G’sこえけん」音声化短編コンテスト参加作品。

第1話 京香の声

 縁側のラタンの椅子に揺られると、猫のひたいほどの庭をそよそよと風が抜ける。そいつは無断であたしの頬を撫でてゆく。き季節かな。季節はいつだって良き、なんだけど。


 いつのまにか……誰かさんと同じように過ごしている。『戦闘終わりに銭湯や!』お父ちゃんはいつもそんな駄洒落を言っていた。ランチタイムの喧噪けんそうを終えれば、決まって近所の銭湯におもむきき、風呂上がりの火照った体をここで冷ませていた。

 その習慣をそっくりそのまま、あたしが引き継いだ。


「疲れてるんじゃない?」台所からお母ちゃんの声がする。


「大丈夫やよ」目を瞑ったまま静かに答えた。


 まだ日の高い時分の銭湯の光こぼれるお湯に浸かれば、疲れは吹き飛ぶ。

 揺り椅子で寛げば――銭湯終わりに戦闘や!――熱い気持ちが自然と湧いてくる。



 店に戻り仕込みを済ませてから、表に出て暖簾を持ち上げ石畳に皿を置く。カツッカッ。本当は叩いちゃいけないのだけれど、そこに逆さまにカップを叩きつけそっと持ち上げ、盛り塩をしつらえる。縁起良き。綺麗に富士山みたいな形になった。さてと、気持ちを引き締め白い和帽子を整える。


「開店します。よろしくお願いします」

「あぃよぉ~親方」

 佐久間のおじさんが気負いなくのんびりと返す。

 お父ちゃんが亡くなり、大半のお客様は、佐久間のおじさんの鮨を食べに来る。

 まだまだ、あたしは半人前の親方だ。


「失礼します」

 見習いの三好君が、板氷を敷いたケースの上にネタ箱を並べていく。どれもこれも素材の味を引き出す江戸前の仕事がなされた輝くような逸品ぞろい。

 だけどこの瞬間、いつもあたしはちょっとだけ不安になる。


 あたしが付け場に立つと、露骨に嫌な顔をするお客様もいらっしゃる。握る前に、金沢のどこそこで見習いをしていたとか、東京の名店で5年修行しましたとかそんな説明をする訳にもゆかない。何とも言えぬ気まずさのうちに鮨を握ることもある。

 時には下心なのか下世話な興味なのか、あれこれとしつこく、旨い旨いと大げさに吹聴するお客様もいる。


 鮨の歴史は、男の歴史。

 理屈ではなくそれを肌で感じる現実があるからこそ、それも受け入れて誠心誠意、握るしかない。心をけして固くせず……『この店の親方は、嬢ちゃんです』と言ってくれた佐久間のおじさんと交わした唯一の約束……やわらかくしなやかに。

 それがこの店の流儀。偏見と立ち向かうには、敵意だけではだめなのだ。



 しかし開店前の些細な胸騒ぎは、その日、本当になった。



「いらっしゃいませ」

「予約はしてないんだが……」

「大丈夫ですよ。8時からは予約が立て込んでますのでそれまででしたら」

「はは。そんなに長居はしないつもりだ」

 一見いちげんのお客様に三好君が応対している。ん? なぜかそのお客様は佐久間のおじさんの受け持ちの席へと案内する三好君の手を無視して、長い白木のカウンターに沿ってゆっくりと歩いてくる。次板の松浦さんの付け場も通り過ぎ、やがてあたしの正面に立った。

 お客様自ら椅子に手をかけたので、慌てて三好君が恭しく椅子を引く。

 

 いまでこそあたしの馴染み客も増え、ファンだと公言してくださるお客様もいる。

 でもそれは名人の域に達している佐久間のおじさんや京都で20年修行した次板の松浦さんとに比べれば、少し甘めのご贔屓なのだ。あたしの腕はまだまだヒヨッコ。

 

「付け場に職人が三並びとは。聞いていたより大所帯ですね」

「どなたかのご紹介ですか?」

「噂だけだよ。近頃、新進気鋭の女性の鮨職人がいるってね」

 噂とは不思議なもの。店は小さくしたのだ。一階の小上がりと二階にある宴会場を潰しカウンターとテーブルだけの店に改装をした。狭いながらも天井高く空間演出を施し、お客様からは広く感じるようには意識した。噂した当人は、古い店にしか来たことがないのだろう。当然、あたしの鮨も食べたことはないはずである。

