平和を望む
ぴちちちっ
窓の向こうから聞こえる鳥の鳴き声に、ゆるやかな微睡から呼び覚まされる。
「ふぁあ……」
ぐっと両腕を伸ばしてから体を起こすと、ゆっくりとベッドから降りた。ついでに窓に近寄るとシャッと勢いよくカーテンを開ける。とたんに射し込む眩しい朝日に目を細めたが、おかげ様で少し目が覚めた。今日も1日頑張りましょうか、とこちらに微笑むお天道様にゆるく笑みを返す。
そういえば、もうじき雪の季節がやって来ると誰かが騒いでいたような。だからだろうか、寝起きでぼんやりする頭でも感じる寒さにふるりと体が震えた。
「もうそんな時期なのですね」
あくびを繰り返したせいで涙が滲み、ぼんやりと覚束ない視界になるも、いつまでもこうしてはいられないと備え付けの洗面所の方へと歩き出す。今日の朝食の当番は私なのだから、遅刻するなんてことは絶対に許されない。皆さんが目を覚ましてダイニングに集まる前に準備を済ませておかなければ。
ぱしゃぱしゃと冷たい水で顔を洗い、あらぬ方向に飛び跳ねている髪を撫でつけて整える。それからクローゼットに向かうと、白のカッターシャツと普段から愛用しているシンプルな茶色のベストを羽織る。続いてちょっとくすんだ金の台座の中に、この国の象徴である七色蝶があしらわれたループタイをくるりと首に通した。最後に履きなれたベージュのスラックスに足を通して、と。
「さて、身支度も整ったことですし。ダイニングに向かうとしましょうか」
クローゼット横の姿見で身だしなみを確認したあと、隣接している部屋の幹部たちを起こさないようにそっと部屋を出た。
最近の皆さんはそろって慌ただしく動き回られ、自室に戻って来る時間も随分と遅い。そんな皆さんの眠りを私が妨げるだなんて、絶対にあってはならない。
部屋を出たあとも細心の注意を払って扉を施錠する。かちり、と小さく鍵が鳴ったのを確認してから自室を後にした。
コトリ、コトリ
静かな廊下に反響する私の足音。できるものならば音を消して歩きたい。でもその方法を知らない私にはどうしようもなくて。甲高い声を上げて鳴く靴にちょっと顔をしかめつつも、長い廊下を進んでいく。
階段を下って廊下を渡り、また廊下を歩いて、歩いて、歩く。
ようやくダイニングに着くころには体もいい感じで温まっていた。広い城塞で不便に思う事も多いが、デスクワークの多い私からすると運動不足の解消は丁度いい。
がちゃり
両開きの大きな扉、その取っ手に手をかけてゆっくりと開ける。
「よう。先に準備させてもらってるぜ」
「え、ウィルバートさん?」
どうやらダイニングもといキッチンには先客がいたようで。
キッチンの方からこちらに軽く手を挙げて、これまた軽く挨拶をしてきたのは軍の技術開発を担うウィルバートさんだった。いつもの黒シャツに紫のネクタイを締めている彼は、その上に白衣ではなくエプロンをその身にまとい、水道でなにやらシャカシャカと洗っているようだ。
「変な時間に目が覚めちまってな。二度寝するのもなぁと思って手伝いに来たんだ」
「なるほど。ありがとうございます」
「いいってことよ」
朗らかに笑うと、彼は朝食を作る作業へと戻って行く。再びジャーという水の音と、シャカシャカと言うリズミカルな洗浄音が聞こえ始めた。
本来の当番は私である為、私もなにかしなくては。エプロンを身に着けて手を洗う。
「そういえば、何を作ってらっしゃるんですか?」
「ん? あぁ、そろそろ寒くなってきただろう? ちょっとしたスープでも作ろうかなって」
「確かに最近気温が下がってきていますからね。スープの方はお任せしても?」
「おう、任せてくれ」
「でしたら、私はパンとジャム、あとは飲み物の準備しておきますね」
「頼んだ」
「はい」
