名前には力がある(2)

 時計塔の鐘が午後五時を告げる。

 買い物を全て済ませてクレイシオと営業所の近くまで戻ってくると、これから自分が開ける予定の玄関扉から、二人組の男が出てきたのが目に入った。

 山高帽に紺のスーツを着込んだ細身の男と、かちりとした制服の上に漆黒の片マントを纏った、やたらと姿勢のいい男。二人共ただの依頼人にしては違和感を感じる、堅苦しい雰囲気に包まれている。

 すれ違いざまにちらりとスーツの男に視線を流せば、左の胸に王都の印の金バッジが輝いていた。この街でも時々見かけることがある、都の役人である証。装着しているゴーグルは、太陽の眩しさにも砂漠の砂にも対応出来る万能なものだ。

 片マントの方も、顔の上半分を覆う大きな暗色のゴーグルをかけている。口元に刻まれている皺から初老の男らしいと推測するものの、風貌はまるで掴めない。

 

「……ほう。剣呑な組み合わせですな。王都の役人と軍警察とは」


 ある程度二人が遠ざかった所で、クレイシオがいささか神妙な面持ちを浮かべる。リゲルはいつもよりも抑え気味の声量で質問を投げた。


「ねえ、軍警察って何をする人? 初めて見たけど、この街の警察とは全然違うね。鴉みたいに全身真っ黒だ」

「あれは特別な用向きが無ければ、王都の中枢を警備しているものですよ。都の外に出るのは──そうですねぇ、例えば、国家に仇なす犯罪者でも見つけた時でしょうか」

「えっ。まさか、オズワルド逮捕されちゃうの⁈」


 驚いて、思わず声が大きくなった。反射的に口を抑えて背後をきょろきょろと見回す。怪しげな二人組の姿は既に路地から消えていた為、運良く事なきを得た。こちらが重い荷物を抱えて子供の歩幅で歩いているうちに、あちらは大通りへと出たのだろう。


「さてね。私は彼が犯罪者か否かを見定められる立場にないですから。君の方が余程、オズワルド・ミーティアがどんな男なのか知っているでしょう?」

「うん? オズワルドは普通に悪魔だよ」

「……いやはや。雇ってもらっている身で言うねぇ、君」


 クレイシオは呆れたように眉を下げる。

 話しているうちに営業所の前に辿り着いたので、リゲルは荷物を片手で抱え直して扉を開けた。玄関ホールは広めで、二階の廊下も見渡せる吹き抜けの造りになっている為に、巨躯のクレイシオが足を踏み入れても窮屈さは感じられない。正面に螺旋階段、その奥にキッチン。一階の殆どを占める応接室の入口は右手にある。


「探していた本の内容といい、君は雇い主のオズワルドとあまり上手くやれていないようだが。ちゃんと取り次いで貰えるのだろうね?」 

「それは俺の役割じゃないよ。待ってて、すぐに来るから」

「はっはっは。この期に及んで何を。君が取り次いでくれないと困るんだよ、あの機械のデカブツ、いるだろう?」

 あれ、とクレイシオが顎で示したのは、キッチンからすっ飛んでくる機械人形である。どういう仕組みかは知らないが、オズワルド以外の人間が建物内に入ってくると、一目散に出迎えるように出来ているのだ。 


「これは、許可のない魔術師を通してくれないのでね」


 あと一歩のところまできた機械人形に向けてクレイシオが手を翳せば、その場でピタリと足を止めた。どうやら、足止めの魔術をかけたようだ。機械人形は状況を探ろうとしているようで、リゲルとクレイシオの両方に向けて目玉を忙しなく動かしている。


「未登録魔術師ノ、強制侵入ヲ確認シマシタ──自爆、デキマス。自爆シマスカ。五、四、三、」

「自爆はするな。停止措置、及び再起動の遂行」

「了解デス、オズワルド様。コレヨリ緊急停止。再起動マデ、七分オ待チクダサイ」


 頭上から降ってきた主の命令を受け、機械人形は完全に動かなくなった。

 オズワルドは心底迷惑そうな顔つきでリゲルとクレイシオを見下ろしてから、ゆったりとした足どりで二階の廊下を進み、螺旋階段を下りてくる。コツ、コツ、と硬い靴の音が近づいてきて、そのペリドットの瞳がいつも以上に温度の無いものだと認めた時、リゲルは漸く、自分はまずいことを仕出かしたのだと気付いた。