 なのに噂は一人歩きする。風説の流布なんて言葉もあるが、噂は幾人もの好奇心を経過しては重なり合い、やがて波のように押し寄せる。あの時のように。


 だがもっと不思議なのは、改装前のこの店に自分自身が訪れたであろうことを目の前の男がすっかり忘れてしまっていることである。――年に数百もの店を訪れるので無理もない――とは、そんな風には納得できない理由が、こちらにはある。


「夜はおまかせ握りのコースのみになっておりますがよろしいですか?」

「結構です」

「お飲み物は?」

「瓶ビールを」

「かしこまりました。瓶ビールお出ししてっ!」

「へぃ」

 三好君が奥に引っ込み、佐久間のおじさんと松浦さんはチラリと一瞥しただけで、自分の受け持ちのお客様の対応に戻った。何ごともない通常営業。それはそうだ。

 だってあたし以外の誰も、この男の顔を見るのは初めてだから。


 あたしにとっては? 脳裏にこびり付き決して離れることのない、そんな顔。


 怪食かいしょく喜人きひと

 ペンネーム。センスの欠片もないペンネーム。だけど恐ろしいペンネーム。


 包丁を握る手に少し力が籠もった。


 メディアに顔を晒すことはほとんどない。グルメ雑誌のエッセイの中で、この男は生きている。写真はお父ちゃんが亡くなった十年前、怒りにまかせて探し回ったあげくたどり着いた、そのたった一枚きり。


 なんてことのないスーツを着ている。

 写真よりは随分と老け込み、まるで定年間際のサラリーマンが、場違いな店に迷い込んだみたいな、そんな様子で座っている。細い体躯は頼りなく――言葉だけで人を殺す――そんな風には、とても見えない。


 最初のネタを切り付ける。

 お客様と対峙し肌で感じた感覚で量目を気持ち多目に、小骨と繊維を断つように、ハモの骨切りより更に細かく包丁をいれる。最後にネタの中心を包丁で切り開いて、一般的な玉子鮨の要領で鞍掛くらかけの姿に握り、さっと刷毛はけで醤油を走らせる。


にしんです。春告魚はるつげうおとも言いますが、こちらは去年の秋に獲れた冷凍物です」

 (?)男は小首を傾げ「鰊のしゅんに入ったこの時期に冷凍物ですか」


 馬鹿にするなとカウンターを叩き、出ていってくれたならと願った。相手が客ならこちらがどんな感情であれ、粗末に扱うことはできない。

 だが意外にも、無垢な赤子が乳房を求めるように表情も変えず男は鮨に手を伸ばし口に入れてから、瞬きを一つ。咀嚼して「うまい」と、そう漏らしたのだった。

 怒って帰れば良かったのに。お客様であるならば、あたしは鮨を握るだけ。


「一見の客なので最初、馬鹿にされたのかと思いました。これにはなにか……」

 そう特別。とある場所、とある人物が、父親の後を引き継いだあたしを心配して、儲けにもならないのにその場で手当して、最新の冷凍技術で、目的は……



☆あなたの初めてを奪うっ!



 鮨屋ほど季節を大切にする境涯もない。

 ネタの最高の一瞬を、カメラマンがシャッターを切るように、お客様に提供する。

 季節に優劣はない。その季節を良き、と感じて頂けるよう務めるのが鮨屋の仕事。

 


「なにか理由があるのでしょうね」

 理由はある。だけどそのマジックの種は教えない。



 本来、酸味は人類において危険なものだ。それを美味しいと感じ旨みと捉えるには慣れを必要とする。どれだけ鮨を食べ慣れた食通だとしても舌に当たるその酸味は、本日今日に限っては、誰もが初めてのはずである。


 近頃は酢飯を四種も揃える店がある。淡泊なネタなら白しゃり(米酢)濃厚なネタなら甘みとコクがある高温の赤しゃり(赤酢)を使う。それだけでは収まらずまるでロゼワインのように赤と白をブレンドしたり米その物を変えてみたりと涙ぐましい。

 けれどそれじゃ、口の中がうるさすぎやしないか。サービス過剰の懸命さが空回りしたような店の押しつけは、最後まで旬を味わって頂く邪魔になる。


 この店に並び立つ、三人の職人が考え抜いた、勝負の白しゃり。

 だがそれでは、一貫目の口当たりがどうしてもきつくなる。 

 多くの店はそれを気にするあまり、炊くときに昆布で旨みを与えたり過剰に砂糖や味醂を加えて甘みで味を丸くする。でも丸くはなっても……後味はくどくなる。


 この店も後半は少量の赤酢を加えたしゃりを使う。だが主軸はあくまでも米酢。

 砂糖やみりんは最小限に。無論、最初の一貫は赤酢のまろやかさにも頼れない。


 せつげ、味にびれば、ある程度は満足して頂けるのだろう。でもそれでは驚きがない。お客様に宝箱を開けるような楽しみは生まれない。まずは、無理なくこの店の土俵にあがって頂く。

