Ⅱ 名前には力がある

名前には力がある(1)

 ──心の中では鬼ワルドと呼んでいます。 

 

 などとは、絶対に面と向かって言えない。

 拘束の魔術をかけられ、脅しか何かのような話を淡々とされた後で、正体不明の大仰な装置に入れられた時の、リゲルの恐怖ときたら。実際その後の三時間は死ぬかと思った。荒波に浮いたり沈んだりするような感覚はひたすら気持ちが悪くて吐き気がしたし、抗えない力の渦中にぽつんと置かれた自身という存在が今にも消えてしまいそうに思えて、不安でたまらない時間だった。

 人体には影響が無いというが、リゲルの基準で考えればあれは全く大丈夫ではない。


 恐ろしやオズワルド、魔術師の気紛れで次はどんな目に合わされることか。

 あれはこれまでの雇い主の中でも、一番の要注意人物だ。




「精ガ出マスネ、リゲルクン。ファッジヲオイテオキマス、ドウゾ」

「ファッジ? やった!」

 

 応接室の窓を無心で拭いていたリゲルは、機械人形に声を掛けられて手を休めた。テーブルに置かれたファッジは機械人形のお手製で、顔を近付けれてみればメープルシロップのいい香りがする。

 オズワルドの営業所兼工房であるここでは、お菓子が度々作られる。いつ来るとも知れない依頼人に出す為のものだろうが、毎日依頼がある訳ではないので、結果的にリゲルの胃袋にも収まることになる。

 機械人形はその大きさのせいで、外では少し不便がある。けれどその分、室内での仕事は完璧。特に料理が物凄く上手い。


 リゲルは直ぐにでもファッジを摘みたいのを我慢して、手を洗いに走った。

 オズワルドはまめに手を洗う。だからここには、一階にも二階にも立派な洗面台があるのだ。雇い主の流儀に合わせるのは得意だぞと、リゲルも手洗いを心がけている。

 鈴蘭の香りがする石鹸は、生クリームみたいにしっとりとした泡が立つ。手を洗っているうちに余計にお腹が空いてきた。


「少年、今日の分だ」


 スキップしながらおやつにありつこうと戻った応接室に、オズワルドの姿があった。ファッジの皿の隣には、細長い小さなガラス瓶が置かれている。

 中の液体の色は、光に透けた若葉のような薄緑色。凄く不味い代物ではないけれど、後味が少し苦い。毎日昼過ぎ頃にオズワルドが持ってくるそれを、リゲルは必ず飲めと言われている。


「それからこれを、夕方までに」 


 渡されたのは買い出しのメモだ。機械人形が苦手な外出を必要とする仕事、主にお使いが、リゲルに与えられている仕事である。


「任せて、すぐに行ってくる! あとさ、オズワルド。ここに脚立ってある? 窓の上の方が届かないんだ」

「また掃除してたのか。やらなくていいって言ってるだろ、営業所内の雑事は機械人形の仕事だ」

「でも、それだと暇なんだよ」

「散歩でもしてろよ。本を読むのでもいい、それくらいなら出してやる」

「えっ、いいよ。俺、この間の散髪代の分だってまだ返せてない気がするし」

「お前はどんなに労働したって、食ってる分には見合わない。施された分を返すのは到底無理だ、諦めろ」

「ひでぇなこの魔術師、健気な子供に向かって身も蓋もない……」

「聞こえないなぁ。何か言った?」

「本を買う! ああそうだ、雇い主の金で本を死ぬほど買ってやるよ!」

「月に一冊だけだぞ」


 オズワルドは分かればいい、と涼しげな顔で頷いて二階に戻っていく。

 今すぐ買い物に出ようと思っていたが、何だかムカつくのでファッジを食べてからにしよう。口に入れればほろりと崩れる甘さが嬉しい。とても美味しい。お皿があっという間に空になってしまったのが残念だ。

 次にガラス瓶を開けて、中の液体を一気に流し込む。これが何なのかオズワルドは説明してくれないけれど、飲み始めて一ヶ月した今では分かる。疑いようもなく、瓶の中身は魔法薬だ。


 オズワルドの魔法薬は、リゲルに明確な効果を齎している。嬉しいことに、この八年知らなかった、満腹感を感じられるようになったのだ。それに伴い体に肉が付いてきて、棒のようだった手足は一ヶ月で人並みの──とはいってもまだ細身ではあるが、以前よりもずっと健康的な見た目になった。