「やあやあ。お久しぶりですオズワルド殿!」

「はっ。よくも堂々と正面から来られたものだね。お前の狙いは何だ?」

「狙いなど、滅相もない! この少年が貴殿に雇われていると、薬屋で偶々知ったのでね。ならば取り次いで貰えるかと、私の剣を取りに来たまでです」

「違うだろ、クレイシオ・ヴァレッド。お前の剣は、受け取る気があるなら郵送したいと伝えた筈だ。その眼帯の奥にあるものは、ここへ近付く危険をしっかり教えてくれているよな? 他人の魔術拠点があると知りながらの侵入は、どんな口実があろうと魔術師としての礼節を欠いている」


 ビリッ、と場の空気が不自然に痺れる。恐らく魔術のせいだ。オズワルド流の威嚇みたいなものだろうか。

 巻き添えを食っては御免だと、リゲルは部屋へ走って避難しようとした。なのに、持ち上げようとした足は床にくっついたままびくともしない。いつの間にか機械人形と同じ、足止めの魔術をかけられている。


「これはこれは、なんという慧眼……我が義眼グラスアイの性能までご存知とは。眼帯に施した隠蔽の術など、貴殿にかかれば何の意味も持たないのですなぁ」

「何だよ、その貴殿って呼び方。胡散臭くて死ぬほど気持ち悪いんだけど」

「決闘の勝者に敬意を表しているだけですよ、少々ひねくれた捉え方では? そんなだから小間使いの少年に、悪魔だ、などと宣われてしまうのですよ!」


 クレイシオが豪快に笑う。いや、今の話題の何が面白いのだ。足止めされたまま雇い主への悪口を暴露されたリゲルからしてみれば、全く笑い事ではない。

 この場から立ち去りたくてあたふたと焦っているリゲルの肩に、クレイシオの大きな手が気安く回された。そうか、オズワルドに攻撃させない為に自分はここに立たされているのかと察して、リゲルは体を強ばらせる。やはり魔術師なんて、皆ろくなものじゃない。駆け引きの為ならば、いたいけな子供の自由を奪って利用してくるとは。


「オズワルド・ミーティア殿、どうか警戒を解かれよ。私は貴殿に敵意があってここへ来た訳ではない。確かに剣の返却は口実に過ぎぬが、これを機に親睦を深められればと思っているのだ。神に誓って嘘ではないぞ、元より魔術師同士での腹の探り合いは好かぬ質でな」

「ふうん」


 オズワルドの返事は、たったそれだけ。クレイシオに対して関心があるとは思えない顔だった。

 空気が、大きく揺れる。真冬の氷点下の風の如く、冷たい流れがあった。ペリドットの瞳の矛先が、すい、とクレイシオの隣で成り行きを見守っている少年へ移る。


「リゲル」

「は? えっ……」


 ダダダダダダンッ!


「なにこれ、何これ!」


 名前を呼ばれて、細められたオズワルドの目につられるように瞬きをした。その一瞬でリゲルの身柄は玄関口からオズワルドの後方へと移動され、あっという間に周りに構築された光の檻に閉じ込められた。


「猛獣用の檻だ。触れるなよ、そいつの柵は工房のドアノブ以上にクる、お前なら即気絶──いや、いっそ気絶してみれば? どうしようもないお前の迂闊さも、少しはマシになるかもな!」

「ふ……、ふざけんな──ッ!」


 先程までクレイシオにかけられていた足止めの魔術も普通の人間にすることではないが、あのドアノブよりも痺れる危険な檻に子供を入れるとは言語道断。振り返りもしないオズワルドの背中に向かって、文句を叫ばずにはいられない。

 というか、留守中に工房のドアノブに触れたことを、さもお見通しとばかりの言い方も癪に障るのだが。なんで知ってるんだ! 


