4月30日(日)仁井田奈美

部屋に戻ってから、読みかけの漫画を全て読み本棚に戻す。そして栞を枕元に置いた。

これは絶対に忘れちゃいけない物だ。


時計を見ると23時を少しまわっている。

ソファに座り、すぐ横になった。

チューハイを飲んだからか、少し酔ってるのが自分でも分かる。


母はもう寝てるだろう。私ももうすぐ元に戻る。

期限が決まってるからこそ、やりたい事ができたし悔いはない。充実した体験が出来た。


ソファで寝てしまう前にベッドに行くことにする。

電気を消して、栞を手にしてベッドに横になる。

離れないように両手でギュッと栞を握りしめる。

目を瞑り、自然に眠くなるのを待つ。


深い眠りに入り『怜』としての『奈美』は終わりを迎えようとしていた。
















「仁井田奈美さん、仁井田さん、聞こえますか?」
















奈美はゆっくり目を開ける。

見たことのある景色にすぐに気付く。

すごく眩しくて目が開けられない…




「仁井田さん。大丈夫ですか?起きられますか?」


聞き覚えのある声。面接官の声だ。


ゆっくりと起き上がる。そこはベットの上だった。

(ここ、試験会場の『休憩室』?自分の部屋じゃないの?何で?)




「すみません。ここって休憩室ですよね?どうして私ここにいるんですか?」

「はい。…実は、これまで仁井田さんが擬似体験した事は全て仮想現実の世界だったのです。」

「え?仮想ですか?」

「はい。体が入れ替わったのではありません。お二人の脳を操作して、脳が疑似体験を行っていました。擬似体験中に行ったことは、現実社会に影響はありません。ですが、稀に変わる所が出てくると思われます。」


奈美は面接官の言葉を頭の中でゆっくりと繰り返す。


「現実だと思ってたものは全て仮想世界での事だったんですね。」

「そうです。さっき飲んだ薬は、脳が仮想現実を体験する薬なのです。」


母との事もサキとの事も全て仮想だったなんて。

あ…だとすると、あのお揃いの栞も仮想なの?


奈美は自分の手元を何度も確認する。桜柄の栞は無かった。


「色々と驚いてしまって…母とのお揃いの栞も見当たらないし、やっぱり仮想だったんですね。さっき飲んだって事は、まだそんなに時間が経っていないんですか?」

「はい。ほとんど時間は経っていません。」


急いで時計を見る。

(15時30分前って事は、怜さんと電話してからまだ20分位しか経ってない。)


男性はニコッとほほえみ、

「仮想現実が一日とすると、現実社会では約30秒です。ですので、実際は数十分間だけの経過になります。」

「それだけしか時間経ってないんですか。しかもあんなにリアルな仮想世界って…凄いですね。」

「はい。我が社自慢の薬ですので。」

そう言うと嬉しそうに笑う。


「じゃあ、怜さんも私と同じように仮想現実を体験してたんですね。」

「そうです。二人の脳を操作するには、同時間に飲んで頂かないといけないですので。詳しい話はこれくらいにして…仁井田さん、擬似体験はいかがでしたか?」

「はい。まさか蓋を開けてみると仮想現実だとは思わなかったですが、すごく楽しかったです。自分の世界が広がったような気がします。」

「それは良かったです。あっ、仁井田さんに最後にお願いがあります。」

「何ですか?」

「この事は、擬似体験した方と我が社だけのヒミツになります。ですので、これまでの擬似体験を全て忘れて頂く必要があります。意義はございますか?」

「え?体験した事はまったく記憶に残らないんですか?それはちょっと悲しいですね。」

「すごく楽しそうに過ごされてましたものね。申し訳ないですが、当社の決まりになっておりますのでご理解頂きたいです。」

「そうですか。仕方ないですね…。」

「はい…。では、これから仁井田さんを家に送り届けます。そうしたら、すぐご自分の部屋に戻って今から渡す薬を飲んで下さい。」


そう言うと、面接官はポケットからビンに入った赤い飲み薬を取り出す。

さっき飲んだ薬と同じ位の量だ。

奈美に渡し、すかさず念を押す。


「良いですね?必ず部屋に戻ってスグに飲んでくださいね。」

男性の初めて見る真顔が少し不気味に感じた。


「はい。分かりました。」

奈美は急いで返事をした。




帰る支度をし、行きと同じように目隠しをされる。

今度は赤いアイマスクだった。

約1時間半車に揺られる。行きとは違い、あっと言う間に家に着いた。


車内でアイマスクを外す。運転手に礼を言い、家に戻る。外は薄暗くなっていた。




「ただいまーって言っても誰も居ないか…。」

この間まで母が『おかえりー!』と言ってくれた。

色々な楽しかった思い出を全部忘れないといけないんだもんね。


ダメだ。干渉に浸ってる場合じゃない。

カバンから飲み薬を取り出す。


蓋を開けて一気に飲み干した。




「ねぇ!ちょっと、大ニュース!はい、これお土産。」

「なに?早く教えて!」

「遊園地デートで観覧車に乗ったのね。そしたら一番上に行った時、シンジからプロポーズされちゃった!」

「えー!良かったねサキ!いいなぁ〜ドラマみたいじゃん。で、何て返事したの?」

「最初ビックリして言葉が出なくてさ。でもすぐに返事したよ。よろしくお願いします、って!」

「おめでとー!」

良かった。サキには絶対に幸せになって欲しい。






携帯が鳴った。コウタさんからだ。

「久しぶりー。元気してた?」

「はい。元気でしたよー。」

「この間彼女から電話きたって話したよね。すぐに荷物取りに行って、少し話せたんだ。」

「そうなんですね。どうでしたか?」

「いやぁ、見事に振られたよ。何回振られるんだ〜って感じ。さすがにもう諦めようと思ってさ。この間相談に乗ってもらったから、一応報告と思って。」

コウタさん何だか吹っ切れた感じ。前に進もうとしている。






パッと目を開けると、ベッドに横たわっていた。

手には見覚えのない空のビンがある。

え?何これ。


夢に出てきた人…確かサキ、あとはコウタだったかな。いったい誰だろう。知らない人だ。


ん?ビンの下に何かある。

桜柄の栞だ。すごくキレイだけど…自分で買った覚えがない。

でもこれは自分が使うべき物だというのを感じる。


本棚に桜柄の面が見えるように栞を立てる。

不思議だ。この栞を見ると、守られてるような気持ちになる。優しい気持ちになる。


今日は長い間夢を見ていたような気がする。

ンーっと大きい背伸びとアクビをして、深い深い呼吸をした。











現実社会に戻り数日が経った。


今日もいつものように営業スマイルで過ごす。


「お疲れ様です。奈美さん、聞きましたか?」

「ん?何?」

「あの細川さん、詐欺で集団訴訟起こされるらしいですよ!」

「え?そうなの?」

驚いた。詳しく聞くと、色々な女性に声をかけてお金を騙し取ってたみたい。


細川は解雇処分になり、奈美の前に姿を表すことはなかった。




「何か最近奈美ちゃん笑顔増えたよね。」

「確かに。楽しそうで何より。」


社内の雰囲気も前より良くなった気がする。

最近断ることも覚えた。一旦口に出してしまえば、次からは遠慮なく言うことができた。

こんな簡単な事だったんだ、と奈美は思う。


そうだ、久しぶりにお母さん達に会いに行こう。たまには顔見せないとね。

何故だが分からないけど、前よりも自分らしくいられる。そんな毎日が今とっても楽しい。

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