飼い主と猫
バタン、と執務室から廊下へ続く扉が閉まる音を耳にした後、再びベランダの方へ歩み寄った。閉ざされたガラスをカーテン越しにコンコンと2度ノックする。
すると音もなく屋根から何者かが降り立ち、月を背負ってカーテンに影を作った。いつから屋根の上にいたのか分からないが、少なくともカイが珍しい姿をさらけ出している時にはそこにいたはず。随分と体が冷えていることだろうと思い、シャッとカーテンを引きガラス戸を開け、その影を室内へと招くべく声をかけた。
「外は寒いだろう。ほら、早く入れ」
「……お邪魔します」
律儀にもそう声にしたのは、やはりというか予想通りの人物。近接戦最強の名を冠し、同時に暗がりに身を隠すことを得意とする、誰よりも心根の優しい男。
「いつからあそこに?」
「お前がベランダに出た少し後」
私室に併設されている小さなキッチンで、小鍋にミルクを入れて火にかけていると、向かい側のカウンターに腰かけているロルフからそう返された。
「そんなに前から⁉」
ベランダに出た時刻を思い出し驚く。ざっと2時間ほど前だったはずだ。そんなにも長い間、冬目前の寒空の下にいただなんて。
いくら超人と謳われるロルフでも身体に悪いだろう。純粋なホットミルクだけでも十分体は温まるかもしれないが、コップに移し終えたミルクの中にハチミツを1掬い落とし、ティースプーンをくるくる回す。冷えた身体を温めるにはこれが1番だ。
「これでも飲んで温まれ。お前に体調を崩されては俺たちがかなわん」
コトリ、とロドルフの目の前にコップを置く。
「ありがとう」
湯気立つコップを両手で持ち、ふぅと息を吹きかけてから口元に近づけたロルフ。
銀髪金眼の容姿や、風を切りながら縦横無尽に駆ける姿から他国の連中には『狼』と渾名されているが、その実、彼は猫舌で気まぐれな質でもある。どちらかというとイヌ科の狼よりも、ネコ科の動物に例える方がしっくりくるのでは、とは仲間内の談だ。
こくり、と喉を鳴らしホットミルクを飲み込むと、ロルフはほぅと一息ついた。「美味い」と呟いた彼は、仲間にもなかなか見せないような穏やかな顔をして頬をほころばせている。
よっぽど寒さが響いたのか、それともようやく俺にも心を開いてくれるようになったのか。
どちらにせよ珍しいその表情に、こぼれそうになった笑い声を喉奥に押しとどめる。ロルフがどうしたとでも言うようにこちらを凝視してきたが、「なんでもないさ」と適当に言ってから俺も自身のコップに口をつけた。
「で、俺に何か用でもあったのか?」
コップの中身が半分ほどになった頃、俺はロルフへ尋ねた。2時間も夜風の中待っていたというのだからよほど重要な案件でもあったのだろう、と。
「ネズミが入り込んでいた。すでに駆除したけど、念のためと思って報告に」
「ネズミか」
やはりこいつは狼よりも獅子、いや豹などの方が似合うのではないだろうか。そう考えを改めていると、隠していた笑い声もついにこぼれた。
「なに、急に」
「いやなんでも。それよりもフォルカーはどうした?」
再び適当に誤魔化してから情報管制室の長の名前を出す。機械に強いアイツはもっぱら情報戦での要を務めているが、その他にも城塞内の監視という任も請け負っている。侵入者がいれば、いの一番に気づき警告を出すのが仕事というわけだ。しかし今日は、あのけたたましい警報音を耳にしていない。ルカの身に何かあったのだろうか。
「今は医務室にいる」
「傷の容態は」
「いや、疲労とかの蓄積で倒れたって」
「疲労」
そういえば「ここ最近ちょっかいを出してきている3つ隣の国の情報を漁っている」と、ルカが張り切っていたのを思い出す。
根を詰め過ぎたか。
「怪我はないんだな?」
「血の匂いはなかったから大丈夫だと思う」
「そうか」
それにしても疲労、か。アイツに思っていたよりも負荷をかけていたのだな、と一人反省する。
いつでもどこでも隈がお友達、そして表情を取り繕うのも上手い。ただでさえ気づきにくいのに、アイツは自身の体調不良を隠そうとする。限界を超える前に俺たちが気づいて止めてやるべきだった。ルカには向こう3日ほど休暇を取らせよう、と今後の予定などを頭の中で組み立てていると、ロルフの方からじっと視線を感じ、ひとまず思考の海から浮上した。
「どうした、そんなに見て」
「なんでも」
聞くとそう返された。いつの間に飲み終えたのか、ロルフの前のコップはすでに空になっている。何でもないことはないだろう、そう思い視線を投げかけると、彼はガタリと椅子から立ち上がり扉の方へと歩いて行ってしまった。
「ジークの真似」
扉に手をかける直前、肩越しに振り向いて一言。思いもよらないセリフに数度目を瞬かせる。そうこうしているうちに「ごちそうさま。おやすみ、ジーク」と言い残してロルフは部屋を出て行ってしまった。
「お前それは、ずるいだろう」
誰もいなくなった私室で、一人顔を覆いながら呟いた。
「あー……」
なかなか懐いてくれなかった野良猫が、初めて自ら手にすり寄ってきた。そんな感覚に嬉しいようなくすぐったい様な感情に襲われる。
「カイやフォルカー達に自慢してやろう」
夜明けまであと数時間。ゆるく笑みを浮かべたまま寝台に寝そべり、部屋の明かりを落とした。
明日、ではないか。もう日付は変わっているのだから。とりあえずこの話をした時の皆の反応が楽しみだ、なんてことを考えながら。
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