第2話 夏希の声
ぽかんと空を見上げると、
彼氏ほしいかなぁと思ったり、思わなかったり。
そんなこと考えてもしょうがないので、またてくてくと歩く。
再開発からも取り残されたまるでビルの大波に飲み込まれる孤島みたいな下町に、そのぼろ家は建っている。黒く蠅みたいなバイクが一台、猫の額ほどの庭に放置してある。半透明のカバーが、長く雨風に晒されて、くすんでしまっている。
イメージではないけれど、昔はこれを乗り回していたのかしら? ミャァミャァ
「先生。たしかに原稿をお預かりしました」
「悪いね。データを送れば済む話なのにわざわざ来てもらって」
「いえいえ。弊社からすぐ近くなのでなんてことありませんよ」
☆鬼の編集長から一時避難できるし~
「私みたいな古いタイプは少ないだろうね」
「そんなことないです。対面で意見が聞きたいって先生は他にもいらっしゃいます。ですが、
……にしてもなにもない家である。冷蔵庫すらない。先生は家では食事をとらない主義で、食器棚も電子レンジも炊飯器もない。当然、ウォーターサーバーなんかあるはずもなく、水は裏手に井戸があるそうで、出されたお茶はおいしいけれど、井戸の水なんか衛生的に大丈夫なのだろうか。水道水でいいのに。
「構わないんだ。物書きなんてのは、書き上げ直後は右も左もわからなくなる。宇宙空間に漂ってるみたいにさ。目の前で原稿を読んでくれるだけで地に足が着く。その原稿はあたりを付けただけなので、二三カ所修正して今度こそメールで送るよ。実は悩んでいるんだ。前半の
「え、えーそうですね。うちの雑誌は珍しく若い読者が多いので……料理人の方とか
……参考にしているので……若干ですね。その方がとっつきやすいかもしれません」
「それと編集長から頼まれた生のズワイガニを使った蟹チャーハン。下品かな?」
「え、えーそうですね。神々の遊びと言うか超高級店すぎて現実味がないと言うか。親近感がなくてですね、女性ウケは良くないかもしれません。写真も思ったより地味なのでメインを張るネタではないような。できれば……中途半端な後ろの方に」
「そうだね。君に任せるよ」
「はいっ!」ミャァミャァ
☆よし! 誘導成功! それならいい感じっ! 編集長は適当に誤魔化せっ!
☆そこじゃない。もっと尻のほうだ! 尻のほうが痒いっ!
「猫ちゃん懐いてますね。近所の野良猫でしょ?」
「便利に使われてるだけさ。所謂、かゆいところに手が届くってやつ」
「はい? あ、それとですね」
原稿のページを捲ると、先生が大きく瞬きを一つした。それは先生の癖である。
☆機嫌を損ねないように~と!
「このシークレット取材をメインに据えてはどうでしょう。東京でも女性の鮨職人が増えて話題になっています。華やかで、パッと花が咲いたような、笑顔が素敵です」
☆ウケるネタ持ってくるのが、鉄則&鉄則ぅ~!
「その写真は隠し撮りだから使えないよ。取材のオーケーを貰わずに店名もださないからシークレット取材。だけど、どこの店かはすぐにわかるところが……味噌だね」
「うーん。いまからでも正式に取材の申し込みできませんか」
「……それは恐らく断られるだろう。しかしあんな写真をいつ誰が撮ったのやら……ふふ」
「はい? んー
「問題ないよ」
「へー若いのにこの大将、相当な腕前なんですね」
☆すっぴんなのに綺麗よねぇ。私より年上よね?
