第38話 役目

 時計は朝がくる前の午前三時だった。ソルはアルマに軽く揺すられ、起きた。白衣を渡される。

「あなたは私の助手の医師という事にしましょう」

 難しい顔をしながらアルマはソルにそう言った。

「二時に陣痛が始まったお母さんがいるのだけど、赤ちゃんの動きが少し悪い。お母さんのほうの回復は私がするから、あなたは赤ちゃんが産まれたら、赤ちゃんにごく弱いリストーロをかけてあげて。あまり強い魔力だと赤ちゃんがかえって危なくなるから気をつけて。赤ちゃんに魔法を使う時は私が指示した通りにやってね」

 アルマは優しく言うが、魔法を高度に制御しないといけない難しい注文だった。強すぎる司教魔法が人体に悪い影響を及ぼすのはソルもわかっていた。ましてそれが産まれたばかりの赤ん坊に使うとなれば、ソルは緊張するしかなかった。

 ソルは白衣を身に纏う。あくまで新米の医師という事で、病院では過ごすようにとアルマの指示だった。

 分娩室にアルマとソルが入ると、一人の女性が必死の形相で悶え苦しみながら、すでに分娩を行っていた。助産師や看護師といったスタッフが真剣な眼差しで刻々と変化する妊婦やお腹の赤ちゃんの体調を気にしていた。

 アルマは妊婦の子宮口を覗き込む。まだ時間がかかりそうだった。

「お母さん、もう少しだけど。ちょっと一回休もう」

 アルマはそう言うと妊婦に弱いリストーロを使っていく。ソルが司教魔法を使う時はいつも魔力の出力を最大にして使う。だからそうして魔力を高度にコントロールして使う司教をソルは初めて見た。それは本来の司教魔法の使い方だった。

 分娩はなかなか進まない。妊婦は何時間も苦しみに耐え続ける。

 朝がきてしまった。アルマとスタッフはいよいよ難しい顔になっていた。妊婦の体力もそうだが、なにより赤ちゃんが苦しそうで弱っていた。

 ただ分娩自体はゆっくりだが進んでいた。

 朝の七時になろうとしていた。いよいよ赤ちゃんがお母さんの子宮から出てこようとした。

「せーの!」

 アルマの掛け声で妊婦は最後に力を振り絞った。赤ちゃんが子宮から出てきた。

 分娩室が静まりかえった。赤ちゃんの首にへその緒が巻き付いていた。すぐさまアルマがへその緒を外して、産声をあげない赤ちゃんの対処を素早く始めた。赤ちゃんは仮死状態で、アルマが対処してもなかなか泣くことができない。

「ソル先生、前言撤回。赤ちゃんは私が対処するから、お母さんに弱いリストーロをかけ続けて。ゆっくりでいいから」

 アルマの声は冷静だが深刻だった。お母さんの顔は青ざめていた。

 かなり時間が経ってから、赤ちゃんはなんとか泣いた。

 その出産を終えて一時間ほどしてから、アルマはお母さんとなにやら話し込んだ。ソルはその話を聞きたがったが、医師の部屋に戻り、待機するように指示された。

 お母さんの顔は出産を終えた喜びに満ちたものではなかった。

 それからアルマは朝の回診をした後、外来の診察へ向かった。ソルには看護師が一人つけられ、その看護師と産後で体力が落ちているお母さんにリストーロをかけていくように、アルマから指示があった。リストーロの強弱はアルマの作ったメモに書かれていた。

 午後の二時になっていた。アルマとソルは偶然廊下ですれ違った。

「あの赤ちゃん、何か障害が残ると思うわ。たまにあるの。お母さんがいくら元気でも、私がお腹の子も大丈夫と思っても、こういう事がね。あの子、一生、歩けないかもしれない」

 アルマはそれだけをソルに耳打ちした。

 もう夕方になっていた。ソルはやっと役目から解放された。もう魔力があまり残ってなくて、ソルにそれ以上できる事はなかった。

 ソルは外の空気が吸いたくなって、病院の玄関から外に出た。黄昏が見えていた。

 ソルは黄昏の美しさよりも、朝の赤ちゃんが気になって仕方なかった。

「ほら、兄ちゃん。頼むよ。病院の人だろ?」

 ひどく活舌の悪い、たどたどしい口調の男がソルに共和国の広報と新聞の束を渡してきた。明らかに体に何らかの障害を抱えているようだった。

「事務の人に渡してくれればいいからさ」

「事務?」

「そうそう」

 男の言葉がうまく聞き取れず、ソルは聞き返してしまった。

「どうした? 若いのに暗いぞ。誰か亡くなったのか?」

 男は人懐っこい。ソルは思わず朝の出来事を話していた。

「そりゃあ、俺と同じだな。俺も仮死状態で産まれたからな」

 しかし男はぴんぴんして動いていた。だが男の活舌の悪さは、障害のある人間を物語っている。足の他にも少し左手が不自由そうだった。

「そんなに悩むなよ、あんた医者だろ。よくある話じゃないのかい。それに障害があっても必ずしも不幸な人生とは限らない。共和国のいい所は障害のある者でも、できる限りの役目を与えるところさ」

 男は朝から晩まで何かを運ぶ仕事をしていた。

「元気出せよ。俺みたいな奴でも、結婚して子供までいるんだから」

 男はそれだけ言うと、また何かを運ぶ仕事に戻っていった。

 ソルが男を見送り、病院に戻ろうとするとアルマが立っていた。ソルが男と話をしているのを見ていた。

「楽観も悲観もできないのが、この仕事の辛いところでさ」

 アルマも美しい黄昏を見上げた。

「ああは言ってくれたが、彼にも彼にしかわからない障害の苦しみはあるだろう。今日産まれた子もどうなるかまだわからない。病院には色々があるんだ」

「アルマさん、なぜ自分の魔法を、あの赤ちゃんにかけさせてくれなかったんですか?」

「ああいう子にあたると、何をしても後で悩んだり、苦しんだりするからね。何がいけなかったんだろう、何か自分のせいじゃないのかって。そんな役目は十五歳の人間には重すぎるし、早すぎる」

「アルマさんでも悩んだり、苦しんでいるんですか?」

「ずっと苦しんでいるよ。医師になってから毎日、何かが起きて、何かに襲われてきた。精一杯やってきたけど、大きな間違いも犯してきた。きっと私は呪われていて、死ぬまでここで医師をやるんだと思う」

 アルマの顔に少しの陰りが現れる。消そうとしても浮かんでくる陰りだった。

「でも命が産まれてくる仕事はいいもんなのさ」

 アルマはそれだけ話して、先に病院の中に戻っていった。ソルの様子が気になって、探していたと後で話した。人手不足が解消しないうちに、人質に逃げられては困るからだと冗談を言ってきたが、ソルは人が産まれてくる現実を知った後では笑えなかった。

 その後もソルは病院でひどく忙しく使われた。夜も昼も関係なく、出産がある度にソルは魔法を使いながら、出産の基本を教わっていった。確かに出産は尊いものだった。赤ちゃんの産声にソルは何度も感動し、お母さん達からは信じられないくらい感謝をされた。

 ただソルが付き添わなかった出産では三日間で、一人お母さんが亡くなり、一人の赤ちゃんが亡くなっていた。ソルはただ運がいいだけであった。

 そして病院にいれば、自然とそういう話もソルの耳に入ってきた。

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