水道のあるシンクから離れてキッチンの隅の方へ向かう。そこにあるのはウィルバートさんの科学技術と私の魔術で作り出した食糧保存庫。温度調節機能により暑い時期でも食料の傷みが遅く、生モノの長期保存が可能となった画期的な保存庫は、とても便利で軍内では重宝されている。
その保存庫からパンを詰め込んでいる籠を取り出して、オーブンの中に放り込んだ。もちろん籠ごとではなく、その籠からパンを取り出して。
「
オーブンの中、薪が並んでいる所に向かって右の手の平をかざして呟く。するとぽうっと白く輝く複雑な模様、いわゆる魔術陣が現れ、そしてそれが掻き消えると同時に火が灯った。
「よし、パンの準備はこれで」
次は飲み物を作るためのお湯を沸かしましょうか。
本来ならば火をおこし、火の勢いを調整しながら行わなくてはいけない作業なのだが、またもやウィルバートさんのおかげでその苦労も久しく経験していない。
なんと彼はボタン1つで火をおこし、調整する機能まで加え持つコンロというものを作り出してくれたのです。驚くことに食糧保存庫もこのコンロも彼の母国では、すでに一般に普及しているそうで。とはいっても、今この軍で使用しているものは彼の技術によってオリジナルよりも使い勝手がよくなるように改良されており、さすがに一般に普及させるにはまだまだ厳しい点も多いのですが。
カチリッ
コンロの上に水をなみなみと張った鍋を置き、摘みを回して火をつける。
「次は……机の準備ですね」
キッチンを出て大きなテーブルが並ぶダイニングへ近寄る。まずはテーブルを拭くところから始めましょうか。先ほど鍋に水を汲んだ時に濡らしておいた布巾で、机上を隅から隅まで丁寧に拭う。
それからテーブルの中央に2つ、カトラリーボックスを並べた。フォークにナイフ、ジャムを伸ばすバターナイフにティースプーン。
実は、以前食事に毒が混合していたことがありまして。それ以降、幹部の食事は幹部同士で作り合うようにしているのですが、カトラリーもすべて銀製のものを使用しています。もう2度とあんな光景を目にしたくないですからね。
「ふぅ、こんなものでしょうか」
あとは……あぁ、忘れていました。ジャムを取って来なければ。
パタパタと再び保存庫の方へ向かう。そういえば、ウィルバートさんの母国ではこの食糧保存庫のことを冷蔵庫と呼んでいるそうですよ。冷たい蔵、ですか。面白い名前を考えますねぇ。
保存庫もとい冷蔵庫を開けて色とりどりの瓶を取り出す。頭上から降る照明に照らされてキラキラと輝く瓶の中はまるで宝石だ。見ているだけでも満たされるものがある気がする。
真っ赤なバラよりも赤いイチゴジャム、太陽のような色をしたオレンジジャム、濃い夜のような色のブルーベリージャム、お月様のような淡い色のリンゴジャム、オレンジよりも優しい色合いのレモンジャム、鮮やかな紫のブドウジャム。それから、甘いものがあまり好きではない人のためにチーズとバターも用意して、と。
それらをお盆に乗っけると、落とさないように慎重にダイニングの方へと運ぶ。カランと瓶同士がぶつかり軽やかに歌い始めるが、大合唱が始まる前に無事テーブルに着くことができた。
コトン、コトン
ひとつひとつをテーブルに並べていく。と、キッチンのほうからウィルバートさんの声がした。
「クルト。オーブンから変な臭いしてるが、大丈夫か?」
「え、すみません。すぐ向かいます!」
テーブルセットでパンの準備をしていたことをすっかり忘れていた。まさか焦がしてしまったのだろうか。焦ってパタパタとオーブンに走り寄る。
くんくん
鼻をひくつかせると確かにツンとした匂いが漂ってきた。慎重にオーブンを開き中の様子を確認する。
「よ、良かったぁ」
