第一章 危機一髪のその後で

ベランダの叙任式

 コンコンコン


 重厚な黒塗りに美しい装飾の施された扉を3度叩く。重苦しく威圧的な見た目に反して軽い音を立てた扉は、しかしいくら待てども返事はなかった。


「ジークフリート?」


 扉越しに部屋の主の名を呼ぶ。

 総統といういわゆる国家元首の座に就く彼は、部屋を離れる際には必ず文官総括の書記長兼総統補佐である俺に一報入れる。

 新興軍事国家であるラインハルトには、何度も刺客やスパイが入り込んでいたという過去がある。つい先日も痛い目に遭ったばかりで、それらから彼を守るためには、心苦しいがどうしても行動を制限する他なかったのだ。あいにく今日はそんな報せを耳にした覚えはない。

 ということは、だ。

 声を出せない、あるいは身動きの取れない状況下にいる。 


 それすなわち――……。


「ジーク!」


 蹴破る勢いで扉を開け放ち彼の名を叫ぶ。総統執務室に足を踏み入れたが、そこに彼の姿はなかった。執務机の椅子には彼が常日頃から愛用しているコートがひとり項垂れているのみで、肝心のジークはやはりいない。

 焦りで目の前がぐらりと揺れる。


 落ち着け、落ち着くんだ、俺。


 アイツはあれでいて存外真面目な質だ。ならば取り決めを破り、何も声をかけずに姿を消すことはないだろう。加え剣の腕も立つ。そこいらの刺客に後れを取るはずもないし、情報管制室から侵入者が入ったとの連絡もない。

 ならば、彼は一体どこにいるのか。

 ふぅと息を吐き一旦冷静になると、目を閉じて耳を澄ます。俺以外の息が、動きが、血の流れがどこからするか。それは誰のモノか。逸る心臓を無理やり無視し、ただひたすらに耳に意識を集中させた。


 …………聞こえた。


 小さな声。低く、けれどどこまでも澄んだ美しい声。歌を歌っているのだろうか高く低く移り行くソレは、ノイズ交じりの無線のように不明瞭だが、それでも耳に慣れたそれが誰の声かぐらいは判別できた。その声は執務室にいるはずの総統、ジークフリートの声だった。


「こっちか」





 執務室の隣、彼の私室へと繋がる扉に手をかける。ガチャリとノブを回し開けると、暗い夜風がふわりと横を通り過ぎて行った。もうじき雪の季節が来るのだろう、冷え切った風にふるりと体が震える。耳に届く声が少し大きくなった。

 ぐるりと部屋を見渡す。寝具の掛布団は平たいままだし、その横に据え置かれている机と椅子にも彼はいなかった。

 ふと視界の隅に薄い白布が横切る。どうやら視界を踊ったのは、ベランダへと続く掃き出し窓のカーテンだったようだ。風も声もそこから流れ込んで来ているようで、そうと気づいた俺はそちらへと足を進めた。

 ベランダへと近づくにつれ歌の詳細な歌詞がハッキリと聞えるようになってきた。


「~~♪〜〜♪」


 報われることなく散った恋。それを語った歌劇の劇中歌だっただろうか。たしか主人公は国家権力のもと国に強制徴兵された青年で、想い人である敵国の皇女と心中して物語の幕は閉じていたはず。




 彼らは出会った当初お互いの身分を偽った。青年は敗戦間近な小国の一介の兵士ではなく、海の向こうからの旅人だと。皇女様は大陸きっての強大な国の第1王女ではなく、ただの町娘だと。そうして2人は何度も逢瀬を重ね、文を交わしていた。

 そんな危険な幸せに浸っていたある日、青年の国に敵国の皇女が捕虜として捕らえられる。青年は上司に捕虜の牢の見張りを命じられ、あまり好きではない軍服に身を包み牢の前まで赴くのだ。