 あえて媚びない攻撃的な白しゃり。それをお客様に違和感なく受け入れてもらい、最後まで旬を駆け抜け味わって頂くのに相性よいネタを探しに探し辿り着いたのが、この冷凍の秋鰊あきにしん

  

 

「ふむ。おそらくはプロトン凍結か。アニサキスを死滅させるためにあえて冷凍する場合もありますよね。さけますさば……」

 処理の仕方を見抜いたのは流石だが、男にその真意はわからない。


 

 烏賊いかをマッチの軸ほどの太さに刻み「ケンサキです」醤油は塗らず岩塩を散らす。


「薬味もなしですか」

 烏賊は包丁を入れた断面積が大きければ大きいほど甘みと旨みを感じる。サクッとした歯ごたえは失うものの、酸味に慣れた舌にこれ以上刺さる次のネタはない。

 仕入れはつてのある松浦さんが数ある産地、種類から選りすぐりを仕入れている。


「……ほうぉ」

 実質的にはこれがこの店の一貫目。でもそれは鰊で白しゃりとお客様の舌が一体化したからこそ。甘みと風味がしゃりと渾然一体となって喉に落ちてゆく。



☆あなたはあたしを受け入れたっ!



「なにかこう……次が楽しみになる。まるで枕木に敷かれたレールの上に……」

「ハマグリの吸い物です」

 小さな湯飲みを置く。最初の見立てどおり、男はかなりの空きっ腹であるようだ。

 早々に次のネタを期待していたのであろう、男は瞬きを一つ。お生憎様……



☆焦らしてあげるっ!



 期待をはぐらかすのも技のうち。少々の飢餓感は最高の調味料となる。

 ここでようやく絵皿に盛ったガリを男の傍らに。二貫目を食べ終わらない内に囓られては台無しだから。普段より安物のペットフードを餌箱に入れられた子犬みたいな顔をしてる。けれどそのガリも後半には追加を頼むことになる。


 表情も変えずにくすっと、隣の松浦さんが笑ったような気がした。無言で『意地悪しちゃだめですよ』とでも諭すように烏賊のエンペラを炙った物を男の皿に乗せて「サービスです。召し上がってください」と言い、すぐに自分の付け場に戻った。


「いらっしゃ……毎度どうも」「京香ちゃんのお席に」「かしこまりました」

 あたしの馴染みのお客様が入店した。集中せねば。


「これこれ。年中無休の鰊の握り。これを食べると舌が馴染んで次のネタを美味しく感じるんだってっ! そうよね~京香ちゃん。お父さんも早く早く。青物が苦手でもこれなら大丈夫だから」

 銀髪の上品な奥方はランチタイムによくお友達と一緒にいらっしゃる。

 今宵はご主人を無理矢理に連れてきてくださったそうで、話が弾む。


真子鰈マコガレイです」「ふむ」「桜鯛です」「ほう」

 白身を二貫続けてみた。特上の真子鰈は食べ慣れていても鯛は鯛でもこの桜鯛は、関東に拠点を置くこの男には案外にも驚きがあるはずである。ネタの下には桜の花の塩漬けが忍ばせてある。


「たしかに鯛は魚の王様と言うが……」

「瀬戸内の浅瀬で小舟で漁をしているおじいさんがいるんです。船上で血抜きがしてあります。それを直接持ってきてもらっています」

「なるほどこれは東京でも食べられない」

 やっとガリを一囓り。瞬きを一つ。


「つまみに白魚などは? 関東の方なら霞ヶ浦からの直送なので馴染みが……」

「だったら冷酒を……」「かしこまりました」



☆我慢できなかったのねっ!



 エッセイでは偉そうに酒の順序まで大仰に語っている。けれど今、それを崩した。

 いつものぬる燗じゃないの? ふふふ。



「これはいい。酢で〆たわけでも昆布〆でもない。臭みはなく旨みは上品で。特有の風味が心地よい」

「ねっ! だから言ったでしょお父さん。京香ちゃんの腕前は一流なんだから」

 ご主人は最近、足を悪くされそうでそれから外出を嫌がるようになったらしく……ある程度、奥方とは打ち合わせ済みだが、更に会話の中でご主人の好みを探す。

 なにか馴染みのあるネタがあれば良いのだが……


 元気の良いご夫婦の陰になってしまった男は、寂しそうにガリを囓っている。



☆物足りないのねっ!