「おお、素晴らしい! 解術と同時に二つの転移魔術を操り、封じの檻の構築までしてみせるとは! これほど秀でた魔術師との邂逅は、今の時代、奇跡に等しい!」


 クレイシオは感激を隠せないといった様子で、足止めの魔術が解かれて自由に動けるようになっているリゲルと、手中に現れた大剣を確認している。

 逃れたリゲルと入れ替わりに現れた剣は、あの日の決闘で勝敗を分けたもの。オズワルドが戦利品とした後にクレイシオへの返却を希望していたという、件の一品だ。


「オズワルドよ、貴殿はやはり『独創者』なのでは? そうであれば徹底した秘密主義も、決闘での闇雲な強さにも合点がいくというもの!」

「俺も探り合いは大嫌いでね。その質問に答える必要ってある?」

「ならば答えは要らぬ! どうか、どうか私を弟子に!」

「生憎まだ弟子を考える歳じゃない。第一あれは、魔術を次世代に繋げたい魔術師が取るものだ。弟子は子供に限る」

「そこを何とか、お聞き届け願いたい! 私は貴族の四男ですが、この街では貴族とは名ばかりの存在、戦時中にめぼしい土地は全て国に押収され、屋敷は皆、郊外に追いやられておる次第なのです! だからこそ私は、生まれ持った才を出来る限り高めてきた、貴族としてではなく、魔術師として誇り高く生きる道を選んだ! その為に幾ばくかの生身の体を犠牲にして参りました、もう後には引けぬのです! 私は己の魔術を極限まで強め、後世に残る偉業を成し遂げねばならぬのだ……!」


 クレイシオが切々と身の上を語り、訴える。

 その熱量に、リゲルは心底ぞっとした。常人の感覚では、クレイシオの魔術に固執する価値観は異常としか思えない。


 しかし魔術師には、この手の輩が多いのも事実。平凡な幸福よりも痛みを伴う勝利、平穏な人生よりも血濡れの名声が大切と、いつの世も優れた魔術師ほどその力に酔いしれて謳うのだ。そうはならないものだけが、至高の魔術師の弟子として相応しいというのに。憐れなこの男には、理解出来まいが──。


 ──ああ、まただ。何処から来たのか分からない言葉と思考が不意に頭を過ぎるのは、記憶が戻りかけているからなのか。不思議なことに、これが起こるきっかけはいつも魔術師絡みだ。


「ああ、そろそろ時間だな」

「……? どういう意味です、時間とは?」

「勿論、機械人形の再起動までの時間だけど。お前を見たらまた自爆機能が働いて、同じことの繰り返しになるだろ?」


 オズワルドは分かりきったことを何故聞くのだと言わんばかりの表情を浮かべて、開き見た懐中時計をポケットへ戻す。頭に乗せていた真鍮製のゴーグルを装着すると、首から下げている円形の飾りを裏返して目盛りを動かし始めた。金鎖を通してあるそれは懐中時計よりも一回り大きく、日輪を思わせる意匠が刻まれている。あんなもの、これまで持っていただろうか。


「丁度いい、貰い物の試運転といこう。屋敷のある郊外へ送り届けてやるよ」

「それは……軍用の特殊魔術具ヘリオスか。私に、帰れと?」

「そういうこと。お前の身の上話なんか俺の知ったことか。剣は返したし、こっちにはもう用はない」

「……! おのれッ! この薄情者めが!」


 クレイシオが片手で剣を振ったのと、その姿が小型の旋風の中に掻き消えたのはほぼ同時だった。姿が見えなくなる寸前に剣先から放たれた一撃は、不安定な状態の最中、目標を上手く定められなかったのだろう。オズワルドから大きく逸れて、リゲルの入っている光の檻に重い衝撃を与える。


「うおおおぉ⁈」


 心臓が止まるかと思ったが、幸運にもリゲルは無傷で済んだ。檻の持つ魔術と攻撃が相殺されて、結界に似た効果を齎したようだ。

 リゲルはウィザード・コロッセオで、オズワルドが剣の威力を試した一幕を思い出す。あの時青ざめていた男と、今の自分は顔色がぴたりと一致しているに違いない。たまたま檻に入れられていて良かった。


