血濡れのアモール

「や、やぁハリー。良い朝だねぇ~」


 扉から僕たちをニッコリと見るハリーに取り敢えずそう挨拶する。ちなみにお日様はまだ空の向こうで隠れんぼ中だ。

 こちらを見るハリーの後ろに、般若の幻覚が見えたような気がするのは気のせいだろうか。いやきっと気のせいだ。

 うん、気のせいだよね?


 キィ、バタン


 なんとなく重苦しい音を立てながら扉が閉じられる。心なしかミシリと木製の扉が軋んだような。うん、これもきっと気のせいだ。ハリーが怒りのあまり力任せに扉を閉めたとか、そういうのじゃないよね、と思いたい。

 違うよね、うん。


「そうだね、うんうん。良い朝だねぇ」

「あは、あはははは……」


 ニッコリ


 絵に描いたように笑うハリーに渇いた笑いを返すことしかできない。彼はコトリ、コトリ、と可愛らしい足音と共に近寄って来るが、その顔はあまり穏やかとは言い難いように思う。笑顔を浮かべているのにどうしてだろうか。

 ウィルはというと我関せず、俺は空気だとでも言うように存在感を消している。くっそ、このやろう。自分だけ逃げようとしているな! 

 あ、コラッ! 明後日の方向に顔向けやがって。


「まったく……。それで、体の調子はどう?」

「へ?」


 思いもよらない問いに間抜けな声が口から飛び出す。

 だってハリーがあの顔をしている時は、基本的に説教が待ち構えている時だから。もしかしたら今日も、なんてちょっと身構えてしまったのだ。正直、拍子抜けだ。

 ところでウィル、笑い堪えているの見えてるからね。後で覚えておけよ。


「なぁに? それとも愛の鞭が欲しかった?」

「いえ滅相もございません!」


 『愛の鞭』とはすなわち、ハリーが手ずから行う説教もとい『健康』について何時間にもわたって行われる講義を指す。

 あ、今なにがそんなに恐ろしいのかって思ったでしょ?

 僕もね、実際にそれを受けるまでは「へぇ~面白そう」としか思っていなかったのだけれど、実際に受けてみるとこれが辛いのなんの。

 『説教』を受ける時はウィルの故郷であるアルメンの伝統的な座り方、正座で。それから短くても半日はそのままの状態なのだ。運が悪くハリーの機嫌が悪い日に『説教』を行われる日なんかはほぼ丸1日正座の状態が続く。慣れない姿勢に、こちらの痛いところ的確に抉ってくるハリーの講義は、それはそれは効果抜群で。

 だから僕は、ハリーの『説教』もとい『愛の鞭』が嫌いなのだ。


「で、体は? もう大丈夫?」

「あぁ、うん。ちょっと寝たら結構良くなったよ」

「へぇ、ちょっと」

「あ~っと」

「はぁ……まぁいいよ。ちょっとでも寝てくれたのなら」


 ほっ、と胸の中で息をつく。良かった、これ以上言及される様子はないようだ。ひとまず危機は去ったかな、うん。


「ところで、どうしてウィルバートはここにいるの?」

「あぁ、湿布を貰いに来たんだが医務室に無くてな。そうこうしているうちに、ここの電気が点いているのが見えたからちょっと寄ってみただけさ」

「あれ、湿布なかった?」

「あぁ。また頼めるか?」

「うん、いいよ」

「助かる」


 丸椅子の上でくるりと方向転換し、ハリーの方に体ごと向けるウィル。ハリーもハリーでちょっと距離を縮めて体をウィルの方に寄せる。

 うん、これで完全に話が逸れた。もう大丈夫そうだ。

 僕そっちのけで会話を進める2人に、そっとカーテンをめくり窓の外を見やる。

 あ、遠くに橙色の光が見えた。

 もうすぐ夜明けだね。



 安心して気を緩めているフォルカーを横目にハリーとの会話を楽しむ。徹夜したというくだりでちょっとだけ咎められたが、その話はまたの機会に。


「そういえばハリー、あの話考えてくれたか?」

「あの話?」


 ふと思い立った問いを口にすると首を傾げた俺の想い人。こてん、という効果音が似合うような動作と、それにつられてふわりと揺れた指通りの良い柔らかな髪。そして不思議そうにこちらを見る淡い空色の瞳に改めて胸を射抜かれた。


 可愛い。


 ついでにフォルカーの方も、窓から視線を外してこちらに目を向け興味深そうにあの紅い目を細めてやがる。正直、お前のリアクションはどうでもいいのだけれども。


「アレだよ、アレ」


 意味深に繰り返してからおもむろに立ち上がり、ハリーの立っているところに歩み寄ると、無防備に晒されたうなじの辺りに顔を寄せ囁いた。ふわりと香るハリマンの匂いにちょっと心が浮足立つ。

 いい匂いだな。甘くて優しいハリマンだけの匂い。


「月が綺麗だって話」


 ぴったり5秒間。考え込むそぶりを見せたあと言葉の意味をようやく理解したのか、かぁっと顔を赤らめたハリー。

 凄いな。熟れたリンゴよりも真っ赤でみずみずしく、思わず齧り付きたくなる。まぁもし本当にそんなことした暁には、平手打ちからの頬の紅葉は待ったなしだろうけれども。

 後ろの方でフォルカーが息をのむ音も聞こえた。それほどまでハリーの顔は真っ赤に染まっているのだろう。とはいえ俺以外にその顔を見せているのはあまり気に食わないが。


「~~っ」


 囁きを拾った耳を押さえて声にならない声を上げたハリーはというと、「い、医務室にいるから! 何かあったら呼んで!」とだけ言い残し、ドタバタと部屋を出て行ってしまった。