いくつかは少し黒く焦げ付いているが、食べられないほど酷くはなさそうだ。焦げているものは責任をもって私が食べましょうか。お皿を持ってきて、1枚1枚にパンを乗っけていく。
しばらくしてすべてをお皿に移し終えると、次はそれをテーブルに運ぶ作業に移っていった。
少し大きめのものは健啖家なカイさんの所とハリマンさんの所に、比較的小さめのものは小食であるジークとミロスさんとフォルカーさんの所に、あとのお皿はロドルフさんとウィルバートさんの席に、それぞれを並べる。もちろん、焦げてしまったものはしっかりと私の席に並べましたよ。
「これでよし! さて、残るは」
そう言ってキッチンの方へ向かう。
「お、進捗はどうだ?」
すると、水を張った鍋の隣で、これまた鍋の中でレードルをくるくるかき回しているウィルバートさんがそう尋ねてきた。
「えぇ、あとは飲み物の準備だけです」
「こっちもスープの準備は万端だぜ」
「良い香りですね。いただくのが楽しみです」
「こちらこそ、クルトの淹れるコーヒーが1日の始まりだからな。今日も楽しみにしてるぜ」
「ご期待に沿えるよう、頑張りますね」
「頼む」
鍋を持ってダイニングに向かうウィルバートさんを横目に、人数分のカップとソーサーを準備する。
それからまず準備したポットと、カップにお湯を注いでいく。さきにポットとカップを温めておくと、紅茶もコーヒーもおいしくいただけるのですよ。
ポットとカップを温めている間にコーヒーの準備をする。ちょっと手間ですが、グラインダーに豆を入れてハンドルを回す。こうした方が美味しいのですから、ちょっとの手間なんてなんてことありませんよ。
ゴリゴリと手に伝わる感触はもう何度も経験しているというのに、何度やっても初めてのように心が躍る。
「ふふっ」
ゴリゴリ、ガリガリ
楽しいなぁ、なんて思いながら粒が均等になっていることを確認すると、今度は紅茶の作業へと取り掛かる。
ポットを温めるために入れていたお湯を捨てて、その中に人数分の茶葉を入れる。ハリマンさん、ロドルフさん、ミロスさん、それから私の4人分。ティースプーンで慎重に量りながらポットに落とした。そうしてから再度火にかけて沸騰させておいたお湯を、茶葉入りのポットの中に勢いよく注ぎ入れる。この時、勢いを殺さないようにするのがコツですよ。それから、お湯を注いだ後すぐに蓋をして蒸らすこともお忘れなく。
さて、紅茶の準備はこれぐらいで。今度はコーヒーの方に移りましょうか。
まずはドリッパーにペーパーフィルターをセットして。そしてその中にジーク、カイさん、フォルカーさん、ウィルバートさん4人分のコーヒー粉を入れる。それから少量のお湯で20秒ほど蒸らした後、細口のポットで円を描くようにしてお湯を注いで、と。それが終わったら、カップを温めていたお湯を捨てて、1つ1つのカップに濁り色のコーヒー注ぎ入れていく。
うん、我ながら今日もいい出来だ。
コーヒーの準備はこれで完了だ。残るは蒸らしていた紅茶の方ですね。
こちらもカップを温めていたお湯を捨て、ポットの中の紅茶を注ぎ入れていく。
「よし、できた!」
うん、こっちもいい出来だ。匂いもいい感じに出ているし、色も鮮やか。自分で言うのもなんだが、かなり上達したなぁ。
「クルト、こっちはもう終わるが大丈夫そうか?」
「はい。あとは運ぶだけですので」
「ん、了解」
ちらりと壁に掛けられている時計を見やる。もうじき皆さんがすきっ腹を抑えてやって来る時間だ。
「ふふ、今日も穏やかに過ごせますように」
まだ夢の中にいるであろう人物を思い浮かべながらポットなどを片づける。遅刻常連者のフォルカーさんは、今日は間に合うのだろうかとゆるく笑みを浮かべながら。
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