赤眼鏡と白衣

 不思議そうな顔をする白衣の男は、キィ、バタンと扉を閉じると僕のいるベッドの方へと近寄ってきた。一歩進むたび白衣がふわりと揺れ、独特な甘い香りが漂ってくる。


「ウィル、タバコ吸ってきたの?」

「あぁ、まぁな」


 ベッドサイドの丸椅子にドサリと腰かけたウィルに問うと、気にするなとでも言うようにひらひらと手を振られた。


「こんな時間に珍しいね。何かあったの?」

「いや、単純に研究疲れ。さっきまでちょっと立て込んでいてな」

「なるほどね。お疲れ様」


 ふぅ、とため息をつきながら肩を回すウィルは確かに疲労が見え隠れしていて。ねぎらう様に声をかけてから、常時持ち歩いているキャンディーを1つポケットから取り出し手渡す。「お、ありがとう」と受け取った彼は、そのまま包装紙をビリと破くと、まぁるいキャンディーをポイと口の中に放り込んだ。


 カラリ、コロリ


 天使が横切ったのか。気味が悪いほどしんとしている病室内で、キャンディーを転がす音だけがただ響く。

 こういう沈黙はやっぱり苦手だ。


「で、なんでまたお前はこんなところに?」

「いや~。ちょっと色々あってね」


 へらりと笑いながら答える。色々、というのは間違いではないし、うん。


「へぇ、そうかい」


 カラリ、コロリ


 へらへらり


 何とも言えない沈黙が再び訪れ病室内を包む。

 実を言うと僕はウィルのことが少し苦手だ。いや、苦手というのはちょっと違うかもしれない。僕はきっと彼のことが羨ましいのだ。どこまでも自由に生きてきた彼のことが。

 ウィルのことを1から10まで知っているわけではない。それでも、彼がどういった経緯で今ここにいるのかぐらいは知っている。ウィルはもともと旅人だったのだ。気の赴くまま、足がある限りどこまでも行くことができる自由の人。僕には届くことのなかった自由をむさぼってきた人。そうやってあちこちを歩き行くうちにたどり着いたのがラインハルト国、もといエーレヴァルト国。


 だから、妬んでいるのだ。僕にないものを持っているウィルを。


 あぁもう、本当に嫌になる。どうして僕はこうなのか。自分と他人を勝手に比較して、勝手に他人に対して嫉妬して、嫉妬が高じて苦手意識を持って。


 カラリ、コロン


 ガリッ


 ぐるぐると自己嫌悪に浸っていると、突然ウィルがキャンディーに歯を立てた。


「ちょっとお話ししようぜ、フォルカー」


 どういう意図でウィルがそう言ったのかは分からない。それでも、居心地の悪い沈黙に内心で辟易へきえきしていた僕は「うん、いいよ」と2つ返事でその提案を受け入れた。



 ガリガリと口の中にキャンディーを粉々になるまで噛み砕き、欠片もなくなったのを確認してからゆっくりと口を開く。


「前々から思っていたんだが……お前さ、俺のこと苦手だろ」


 図星だったのかピクリと肩を揺らすフォルカー。それからへらりと笑ってこう言った。


「そんなことないよ。急にどうしたの?」


 へらりへらりと、まるで敵意がないことを示すかのように笑みを深める目の前の男。

 ぴったりと顔に張り付いたソレは、素人の目には完璧なものに映るのだろう。しかし侮ることなかれ。人を見抜くことに長けた人物として一番に名前が挙がるのは、もちろん外交を担当しているミロスだろう。

 だが、もちろん彼だけがそれを備えているわけではない。ミロスには負けるが、俺にもあちこちを放浪する中で身に着けた観察眼が備わっている。故に、1年も寝食を共にしていれば、その者の癖を掌握し嘘を見抜くことくらい造作もないことだ。