 伸ばしっぱなしだったダークブラウンの髪も、オズワルドに切れと言われて散髪に行ってからは手入れが楽だ。言動は粗暴でも見てくれは整えている雇い主に倣って、リゲルも毎日身体と髪を洗い、寝癖もきちんと直している。最近では鏡の前で愛想笑いを作ってみれば貧相とは程遠いなかなかの好印象だと気付き、店主に飴やお菓子をおまけして貰える、お得な買い物をこなす自信も出てきた。

 勿論おまけの分は貰ったのを内緒にして、即、食べる。魔法薬のおかげで満腹感を感じられるようになったとはいえ、それには大量の食べ物が絶対不可欠。人並み外れた燃費の悪さは、オズワルドに言われた通り未だ健在なのである。


「さて、行くか!」


 リゲルはお使いに出ようと立ち上がる。昨日はジャガイモや小麦粉などの食料を三度往復して買い集めたけれど、今日は薬品や手道具が中心、メモを見る限り一回で済んでしまいそうな量だ。

 まずはキッチンか地下の食料庫の辺りにいるであろう、仕事の大先輩にお金を貰おう。オズワルドは金銭の管理まで、機械人形に任せているのだ。



***


 街は今日も曇りで、建ち並ぶ建物のそこかしこから蒸気の煙が上がっている。

 場所や風向きによって煙が濃くなるから、道行く人々には革や真鍮で出来たゴーグルを常備している者が多い。目抜き通りにお使いに出るくらいではまず必要にならないけれど、リゲルも一応ポケットの中に備えていた。安物だから、他の人みたいに頭の上や首に引っ掛けておくことはしない。とはいえ必需品、もう少しかっこいいものが欲しいとは思っている。

 大通りはいつも人が多い。そもそも人口の多い町だけれど、それだけが理由じゃない。最先端技術を求めて、商人達が買い付けにやって来たり、各地の役人が視察に来たりするからだ。

 町の名は、ヴァレリオス。旅人も多くが足を止める大都市である。


 我が国ヴェスパー王国の機械と蒸気機関の技術は、殆どがこのヴァレリオスで生まれる。改良を重ねられて、それから王都を始めとする各地へ卸されていく。隣国との長期に渡った戦争の折、研究都市に指定されたことが、今の景況を築く礎となったのだという。

 発明家と研究者と商人が、これほど上手く共存出来ている街は他に無い。というのは、以前雇われていた屋敷でリゲルが聞きかじった台詞だ。それが本当であるという実感はこの街の外を知らないリゲルには無いものの、争いの少ない、治安と景気の良い場所なのは八年も住んでいれば分かる。王都の役人らしき姿もよく見かけるので、ヴァレリオスが一目置かれている都市なのは間違いないだろう。


 水蒸気の熱エネルギーを効率良く回転運動へ転換させる蒸気機関技術は、国の財産だ。

 対して、魔術師達の持つ魔術のエネルギーは一般人が介入出来る筈もない個の財産。余程の事情、例えば再び戦争でも起こらない限り、公の為に活用されるものではない。

 国の営みは偏に、蒸気機関に支えられている。


「あらあら可愛らしい。新しいお客様ね。誰のお弟子さんなのか気になるけれど、いえ、いいんですよ。魔術師は秘密主義ですものねぇ」


 今日の買い物先は、どれも初めて入る店だった。大通りに並ぶ食料品や衣料品を扱う大店とは違って、少し特殊なものを扱う店は裏通りや脇道沿いにひっそりとあるものばかりだ。

 二件目の道具屋の老婆が朗らかな笑みでリゲルを魔術師の弟子と断定したので、ここに用があるのは魔術師だけなのだと知った。

 老婆の言う通り、魔術師はリゲルの想像以上に秘密主義のようである。オズワルドに「暫くは外で名乗るな。身元や素性についての情報も、一切告げるな」と言われているので、リゲルは魔術師の弟子ではない、ただの小間使いだと告げることしか出来なかった。

 買い物をするのに支障は無いが、たまには機械人形以外の誰かに名前を呼ばれたいと思わなくもない。オズワルドがリゲルを呼ぶ時は「お前」か「少年」。未だに一度も名前で呼んでくれないのである。