「再起動、完了。不具合ノ無イ事ヲ確認シマシタ。ゴ機嫌ヨウ、オズワルド様」

「……はあ。そんなにご機嫌じゃないけどね。今日は流石に魔力を消費し過ぎだ、疲れたよ」

「オ疲レデスカ。オ茶ノ時間ニシテハ、イカガデスカ?」

「ああ……じゃあ、あれだ。ホットミルク。蟻も死に絶えるくらいに甘くして」

「努力シマス。私ガ飲ミ物ニ入レラレル砂糖ノ量ハ、初期設定ニ則リ大匙一杯マデデスガ」


 再び動き始めた機械人形に飲み物を言いつけて、装着していたゴーグルを頭の上に引き上げたオズワルドはふらふらと応接室へ向かっていく。

 いやいや、待ってくれ。檻に閉じ込めたままのか弱い少年は無視なのか。


「俺、手伝うよ! 俺なら! 何杯でも砂糖入れられるけど!」


 思いついた精一杯の主張に、オズワルドがゆるりと振り返る。こちらの状況を真顔で一瞥した魔術師が面倒くさそうに指を弾けば、光の檻が消えた。


は砂糖山盛り五杯を所望だ。塩と間違えでもしたら、蟻より先にお前が死ね」


 なんと嫌味なオーダーなんだ。まずいことに、影で悪魔だと言っていたのを根に持たれている。

 けれどオズワルドは、本当に疲れているようだ。声にはいまいち張りが無いし、二階に上がらず応接室に入っていくのも珍しい。昼食もお茶も一階でリゲルと一緒に取ることはなく、工房で済ませるのがオズワルドの常だ。いつもならば来客がない限り、応接室には居座らない。


 キッチンへ向かう機械人形を手伝おうと、リゲルは抱えていた買い物袋を一旦階段の隣に寄せ置いて、その後ろをついていく。

 牛乳を温める機械人形の隣にマグカップと砂糖を用意しながら、頭の片隅で少し考えていたことを口にした。


「……謝った方がいいと思う?」

「スミマセン、リゲルクン。人ノ悩ミニ対応スル機能ハ、私ニハ付イテオリマセン」

「はあ……そっかあ。そうだよなあ」

「デモ、オズワルド様ハ、怒ッテイナイト思イマスヨ」

「なんで?」

「怒ッテイタラ、先程ノ魔術師ト一緒ニ、リゲルクンヲ追イ出ダシテイタデショウ」

「……そっかあ。うーん……」


 程よく温まった牛乳に、スプーン山盛り五杯分の砂糖を溶かしていく。ぐるぐるとかき混ぜているうちに、リゲルの気持ちは固まった。


「少なくとも、クレイシオを連れてきたことは謝らなくちゃ。それから、外ではもっと気をつけるって伝えるよ」

「良イ心掛ケデスネ。反省ハ、人間ナラデハノ機微。機械ヘノ搭載ハ難シイ、素晴ラシイ機能デス」

「ん。いや、そんな大袈裟に言われると、ちょっと調子狂うんだけど……」


 機械人形ならではのズレた視点の称賛に、何だか照れくさくなる。思えばオズワルドは全然褒めないから、褒め言葉を貰ったのは久しぶりだ。なんとなく、素直に謝れる気がしてきた。


 機械人形に託された熱いマグカップを丸いトレイに乗せて、リゲルは応接室の扉を軽くノックしてから入室する。ずっとお屋敷でばかり働いてきたから、この手の仕事は失敗する気がしない。

 オズワルドはソファにうつ伏せになっていた。ゴーグルは頭から外されて、すぐ横のテーブルの上に投げられている。それを見て、横になりたかったからここで休憩することにしたのかと納得する。

 スプリングのしっかりした長ソファは、長時間座っていても疲れにくい。ベッドと大差ない弾力性があるから、きっと仮眠を取るのにも快適な代物なのだろう。足の先は全然収まっていないけれど。