「嘘つき」




 掛布団の上、女のように細く手入れの行き届いた、けれどしっかりと節の目立つ男の手を見ながら呟く。


「知ってたか? お前は噓を付くとき必ず体のどこかに爪を立てる。ほら、今だって」


 組んだ両の手、突き立てられている親指の爪と、その爪が食い込んでいる皮膚は白く色が変わりちょっと痛々しい。それでもフォルカーはだんまりだ。


「他にも挙げようか。そうだなぁ、まずは顔だ。笑顔の胡散臭さがいつもよりも倍になるな。鏡見てみろ、歪だぜ?」


 とは言っても、それに気付けるのは俺やミロス、あとはフォルカーと付き合いの長い奴くらいだろうけれども。

 フォルカーの赤いフレームの眼鏡に蛍光灯が反射し、血のように赤黒い瞳を覆い隠す。相変わらず口元は弧を描いたままだ。


「あとは、そうだな――……」

「嫌い、嫌いだよウィル。君のことが」


 続けて例を口にしようとした俺をさえぎるようにフォルカーの声が重なる。

 吊り上がっていた口端は真一文字に、にっこりと微笑んでいた目は冷ややかに。一瞬で崩れ落ちた仮面の向こうは、俺の想像していた以上に人間臭かった。


「苦手じゃなく嫌い、か。言い切ったなフォルカー」


 両肩を揺らし呵々かかと笑う。恨みがましく視線を投げられたが、気にも留めず口を動かした。


「いいねいいね、そういうの! で、俺のどこが嫌いなんだ?」

「え、噓でしょ。それ聞く?」

「そりゃあ気になるからな」

「えぇ~……? というかウィルってアルメンの出身でしょ? あそこの人たちって、こういう人の心に土足で踏み込むような真似はしないって聞いてたんだけど」

「生まれ育ちは確かにアルメンだが、悪いが魂はもうラインハルト一色さ。で、どこが嫌いなんだ?」

「君ねぇ……」


 ニヤニヤと追撃する俺に、フォルカーは大きなため息を吐くとついでに肩も落とした。かと思えば彼は服の内に手を伸ばし何かを取り出すと、それをひょいと放り投げてきた。


「おっと」


 反射的にそれをキャッチする。カサリと乾いた音を立てて手に収まったのは、先ほどもフォルカーにもらったキャンディーだ。


「それあげるから、もう黙ってて」

「つれないなぁ」


 お前もお話しすることには賛成してくれたのに。ちょっと唇を尖らせながら、ビリッと袋を裂いてキャンディーを口の中に放り込む。

 さっきはイチゴ味だったが、今度はリンゴのようだ。イチゴほどしつこくなく、かといって全く甘みがないというわけでもなく、さっぱりとした風味が広がる。

 うん、美味い。


 カラン、コロン


 静かになった室内にキャンディーを転がす音が響く。


 カラン、コロン


 フォルカーはいつも棒付きのキャンディーを咥えているが、まさか棒無しのキャンディーまで持ち歩いていたとは。他にはどんな味のキャンディーを持っているのだろうか。このまま口を開けてはくだらないことを問い続けていると、次はどんな味のキャンディーで俺を黙らせて来るのだろうか。研究者魂という訳ではないが、単純に好奇心が疼く。


 ガリッ、ゴリッ


 好奇心を抑えきることができず、勢いでキャンディーを噛み砕いた。突然の轟音にピクリと肩を揺らすフォルカーは、いつものような見ているこっちが気の抜ける表情に戻っていて。「嫌い」とハッキリ口にした時の、あの背筋の冷えるような凄みはいつの間にか消えていた。


「もう、舌噛んでも知らないよ?」

「へぇ。舌噛み切って死んでほしいって?」

「ちょ、誰もそんなこと言ってないってば!」

「冗談だ」


 ガリゴリ、ゴクッ


 砂のように粉々になったキャンディーを飲み込む。さて、と。口輪代わりのキャンディーもなくなったことだし、そろそろいいだろう。


「どこが嫌いなんだ?」


 ニッコリと、清々するほど晴れやかな笑顔で問いかける。


「だからさぁ!」


 ひきつる口の端を必死に引き上げて声を張るフォルカー。いいぞ、この調子だ。

 人は感情の振れ幅が大きい時ほど本心や大事なことをこぼしやすい。現に今のフォルカーは度重なる同じ問いに、しかも答えたくない問いにうんざりとし、青筋までうっすらと浮かんでいる状態だ。その勢いのまま『俺の嫌いなところ』を洗いざらい吐いてくれ!

 と、興奮のあまり心中で喚いていると、ふいに扉が開かれた。


「なぁにしているのかなぁ~?」


 ニッコリと、先ほど俺がしていたような笑顔で問いかけてくる男。扉を開けたのは白衣の天使こと我らが医務室の長、ハリマンだった。

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