 「お前を雇ってやってもいい」とオズワルドが言い出したのは、あの日、拘束の魔法を解いて直ぐのことだ。

 リゲルが怖くて横暴な魔術師から逃げ出さなかったのは、拘束されていた最中にオズワルドが語ったある内容を、どうにも知っているような感覚があったからだ。この魔術師に関わるのは御免だと思った反面、傍にいれば記憶が戻るきっかけがあるのではないかとも思われた。迷った末に自身の勘を信じ、リゲルは失った記憶を取り戻したくて、オズワルドに雇われることにしたのだった。


 あれから一ヶ月。現在リゲルは営業所のある一階に部屋を充てがわれ、住み込みで働いている。とはいえあの二階建てはあくまでもオズワルドの仕事場で、家は別の場所にあるらしく、雇い主は朝来て、夜には帰っていく。

 機械人形は営業所を閉めると動かなくなるので、オズワルドのいない時間のリゲルは、一人暮らしの気ままさである。二階の工房に入ってはいけないという言いつけさえ守っていれば何時間風呂で歌おうと、キッチンを漁って何を作って食べようと、誰にも文句は言われない。使った場所の片付けと掃除はしっかりやっているつもりだけれど、それだって機械人形に、してもしなくてもいいと言われる始末。

 魔術師に扱き使われる覚悟をしていたのに、肩透かしもいいところだ。実質買い出し以外に仕事が無くて、どうも張り合いが無い。


 一度だけこっそり、工房を覗こうとしたことがあった。夜があんまり暇なものだから、好奇心に負けたのだ。謎の装置に入れられたあの日以来、オズワルドは工房へ一切入れてくれないので余計に気になった。装置だらけのヘンテコな部屋のことを、リゲルはまだ鮮明に覚えている。

 金のドアノブを掴むと、警告だとばかりに掌がビリビリ痺れた。魔術師の工房には、鍵よりもやばい何かがかかっているらしい。

 命が惜しいので、言いつけを守ってこの部屋には絶対に近寄るまいと、リゲルは固く誓ったのだった。




「うーん……。いや、お前さんには売れないな」

「え? でも、買ってくるよう言いつけられているんです」

「劇薬も含まれているし、やばいモンも生成出来ちまう。これをどうしてもっていうなら、大人に買いに来るよう伝えな」

 三件目の店で、トラブルがあった。薬と薬草を扱う店でオズワルドのメモを見せると、店主は売れないと言うのだ。この店で買い物を済ませれば、今日のお使いは完了するというのに。

 相手が子供だと仕方ないのかと、諦めようと思った矢先。店に入ってきた自分よりも少し大きな子供には、店主は同じような薬を渡すではないか。

「ねえ、おじさん! あれは良くて俺はなんで駄目なの⁈」

「指を差すな。今のは魔術師アルコバレーノのお弟子さんだ。調合免許持ってる魔術師が使うって分かってるならいいんだよ」

「俺だって魔術師の使いだぞ!」

「嘘つけ、どう見てもお屋敷の坊ちゃんじゃねえか。それに俺だって力は弱いが、魔術師の端くれよ。お前さんからは魔術師の匂いがしない、だから違うと分かる」

「俺はお屋敷の坊ちゃんじゃない! この近くにある、とある場所で魔術師に雇われてるんだ、本当だ!」


 確かに今出ていった魔術師の弟子はいかにも魔術を使いますという服装だったし、俺は前の雇い主に貰った服を着た一般人だ。けど、何だよ、魔術師の匂いって。オズワルドは香水も付けていないし、体臭も無いような男だぞ。俺にも預かったメモにも、移り香がある訳ないじゃないか。

 それにしても困った。このまま引き下がって帰ったら、オズワルドに買い物もろくに出来ない奴だと思われる。それは嫌だ。あの魔術師に鼻で笑われでもしたら、腹立だしさに昨日買ったジャガイモを全部食べ尽くしてしまいそうだ。


「──失礼。君はもしや、魔術師オズワルドの使いではないのかね?」

「あっ……! クレイシオ⁈」

「私を知っているとは嬉しいですな。ご主人、このメモの筆跡は忘れもしない、私と決闘を行ったオズワルド・ミーティアのもの。決闘の誓約書にて彼のサインを見たので、間違いないでしょう」

