第3話 マリアの声
ミャァミャァ「あはは」ミャァミャァ「マリア、彼女はそんなんじゃない」ミャァミャァ「焼き餅を焼くなんて変だよ」ミャァミャァ「相棒かな」ミャァ?「作家と編集者は」ミャァミャァ「そんな関係」
想いが強いほど、心の音は、その色を濃くする。
若い頃、故郷を逃げ出した
心の声を網膜に映すような謂わば奇形みたいな存在は、どちらにせよ、どこで暮らしたとしても、生きづらいはずである。ただそれが呪われた能力であるとか、人生を成功に導く大層な代物かと言えばそうでもない。いまさら総理大臣にはなれないし、相手ピッチャーがどの球種を投げるか知れても致命的に反射神経の鈍い喜人は空振りするだけだろう。想像すればよくわかる。生活するうえで時たま不快な思いをして、己に関わる人間のすべてが、本音しか話さない豪快な
直ぐ帰ると言った泥棒猫みたいな女は、長居して散々粘って去り際、あたいの体をひとしきりこねくり回し帰って行った。
もう日が陰る時刻になっている。ぼんやりと夕刻の色合い。
随分と酷い言葉を目に映したはずなのに喜人は、やけにほがらかで、珍しく片笑みさえ浮かべている。
シンプルな配線で纏められたオーディオセットのプレイヤーにお気に入りの一枚をセットする。小型の
スピーカー本体の
You say that it’s ミャァミャァ, ミャァ
You say that it’s ミャァミャァ
But ミャァ you hang around ミャァ, ミャァミャァ
Won’t ミャァ move over
喜人と知り合って十年以上が経つ。当初は若さの欠片を残していたが、ここ最近は老け込む一方だ。痩せ細り体躯は頼りなく、けれど久々関西へ出向き帰ってきてから喜人は少し昔に戻ったようだ。表情が和らいだ。
「マリア。これでいいかな? なにかリクエストはあるかい?」
☆ミャァミャァ
「はは、ちょうど俺と同じ気分だったか」
そう言うと、喜人はジャニスにぴったりの情熱的な小鉢に鰹節を入れてくれる。
自分は食べないのに、名高い築地の仲卸から特上の鰹節を取り寄せてくれる喜人があたいは好きなのさ。come on now~♪
小判ではなく鰹節。それは哲学だ。猫に鰹節とは、油断できない状況を招くという意味のことわざ。猫のそばに好物の鰹節を置くとすぐに食べられてしまうから。
けれど危険だからと逃げてばかりでは人生は切り開けない。
「ありのままをリアルに……」
喜人は庭を眺めている。
泥棒猫は誤解をしてたが、借家からこの家を買い取ったのは、ごく最近のことさ。
梔子の香りのする風が髭をくすぐる。あたいもこの甘い刺激臭は嫌い。だけれどもこの庭が無くなれば、うんちに困る。一方的な解釈は、時にお互いの齟齬を招く。
鰹節から顔を上げると、いつのまにか喜人は執筆用の座椅子で目を
くだらないね、喜人。心の底に溜まった泥が、渦を巻いて流れたなら素直に喜べばいい。おまえはもう解放されていい。
喜人が語った物語なら、そのストーリーはもう次の章に移っている。
その男にどんな罪があったのか? おまえにどんな罪があったのか?
声を
老舗を維持する苦悩。家庭を持つ責任。自分より腕のいい兄弟子を抱える辛さ。
干瓢を炊く女によっぽど惚れてたんだろうね。それでも仕事の喜びをみつけ、客を喜ばそうと苦心する人柄。相応以上の苦悩を尊敬してたんだろ? 荷物を持たない、自分と重ねて……
誠実で、朗らかで、家族のために自分を殺し、頑張ってた、そいつが好きだった。
だから通ったのだろう?
☆お父ちゃんがそんな仕事をするはずがないっ!
だけど、あの文章は相手を傷つけるためだったのかい?
おまえは友人に考え直してほしかった。道を過たぬよう苦言を呈しただけだった。
確かにおまえは見誤ったのかもしれない。おまえ自身も時代の空気に翻弄された。
密度とすれば東京と比べても遙かに多き、老舗の数。濃くて圧倒的で、
そこに潜む、悪意、妬み、勘ぐり、足の引っ張り合い、それを
甘く見過ぎた。そこに想いが至らなかった。
けれどおまえは、言い分けをする為にあの店に行ったのかい?
おまえは、彼女から、職人としての正統な復讐を受けたっ!
歴史的名盤には退屈させない仕掛けがある。最初のトラップに引っかかったまま、B面のラスト Get It While You Can。三分ちょっとの短い曲だ。いつの間にレコードひっくり返したんだい? 喜人。
針が離れ、トーンアームが持ち上がり静かに元の場所に帰ってゆく。
それと同時に空はすっかり藍色さ。
☆ミャァミャァっ!
鰹節もレコードもおかわりだ、喜人っ!
「わぁ~いっ! マリアちゃんが、またいたのですぅ~!」
☆!
なんだこの女っ! もがいてもぎゅっと抱きしめられて動けない。
小娘のくせになんてフィジカルだいっ!
「忘れ物?」
「いえ。話し足りなかったんで直帰にして戻ってきちゃいました。たまにはお酒でも一緒に飲みましょう」
「そうか……どうやら君は猫が好きみたいだね。その猫も君のことが好きなようだ」
☆ミャァミャァっ!
鼻白む。若い娘が一升瓶かかえてどういう了見だいっ!
あたいは女の手を逃れ、ひらり庭のバイクに飛び乗る。
「先生、あのバイク動くんですか?」
「さぁ、もう長いこと動かしてないから……」
時代は変わる。生まれて直ぐあの天まで届く高い塔が聳えたときは驚いたもんさ。
たかだか50年生きたからって、達観するんじゃないよ喜人。
業というのがあるのなら、他人の心を聴く能力は、確かに業そのものだと言える。
なのにおまえの声は誰にも届かない。無垢の魂は孤独だろう。
自由とは責任を負うこと。それができないから、おまえは寂しさをを受け入れた。
そんなもの始めからありゃしない。いいかげん、
☆ミャァミャァっ!
この巨大な蠅に乗ればいい。目的の場所に飛んでいけるだろ?
おまえがあの店に行くことは二度と無い。それはわかってる。
こら小娘っ! 勝手にレコードを入れ替えんじゃない!
センスのない女だね。あたいはロックが聴きたいのさ!
けれどまあ、ものは試しだ泥棒猫に曲を選ばせてやる!
日本酒なめなめ、今夜の選曲は お ま か せ
その声に救われたなら、店の外からだっていいさ。
☆どうぞまたお越しください。
真実の声を求めて喜人、そのバイクを走らせろ。
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