「遠州灘で獲れたモチガツオです」

 長崎は五島のカイワリの握りをだそうと思ったが男の様子を見て鰹に変更する。


「ほう。これは冷酒のままで頂くとして、次はぬる燗をもらおうか」

「三好君。ぬる燗、お出ししてっ!」

「はぁ~い」

「長崎県の壱岐島から届いたムラサキウニです。ウニは握りではお出ししてないのでおつまみでどうぞ」

 中ぶりの真っ白な磁器に盛り合わせをしつらえる。


「ウニの他は……」

たこの半殺しと紀州のヒトハメ(海藻)のしゃぶしゃぶです」

 ぬる燗を頼んだのだからしばらくは自由時間。



☆修学旅行の男子のように木刀でも買ってなさいっ!



 全てお客様に合わせたコース取りは難しい。かと言って漫然とこれがいいでしょうと機械のように握るわけにはいかない。酒の進み具合、つまみを選る箸の動きとその表情……空きっ腹なだけじゃなく、男はもとから可成りの大食漢なのだろう。


「少しお時間はかかりますが、うなぎの棒寿司などどうでしょう?」

「鰻? 鰻はこの時期、旬を外れていませんか?」

「そうなのですが、和歌山は紀州の天然物です。鮎の稚魚だけを食べたものを釣ってから湧き水で活かせたものだそうで(しらんけど)」

「ふむ。お任せします。しかし近場の瀬戸内や和歌山のみならず長崎に霞ヶ浦と随分と色々なルートがおありなんですね」

「おかげさまで産地の方々には可愛がって頂いております。父が現地を訪れ仕入れを始めたのですが、亡くなってからもずっと変わらず……」

「そうですか」

「熟成クエの塩焼きです」

 男は酒の量も相当なものらしい。頃合いで塩気を足す。


「サワラのチラシです」

「ほう。握り以外もあるんですか」

「ご主人の地元、岡山名物の祭り寿司とはいきませんが」

「いやいや嬉しいよ。懐かしいね。お客の好みで即興でだしてくれるんだねぇ」

「一流のお店ってそう言うものよ、お父さん。しらんけど」

「おまえはいいなぁ。いつもこんな美味しいものを食べて」

「私はランチにしか来ないわよ。ディナーに伺ったのは初めて。奮発したんだから」

「うん。旨いっ!」

「ねっ! おでかけも楽しいでしょ?」

 と、夫婦は仲睦まじい。


「お待たせしました。鰻の棒寿司です。タレではなく白焼きで仕立てました」

 三切れほどを男に。ご夫婦にも一切れづつお裾分け。


「あれ? これはコースとは別よね。いいの? 京香ちゃん」



☆サービス&サービスっ!



 ここで一呼吸。三好君に赤酢を混ぜたしゃりを準備するよう目配せをする。

 活気を帯びてきた店内の勢いそのままに握ればまるでサビしかない歌謡曲。



☆サビはサビでもワサビは塗るけどねっ!



 人の営みとはなんなのだろう? 生きるとはなんなのか?

 あたしは今、鮨を握っている。ときおり笑顔などを浮かべて。

 本当の気持ちは? けれど包丁を握る手に力が籠もったのはネタを切りつける為。

 店が跳ねたら毎晩、包丁を丹念に研ぐ。お客様に、美味しく食べて頂けるように。


 

 小上がりをなくし襖を取っ払った。お客様との距離が近づいた。

 稼ぎ頭の宴会場は潰した。天井は高くなった。虹がかかる程に。

 付け場には、三人の職人が並ぶ。あたしはまだ、半人前のヒヨッコ。

 けどあたしのことを親方と呼んでくれる。多分、それは奇跡なんだ。



「もう旬をすぎた春のさばだけど、名残なごりの鯖と言われるとなんだかいいね」

「お医者様に青魚を勧められてるんでしょ? 京香ちゃんに頼んでおいたの」

 ご主人は国語の教師をされていたそうで若い頃は登山が趣味だったらしい。今夜を境にまた外出する気持ちになってくれたら嬉しいのだけれど……さてこちらは、



☆そろそろ醤油が恋しかろうっ!?