「オズワルドの……? ちょっと待ってくれ、いつだったかの注文書がある筈だ。……いやはや、確かに」


 オズワルドを知るクレイシオが現れてくれるとは、渡りに船だ。店主は注文書とメモの筆跡を照らし合わせると、書いてある品を棚から取り出し、秤に乗せて計量を始めた。


「あの人嫌いのオズワルドが、こんな子供を雇うとはな。それならそうと早く言え、坊主」

「だって、オズワルドが言うなって……」

「彼らしい。徹底した秘匿、まるでいにしえの時代の儼乎げんこたる魔術師のようですな」

「そうさな、今時の若い魔術師にゃ珍しい。オズワルドなら、坊主から魔術師の匂いがしないのも仕方ねぇ」

「左様。完全に魔術の痕跡を消すのは少々面倒、戦時でもない現代では徹底する理由もないですからねえ。──余程、特殊な魔術でなければ」


 クレイシオは興味深げにリゲルを見下ろす。自身を通してオズワルドの秘密を探るような視線に、条件反射で胸がバクバクと鳴り始めた。

 魔術に無知でも、こんな時は何も言わない方が得策だと知っている。誰の使いか見破られたのは自分の落ち度ではないとしても、重ねて他の魔術師にうっかり秘密など漏らしたら、どうなることか。


 オズワルドも背丈が百九十センチと高めだが、クレイシオはそれ以上の威圧感だ。二メートルを優に超えるであろう身長、おまけに体には筋肉の厚みがあり、逞しい腕は丸太のように太い。凝った金刺繍の入った眼帯に革製のロングコート、額を出した短髪と、見た目が兎に角雄々しい。そして体の何割かが機械であるせいで、近付かれると機械人形と同じグリスの匂いを微かに感じる。

 壮年の男性らしい落ち着いた声で丁寧に話されようと、怖いものは怖い。森で野生の熊に遭遇したら、きっとこんな気分なのだろう。街から離れて森に行ったことは無いけれど。


「お待ちどお。全部で二百オーロに負けとくぜ、坊主を待たせちまったからな。これは取り扱いに気をつける品だから、帰るまで封を開けるなよ。走って落としたりもしないようにな」 

「あ、ありがとう!」

 店主は説明しながら紙袋に詰めてくれた。リゲルが買い回った他の店の品も纏めて入れてくれたので、根は親切な人なのだろう。

「君には重そうだ。荷物持ちは必要かね?」

「いえ、いえいえ⁈ 一人で大丈夫!」

 クレイシオの申し出を全力で断る。早くこの場を立ち去ろうと、カウンターの上に整えられた紙袋にさっと両手を伸ばし、懐に抱える。

「ふむ、回りくどい言い方をしてしまった。単刀直入に言おう。オズワルドの所へ、一緒に行ってもいいだろうか?」

「いや! えーと、そう、本屋に行くから! 読みたい本を、一人でじっくりと! 選びたい! ので!」

「それくらい待てる。魔術師だからとあまり警戒せんでくれ、私の剣を返して貰うだけだよ」

「剣?」

「オズワルドから何も聞いていないかね? 彼は決闘で得た剣を返却したがっている。一度は断ったのだが気が変わった。申し出を受けたい」

「ううん……。用があるなら……行ってみても、いいんじゃないかな。多分」


 街中の、大通りから程近い場所に構えている営業所だ。電話もあるし、手紙も普通に届く。リゲルが案内しなくても、特にクレイシオが訪ねられない場所ではない。

 どのみち来客をオズワルドへ取り次ぐかどうかは、機械人形が決めるのだ。リゲルが玄関先まで連れて行っても、怒られることはないだろう。


「では、まずは本だな。私は外で待っているから気兼ねなくゆっくり選んでくれ。近くに何件かあるが、どちらへ?」

「あー……うん。本屋に詳しくないんだけど、魔術師との付き合い方に役立つ本とか、そういうのが置いてある所、知ってる?」

「魔術師関連の本なら、あちら側の裏通りにある本屋がお勧めです。一般の方が楽しく学べる絵本から専門家監修の歴史書まで、なかなかの品揃えと聞いたことがある。行ってみましょう」


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