 身長差のせいでいつもは見上げるばかりのオズワルドも、横になっていると見下ろすことが出来て、全体のつぶさな観察が可能である。

 男にしては長めの爪に、艶のある黒いエナメル。肩の長さでぱつりと揃った髪は目の覚めるピンクから毛先に向かうにつれスカイブルー、若葉色と、グラデーションカラーになるように染められていて──これはどちらも、魔術を用いているに違いない。そうでなければ一日に何度も洗いまくる手の爪が完璧な黒を保っていられる訳がないし、髪だって虹みたいに自然なグラデーションが見事過ぎて、逆に不自然極まりないくらいだ。 

 他の魔術師と比べても、どうにも見た目に浮世離れした雰囲気があって、異様な存在だと思う。目の色ひとつとっても、グリーン系の、それも明るい色というのはとても珍しい。だから皆、義肢混じりの体に違いないと勝手に思い込むのだろう。

 でも、これが生身のオズワルドなのだ。今日着ているのは、ダブルの金ボタンが付いたエメラルドグリーンのロングジャケット。きちんとしたいのか服で遊びたいのかが紙一重の、この手の服が似合うのも摩訶不思議なところである。


「寝ちゃった? ホットミルク、出来たよ」

「……寝てない。何だ、機械人形じゃないのか。そこに置いていけ」

 一瞬だけ目線を寄越したオズワルドが、もう一度ソファに突っ伏す。

 嘘だ。絶対に寝てた。そしてミルクも飲まずに、また寝ようとしているに違いない。

「買ってきた物はどうすればいい? 階段の脇に置いてあるけど」

「そのままでいい。上がる時に回収する」

「ねえ、ミルク冷めるよ。塩と間違えてないか、確かめなくていいの」

 無造作に置かれているゴーグルの隣に湯気の立つマグカップを並べて、リゲルは向かいのソファに座る。数秒の沈黙の後に、オズワルドは緩慢な動きで面を上げた。寝そべったままの姿勢で、眠そうな顔に頬杖をつく。

「……わざと塩を入れたりしてないだろうな?」

「ちゃんと甘いってば! あと、さっきは悪かったよ……クレイシオを連れてきてさ。オズワルドの使いかって聞かれた時、違うって言い張れば良かった。案内も、断ればよかったのに」

「……へえ」

「……何だよ」

「いや、別に」 

 それが別に、という顔か。明らかにニヤついている。


「いいさ。勘のいい魔術師が相手じゃ、言わなくたって俺の使いだと気付かれる。隠しきれない時もあるだろうと思ってた」

「それって、俺から魔術師の匂いがしないから? クレイシオも薬屋のおっちゃんもそう言ってた」

「ん? ああ、それでバレたのか?」

「ううん、それはクレイシオが、持っていったメモの筆跡から見抜いたんだ。おっちゃんなんて最初は俺のこと、お屋敷の坊ちゃんだと思ってたんだぜ?」

「は、」


 オズワルドは急に腹を抱えて笑い出す。横になっている姿も初めて見たけれど、こんなに面白がって笑うのも初めて見た。多分馬鹿にされているんだろうけど、見慣れない様子にうっかり文句を言いそびれた。

 一通り笑った後で、ゆるりと上体を起こしてソファに座る。漸く持ってきたミルクに、黒い爪の手が伸ばされた。

「お坊ちゃんから魔術師の匂いがしないのは、俺が工房の外に魔術の痕跡を残さないようにしているからだ。まめに手を洗ってるだろ? あれもそう」

「洗うと消えるの?」

「簡易的な浄化だよ。って言えば、お前にも通じる?」

「分かるような、分からないような」

「魔術師でなきゃ分からないんだろうな。匂いって言っても、嗅覚で感じている訳じゃないし」


 一口飲んだマグカップをテーブルに戻して、オズワルドはさっき使っていた円形の首飾りの目盛りを片手で弄り始めた。

 ミルクの甘さは丁度良かったのだろうか。きちんと山盛り五杯分量ったし、文句を言わないということは及第点なのだろうけど、起きても気だるげなオズワルドは味の感想を何も伝えてこない。元気な時だって、別にリゲルを褒めたりはしないけれど。


 そういえば、帰って来る前に来ていた二人組は何だったんだろう。オズワルドがこうも疲れ気味なのは、あの軍警察と役人と一悶着あった後で、クレイシオの相手をしたせいだったりして。