「いや写真の右端に老人が見切れてるだろ? 星はその職人の値段さ」
「あーそうなのですね」
「先々代の一番弟子だった男でね。十年前には、既に名人だと言われていた。だから本来、そのときに星は獲っていたはずなんだ」
「でもこの職人さんが大将じゃないんですよね」
「職人の世界だから、親方と呼ぶべきかな」
☆
「職人には変わり者が多いのさ。自分の店を持ちたいと思うのが普通だが、頑なに、雇われにこだわる人間もいる。前に特集した流れ板にもそんなのがいただろ」
「包丁一本~♪ 背中に刺してぇ~♪ の世界ですね」
「そ。三番弟子が先々代の一人娘と所帯を持ち入り婿に入って親方になってからも、独立することもなく、独り身を通してずっと同じ店で働いている」
「先生、詳しいんですね。このお店の取材、今回が初めてだったのでは?」
「いや……随分と昔のことだけれど、関西に出向く折りには必ず立ち寄る店だった。仕事柄、同じ店には行かず、新規の店を開拓しないといけないのだけれどね、ふふ」
「やはり名人のお鮨を目当てにですか」
「いや……味ではなく人柄に惹かれて……かな」
「この職人さん、責任を持ちたくないニュージェネレーションの先駆けかもしれないですね」
「なんだねそれは」
「立場も家庭も手に余ることは最終的には人に迷惑をかけることになるから最初から求めない。持てない荷物なら最初から持たない。できる範囲を誠実にこなす。無責任かもしれませんが……それって繊細さの裏返しでもあったりするんですよね」
☆この微妙なニュアンスは伝わらないだろうな~
「わかるよ。人生において手に余る荷物を背負うことは誰だって不安で怖いものさ」
「あれ? でも先生! この大将……女性の親方のお鮨しか食べてないですよね」
☆ちっくしょう~どうして女子高生みたいな肌なのよっ!
「そうだね」
「十年経ったらその職人さんの腕が落ちてたなんてことありません? そんなのよくあるじゃないですか? 流行ると急に髭生やして仁王立ちするラーメン屋のおやじ? いるじゃないですか。そんなの紹介すると先生の傷になりますよ」
「はは。君は面白いことを言うねぇ。いやなに、慢心? 増長? よくあることさ。けど心配ない。客の声に耳をすませば、その佐久間って職人の腕が十年前よりさらに磨かれたのは明白なのさ」
「なるほど、お客さんの反応が上々だったのですね」
☆お酢か_!? お酢の力なのか_!?
「けどやっぱりこの肌の綺麗な……親方をメインにすべきですよ」
猫を撫でたいのだけれど、猫はちっともこっちに近寄ってこない。ミャァミャァ
「本人も自覚していることだが、腕はまだまだヒヨッコ。星には遠く
「けど先生、褒めてません?」
「素養はある。こればかりは先代の親父さん譲りかな。探究心と言おうかアイデアがある。奇妙な店だよ。腕の立つ職人が、
「はい? 意味がよくわかりませんが……」
「君は、
☆また蘊蓄がでた~! グルメ雑誌の編集者を舐めんなよっ!
「煮付けだと冬の子持ちですが、お鮨にするならズバリっ! 夏。これからですね」
「よく勉強しているね。一般的にはそうなんだ。だけど日本は海にぐるりと囲まれている。気候や海底の地形、水温、塩分濃度。世界的にみてもこれほど複雑で多様性を有している国はない。海域や漁法が違えば思わぬ季節に思わぬ美味に出会えることもある。なのでひょっこり、絶品の真子鰈に春、出会うこともある」
「はぁ」
「だからこそ
これは一体、なんの時間? 意味不明。猫ちゃんも先生の側を離れない。だけど、要約すれば才能ありってことでしょ? なら編集者としての
「やはりこの女性を前面に押し出しましょうっ!」
「それは無理だね。ネタとしゃりの温度。握りの具合。こればかりは、努力だけでは届かない。才能だけでも辿り着けない。そんな境地なのさ」
「先ほど褒めてらっしゃったじゃないですか」
「懸命に励んではいる。状況によりその都度、対応を変え、しかも一貫性を持たせてはいる。けど職人の世界はそんなに甘くない。過分な評価は却ってマイナスになる。人の興味を引く噂はすぐに広まる。だけど意図した所とは違う方向に、流れを変えることもある。人の波を泳ぐことは難しい。曲解され、都合よく塗り替えられて、思い掛けずボタンを掛け違うように、誰にも制御できない時代の空気に翻弄され、それが取り返しのつかない結果を生むこともある」
だからこれってなんの時間? 屁理屈だ! そうやって男社会の中で女は埋もれていく。女性を
「ふふ。偏見と立ち向かうには、敵意だけではだめなのさ」
「はい? えー。えーっとですね……」
☆編集者としての仕事とは? この分からず屋を導く、聖母マリアになること。
「実はシリーズ化を狙っています。SNSで個人が情報をいくらでも発信できる時代ですが、一過性の脚光を浴びたとしても、彼ら彼女らの多くはやがてすぐ飽きられて傷つき散っていく。留まることを知らない流れていくだけの浮ついた無責任な存在ではなく活字で、プロとしてその内容に責任を持ち、その存在を、生き方を、必要な人々に届ける。そのためにもアイコンが必要です。必死にがんばっている女性は沢山います。銀座にも地方にも沢山います。なので、この親方を……」
☆どやっ!