 食べ飽きることなく食べ疲れすることなくお腹は十分落ち着いた。

 酒は進めど、塩気はそろそろ限界。次に欲するのは甘みと……


「背トロです」「ふむ」「中トロ」「ふむぅ」「大トロ」「むふぉ~」



☆赤酢を加えたしゃりで握る、生本なまほんマグロの炎のストレート三球勝負っ!



「……赤酢をここで。小ぶりのようだがなるほどこれは凄いマグロだ」



☆あたしはマグロじゃないけどねっ!



「あははははっ」

 離れた席から笑い声が聞こえる。佐久間のおじさんがなにか冗談を言ったらしい。

 握ることに集中しすぎて、内容まではわからない。そういう余裕がないところも、あたしはまだまだ……


「天草産の小鰭こはだです」ここで白しゃりに帰す。「う~むっ!」


 ……だけど、一歩々々。自分のやれることを精一杯やるだけ!


「同じマグロの赤身の漬けです」

「トロを続け、小鰭を挟み、更に白しゃりでもう一度赤身? …………むおほぅ」

 今時は熟成が持て囃されている。だが、この鮮度はそれだけでごちそう。小鰭とは違う旨みと軽やかな酸味。トロにはない細やかな味わいと潔さ。



 炭火に海苔をかざす。最後のしめは、ぎょくを触らず穴子でもない。ただの干瓢かんぴょう巻き。

 この干瓢だけはお母ちゃんが朝から仕込む。お父ちゃんが生きている頃からだ。

 それを巻くのは、海苔に汽水域で育つ青のりが偶然にも混じった逸品、青飛び。

 最後は鮨をお客様の手に触れさせない。側面に醤油を塗り香りを立たせ直接……


 

☆はぁ~い。あーんしてっ!





 コースの〆が終わり、男はお茶を見つめている。まるで呆けたように。


「ボタン海老の紹興酒漬けです。青い卵と一緒につまんでください」

「へえ~これは変わってるねぇ」

「奥様から海老がお好きだと伺っておりましたが、今日は車海老の良い物がなくて」

「青物だけじゃなくあなたの好物もちゃんと頼んでおいたのよ。ね~京香ちゃん」


 男はまだお茶を見つめている。



☆もっと欲しいのっ?



「なにか追加で握りましょうか? それともおつまみを」

「いや……絶品の干瓢巻きでキリッと〆た後でそれは無粋なような。だけど、お客によって随分とコースの内容が違うようですね」

「あいすみません。ツマミと握りネタがになる場合もございまして」

 これは文句ではないのだろう。その理由は男にもわかっているはず。

 はじめに三好君の案内を無視したのは自分自身だ。8時の予約客が来るまであたしの付け場には一組だけの手はずだった。ご夫婦用に特別に仕立てたネタと違うのは、仕方がない。因みに鰻の棒寿司も本来のコースには含まれてない。サービスをされたのは男のほう。そのこともわかっているはず。だけど男の瞬きは止まらない。



☆欲しいなら欲しいとちゃんと言いなさいっ!



「ハマグリの吸い物が出たから、てっきり煮貝があるものと……」

「追加なさいますか?」

「いや……」



☆じゃあ、あたしのハマグリは お・あ・ず・け !



「では、水物デザートなど」

「いや……」

 男はもじもじとしながら「完璧なコースだったので……」



「甘鯛と河豚ふぐヒレのスープ仕立てです」

「これはまた贅沢な」

「すごいわねぇ~お父さん」

「これで一息ついてください。ご要望の金目の茶碗蒸しは半時間ほど掛かりますのでそろそろ蒸しをはじめておきますね」

「お願いします」

「最後はお父さんの好きなお稲荷さんも頼んであるからね」

「おいおい。高級店なのにそんなものを頼んだのか?」

「だってお父さん大好きじゃない。大丈夫よね~京香ちゃん」

「はい。〆は稲荷と決めているお客様もいらっしゃいますよ」



「あの……」



☆あなたもお稲荷さんを握って欲しいの?



 男があたしの手を見つめている。今宵はなんと業の深いえにしだろうか。

 けれど忘れることが職人としての道。心が叫び声をあげようと佇まいは崩さず。



「美しいだけじゃない職人の手だ。ごちそうさま。大変有意義な時間でした」

 男は立ち上がり帳場へと向かう。だが三好君が計算している最中に、ぽつりと、


陸奥むつ湾であれほどの鰊があがるのですね」と一言零したのだった。


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