る中、座るウィステリアの差し出した手に触れて「ごきげんよう」と短い挨拶を述べて唇を近付ける時には、一人一人が畏まった表情を浮かべた。


「ごきげんよう。ユア・ハイネス」


 優秀な生徒の一人、ルカ・エルムンドの番が巡ってきた時、ウィステリアは手から伝わってくるオーラに少しの違和感を覚えた。

 ルカはウィステリアの一つ歳下の十六歳、誠実な人柄で裏表が無く、王族に対しても好意的であるのは間違いないのだが、どうもいつもとは違う感触がオーラに混じっている。

 皇太女であるウィステリアもまた、このクラスの者と同じ独創者なのだ。ウィステリア特有の力、それは手と手で触れた際に流れてくるオーラを通して相手の本質を見ること。何を考えているのか仔細に探るのは不可能でも、自分に何を求めているのか、その心の色はどんなものか、そういったものは相手の魔力の質と一緒に、瞬時に読み取ることが出来た。


 少し深くオーラを探れば、どうやらルカは何かを不安視しており、自身に質問したい要件があるようだと分かった。

 それまで儀礼的な挨拶と微笑みを返すのみだったウィステリアは、笑みを深めてルカに静かに問う。


「ルカよ。余に何か問いたいことがあると見えるが、どうかしたのか」

「……恐れ入ります。その……今朝方、我が師メセチナ・ブランシュより、王都に一度戻ると連絡があったもので。休暇はまだ先の筈ですし、あちらで何かあったのではないかと」


 ルカは、国境付近で戦う魔術師達の纏め役を担う、メセチナ・ブランシュの弟子である。選ばれたのは一年前、ルカが教室へ通い始めてすぐの事で、丁度その頃に一度だけ視察にやって来たメセチナの、正に即決であった。

 ルカは光に干渉して視界を操るという、戦場向きの能力を持っている独創者である。その上、中性的な美しい容姿で、あまり発言はしなくても自然と目に止まる存在だ。多忙なメセチナは性格面での相性など考慮せず、直感でルカを弟子に選定したのではないかと思っていたが、こうも弟子に心配されているとは。幸いにも、良い師弟関係を築けているようである。


「その件ならば、余も母上より聞き及んでおる。お主が心配するような帰省ではない。メセチナは、拾い物を届けに参るだけなのでな」

「拾い物、ですか……?」

「うむ。面妖な拾い物であるが、メセチナの頼みであれば母上も余も無碍には出来ぬ。城にて余が見定めよう」

「それは……。いえ。ありがとうございますユア・ハイネス。師が無事で安心しました」


 ルカは言いかけた言葉を飲み込んで、挨拶を終えた。

 言葉を選んで伝えたが、ルカはメセチナの人となりをよく知っている。故に、師の拾い物とはもしや人なのではないかと察したようだ。

 実際にメセチナは国境付近にて、外部の者を拾った。母である女王づてにその話を聞いたウィステリアは、メセチナが連れて来る者達のオーラを読み、処遇を下す手伝いをすることになっている。


 このような場所で出来る話ではない。

 何故なら連れられて来るのは、敵国の子供達なのだ。

 自分と同じような歳の頃の魔術師が四人、幼子が一人。ウィステリアは彼らの仔細を聞いて、やはりニコラシュ共和国の強制的な魔術師の徴用には不満が出ているのだと感じた。志願した魔術師のみが戦う我がヴェスパー王国と彼の国とでは、魔術師の置かれている状況が全く異なっているのだろう。ウィステリアは以前から隣国の魔術師の処遇に、同じ魔術師として思うことがあった。


 しかし敵国を経由して他国へ亡命しようとは、随分と大胆な計画だ。結果的に、彼らは友を一人失ってしまったようである。計画の発案者は余程無謀な者なのだろうか。

 呪われた魔術具である魔術銃を手土産に、敵国へとやって来た歳若い魔術師達。そうして祖国を裏切った彼らを信用して協力するか否かは、オーラを読むウィステリアの判断に委ねられている。

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