「立て板に水だね。編集長に何か言われてきたのかな? プロが、
☆会話が成立してるようで成立してなぁぁぁいっ!
「それはそれでいいんです。名人と呼ばれる職人と若き女性の親方。話題性だけでは続きません。そこにドラマがないと。絶妙な組み合わせだと考えています。そもそもこのお店はどうして十年前、星を獲れなかったんですか? なにか問題でも」
「店に不幸ごとがあってね。それで見送られた。当時はその他にも色々あったんだ。君達にはもう当たり前のことだろうが、日本で初めて飲食店に対する格付けの概念が海外から持ち込まれたのがその頃だった。東京エリアが最初だった。一種のブームとなった。それから二年後。アジアでは三番目となる京都・大阪エリア版が発売されることとなった……」
「あーそれってわりと最近のことだったんですね」
「関西には格式のある店が多すぎた。名店と言われる店ほど色めいた。そんな勝手な評価など問題外だと口では強がっても、万が一取りこぼせば、陰でなにを噂されるかわからない。疑心暗鬼、勘ぐり、妬み、あらゆるものが渦巻いていた、時代の空気。もしかすれば料理界だけじゃなく、それを取り巻く我々もなんらかの熱病に冒されていたのやもしれない」
☆それって、今回の取材と関係あります?
「当時は、笑えるような噂が横行した。調査員は二人組。明らかな外国人と日本人の組み合わせ。別々の料理を注文し、食べ終わったら皿を持ち上げ裏側まで確認する。食べるのが仕事だから、間違いなくデブには違いないなんてね、ふふ。だから当時、
☆この二人連れの客は調査員だろうか? 噂と酷似している。どうする?
☆なんとか佐久間さんの席に……どうにか回せないか。せめて……俺がっ!
☆目の前の客は、頻繁にではないがもう何年も通っている。外して、俺が握るっ!
狭い庭を風が通り抜ける。一本だけ根付く
その花は健気で、可憐で、風情はあっても、今の東京にこんな庭は必要だろうか?
☆持ち家があって年金もあって、逃げ切れる世代はいいよね。
「今回はシークレットで構いません。ですが私は継続して取材してゆきたいのです。彼女たちの成長を追いかけ、その人生を雑誌に
☆雑誌は売れなければ意味がない。
☆新しい読者を獲得しないと生き残れない。
☆教養に胡坐をかいたぬるま湯の虚構はいづれ飽きられる。
「私があの店を取材することはもうない。いや……できないんだ」
「でしたら、僭越ながら私に取材を続けさせてください。ありのままをリアルに」
「ありのままをリアルに……」
☆理屈じゃ雑誌はもう売れない。
「なんだか物々しいね……それが君の荷物になるのかな? どうやら編集長の意向でなく君自身の企画のようだ……無論、新しい人には新しいアプローチがある。いや、たとえ同じことでも古い人間がやるのとは意味が違うかもしれない。青飛びのように偶然、混じり合い、やがて新しい価値観が……」
その話まだ続く? 今日はいつにも増して先生の蘊蓄と瞬きが多い。はぐらかされても食らい付くつもり。オーケー貰うまでは帰らない。文筆家の領域を編集者が侵害することは
パチン。先生は一際、大きく瞬きをして言った。
「そこに彼女が選ばれたわけか。確かに取材対象としては魅力的だ。時代が変われば職人のあり様も変わる。付け場に立つ、彼女は、まるで女優さ。自分を殺し、雑念を廃し、己自身を鼓舞して、まるで別人になり切り舞台でセリフを吐くように目の前の客に呼応する。自らを職人としての高みへと導く、自己演出の
☆?
これ禅問答なの? 叩いたら甘いかどうか答えてくれる
☆仕事じゃなく夢になるかもっ!
庭を眺めてた先生が、空を見上げぽつりと「よろしく頼む」と言った。
やはり禅問答だった。つられて見上げても、虹は架かっていなかった。
切子の青みたいな空があるだけ。染め抜かれたような青空があるだけ。
☆ちっくしょう~やっぱ当分、彼氏いらないっ!
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