 あぁ、もう、本当に。

 可愛い奴だ。


 煌びやかに着飾って鼻が曲がるほどの香水を纏う女たちより、媚びを売ってすり寄ってくる野郎共より、今まで出会ってきたどんな人間よりも。


 愛おしい。


 こんな感情に振り回される日が来るなんて思いもしなかったが、これはこれで毎日が楽しいものだ。科学が恋人だなんて豪語していたあの日々が懐かしい。もうあんなモノクロの日常になんて戻れないし、戻りたくもないがな。


「なに言ったのウィル?」

「月が綺麗だって。それだけさ」

「うわ」

「なんだ、うわって」

「いや。今更だけど、ハリーもやっかいな男に目を付けられたなって」


 嫌なものを目にした時のように顔を顰めたフォルカーは、そう言って体を倒すと掛け布団を被り直した。

 もうすぐ夜明けだというのに、今からもう一度寝るつもりか。朝食を食いっぱぐれても知らないぞ、という言葉はひとまず置いておいて、と。再度、ベッド横の丸椅子に腰かける。


「おいおい、随分な言い草だな。自分で言うのもなんだが、結構な優良物件だろ?」

「う~ん、そういうところじゃないかな?」


 『やっかいな男』という言葉に抗議すると、眼鏡をはずし、顔だけをこちらに向けるフォルカーが小馬鹿にするように笑った。


「時間の問題だろうから先に言っておくけど、泣かしたりしたら仲間だろうと容赦しないから」


 次いで聞こえた言葉は物騒な重みを携えていて。笑みを消し、一切の感情がのらない顔をして言うフォルカーは、幹部最弱の名を冠することが冗談に思えるくらいの迫力を持っている。

 さすが革命時は主導者と共に最前線を駆けた男だ。ここにいる軍人たちの中では群を抜いて細い体躯で、虫も殺せないような情けない顔をしているが、あの日、エーレヴァルト国を潰した日。誰よりも手柄を上げ、誰よりも血を、復讐を、国の終わりを求めたのは紛れもなくこの男なのだ。

 革命時から後方支援、本部待機が主で実戦に立ったことのない俺からすれば、その重みから彼の言葉がいかに本気で発せられたモノか理解するには充分で。


「もちろん。幸せの涙はあっても、不幸の涙は絶対に」

「……多すぎる幸せも時には毒だからね。気を付けて」

「あぁ」


 眼前の男はくるりと背を向けて丸まると、小さな声でそう言いそれっきり口を閉ざしてしまう。

 しばらくするとすぅすぅ、と規則正しい寝息が聞こえ始めた。


 『幸せと不幸は向かい側』というのはよくある考えで、俗にいう一般論という奴だろう。しかし先程フォルカーが言った言葉は『幸せの隣に不幸は立つ』という意味だろう。これは、根を下ろす場所を探して旅をしている最中で耳にした価値観の中でも、圧倒的に少数派の考え方だ。

 俺はここの幹部たちについてあまりよく知らない。もともと他人に対して、というか人に対して興味を持った試しがないからというのもあるし、そういう生き方をしてきたからというのも一因だ。けれど、よくよく考えればそれって寂しい生き方なのではないかと、最近になって気が付いた。

 現にフォルカーのこともさっぱり分からない。彼を、彼の価値観や考え方を形作っているバックグラウンドをなにも知らない。1年間寝食を共にし、癖を把握し、その人を読むことはできるが所詮その程度しかできないのだ。『人を知るという事は過去を知るという事』、母国の恩師がいつの日かそう口にしていたが、その意味が今日になってようやくわかったような気がする。


「俺も部屋に戻るか」


 カーテンの隙間からちらりと顔を出す朝日に目を細め、静かになった部屋でぽつりと呟いた。

 

「あ、そういえば今日の朝食の当番はクルトだったっけな」


 博識な軍の参謀兼軍属魔導士の顔を思い浮かべる。

 一般兵に対して座学の教鞭も執る彼は、しかし文官であるという事が嘘に聞こえるほどアウトドア派もとい武力行使派なのだ。有り体に言えば脳筋という奴である。世の中のありとあらゆる知識を有しているのではないか、それぐらいの知識量を持っているというのに一体どうしたことか。

 古びた紙片の香りと独特なインクの匂いを纏うクルトは、あれでいてフォルカーよりも強く、クルトよりも背のある俺を、もっと言えば軍きっての高身長かつ筋肉質なカイを投げ飛ばせるぐらいには筋力もある。

 加えて、その薄いブラウンの瞳と淡いカーキ色の瞳で、儚げ美人と評されることもある彼だが、実は大雑把で手先が不器用なのだ。


 端的に言うぞ。


 クルトの作る飯はとりあえず具材が大きく、日によって味付けが薄かったり濃かったり。正直言ってあまり美味いとは言えない。コーヒーや紅茶を淹れるのだけは上手いのにどうしたというのか。


「手伝いに行くか」


 幹部たちの今日の活力のため、俺たちの胃の安寧を守るため。フォルカーの病室を出て幹部専用の食事処、もといダイニングルームへと向かった。

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