 だとしたら災難だ。リゲルも流石に、雇い主が国から非難される程の悪人だとは思えない。 


「名前には力があるなんて感覚も、お前には無いんだろうな。誕生した時の名付けがギフトとして強力なのは言うまでもないけど、いつ誰が授けた名前だろうと、呼び名だろうと同じことだ。長く使われれば使われる程、呼ばれれば呼ばれる程、名前は存在を固定する力となる。いい意味でも、悪い意味でも」


 手の中の飾り、クレイシオが軍用の魔術具だと言っていたものに目を落としたまま、独り言みたいにオズワルドが語る。

 ……名前には、力がある? 言われてみれば魔術師の名前には、綴りからして強そうなものが多い。例えば『Oswald・Meteor』は、『神の力・流星』の意味を持つ。これで魔術師じゃなかったら詐欺レベルの、如何にも魔術の力を持つ者の名前である。


「悪魔なんて呼ぶのは言語道断、ちゃんとオズワルドって呼べ、って言いたいの? 悪かったって。反省してるよ」

「それもそうだけど、今はお前の名前の話をしてるんだ」

「俺の話? そうなの?」


 理解が及ばず目を瞬かせていると、オズワルドは金鎖を首から外して、日輪の意匠の魔術具を鎖ごと投げて寄越してくる。

 座っている膝の上に着地したそれを拾い上げてみたもののどうすればいいのか分からず、リゲルは魔術師のペリドットの瞳をじっと覗き込んだ。


「試運転も終わったことだし、お前にやるよ。それがあれば緊急避難が可能だ。座標はここに固定しておいたから、くれぐれも外で落とすなよ。機械人形と同じで、夜には動かなくなるから気をつけろ」

「これを俺に? なんで、貰いものなんだろ」

「だから、お前用に注文しといてやったんだよ。それには魔術避けの効果も付加されてるから、これからは外で迂闊に名乗っていいぞ」 


 少し温くなっているであろうホットミルクを、オズワルドが一気に煽る。喉仏の動きを見ていても仕方がないので、くれるという魔術具を首にかけてみた。

 まず、鎖が長過ぎる。それから何が詰まっているのかと不思議に思う位、大きさのわり重い。

「これを持ってれば、オズワルドの使いなのも、もう隠さなくていいってこと?」

「そういうこと。必要なら言えば」


 ホットミルクを飲み終えたオズワルドは、再びソファに寝そべった。こちらに背中を向けているということは、もう話は終わり。今度こそ寝る気だ。


「ねえ、今の話は難しかった。俺の名前が何だって? もうちょっとだけ詳しく教えてよ」

「自分で適当に付けたお前の名前にも、力はあるってことだよ。名前とは、存在証明の一種だ。使い方次第で弱みにも強みにもなる。お前のフルネームは、単独だと危なっかしいけど……俺の使いとして使うなら、結構いい線いってる……強みに変えられる、かも……」

「俺、ジョン・ドゥって名乗っていいんだ? 大体分かった。おやすみオズワルド」


 今にも眠りに落ちてしまいそうな声だけど、オズワルドは説明してくれた。ちょっと意外だ。街中で名乗るのは迂闊だって文句を言われたから、てっきり自身で名付けたこの名は快く思われていないのだと思っていた。


「ああ。そのままでいいんじゃないか、リゲル・ジョン・ドゥ何者でもないリゲル……」


 立ち上がろうとしたその時、微睡みの中の小さな寝言みたいな声だったけど、確かにそう聞こえた。

 思えばオズワルドは、リゲルの名前そのものを馬鹿にしたことは無い。もしかして、これまでずっと名前を呼んでくれなかったのも、何か理由があってのことだったのだろうか。魔術やその他の危険から身を守る物を用意出来るまではと、この一ヶ月間色々と考えていたのかもしれない。


 オズワルドといい、クレイシオといい、魔術師というのは行動原理がさっぱ理解出来ない。

 でも、ソファで静かな寝息を立て始めた魔術師は、少なくとも鬼や悪魔ではないらしい。睡魔に負けたお疲れの魔術師のマグカップは、しょうがないから片付けてやろう。

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