 そして彼は言葉を失った。

 なぜなら牢の中でぼろきれを纏う皇女の顔は、姿は、意中の町娘そのものだったのだから。

 言葉をなくしたのは牢の中に繋がれている彼女も同じだった。思いを寄せている彼は、現在交戦中である敵国の軍服を身にし、牢の向こうからこちらを凝視しているのだから。

 2人は冷たい鉄格子越しに抱き合い涙を流した。2人とも自分の命の行く末を、運命を悟っていたのだ。

 皇女は捕虜として、青年は明らかな負け戦で、お互いが長い命ではないと気づいていたのだ。

 それからどちらからともなくこう口にする。「世界ではなく貴方に殺されたい」と。そうして悲しき恋人たちは夜闇にまぎれて脱走し、心臓にナイフを突き立ててこの世を去る。来世への約束と目印として、お互いの左手の薬指を切り落としてから。




 ちょうどこのシーンで挿入されていたはずだ。2人で選んだ最期の場所、青年と皇女の国境をまたがる森の奥深くにそびえ立つ老年な巨木の足元。2人が倒れ伏した後に周囲の木々や草花がゆらゆらと泣きだすのだ。その時に紡がれたのが今聞えている歌である。


「死と、共に」


 ベランダの手すりに手をかけ、月にぼんやりと照らされながら歌を口ずさむジークを見て、ぽつりと曲の題名を口にした。

 国のどこを探しても、おそらく彼しか持ち合わせのない白金の髪は、月明かりに溶け、なんとなく、そのままどこかへ消えてしまうんじゃないかって。

 手を伸ばせば触れられるはずの距離なのに、なぜだか届かないような気がして。

 背を向けている彼の肩に伸ばした手も、宙を掴むことすらせず途中で頼りなく彷徨うばかりだ。


「~~♪」


 手を引き戻せずに不思議な格好で固まっているとふいに歌声が止んだ。

 ハッとして姿勢を正そうとしたが、目の前の彼がこちらに振り向く方が一足早かった。


「なんて顔してるんだ。カイ」


 振り向いたジークは、ちょっと目を見開き驚いたような顔をすると、不格好にも空を掴み損ねている俺の手を取った。「お前こそ珍しい顔してるぞ」と軽口を口にしようとしたが、カラカラに渇いた唇は何も紡いでくれない。


「大丈夫だ、俺はここにいるぞ」


 掴まれた右手からじんわりと彼の熱が伝ってきた。金色の瞳がレンズ越しに俺の目を射抜く。冷酷無慈悲な軍事国の長と評される彼は、冷酷さのかけらも見当たらないような温かな目をしていた。


「このまま、どこかへ行ってしまうんじゃないかって」


 たったそれだけ、たったそれだけのことで俺の胸に巣食う不安がスルリと口から零れ落ちる。アイツの声と温度だけで塞がっていた俺の喉は声を取り戻したのだ。


「お前が、消えてしまうんじゃないかって」


 情けなく声が震える。

 思い出すのは1ヶ月前、青白い顔をして医務室に横たわっていた目の前の男の顔。

 月明かりに照らされて淡く光を纏う彼と、なぜだかあの時の情景が重なって。


「どこかに行ってしまうんじゃないかって」


 怖かった、という言葉だけは飲み込んで喉奥へとしまい込んだ。代わりにジークの存在を確かめるように、俺よりも小さく、細い体を掻き抱く。零れ落ちそうになる涙を必死に押し留めているのを悟られないよう、アイツの肩にぐいと顔を押し埋めながら。



 目の前で小さく体を震わせている大男の背を、ゆっくりとなだめるように撫でる。弱々しい声で「消えるな」「いくな、ここにいろ」と幼子のうわ言のように繰り返す男と、戦場で身の丈もある大剣を振り回し『鬼神』と恐れられる男が同一であるだなんて誰が思うだろうか。


「俺は、ここにいるぞ」


 先ほども口にしたセリフを、今度はゆっくりと言い聞かせるように口にする。母親が泣いている赤ん坊をあやすときのような柔らかな声で。

 俺のことを囲んでいる檻が少し緩んだ。


「俺たちは軍人だ。命を奪い奪われる非日常が、俺たちにとっての日常だ。明日には俺たちのうちの誰かが欠けているかもしれない。故に、明日の命を約束はできないがこれだけは誓おう。お前たちをおいて逝かないよう努力はする、と」


 ゆるんだ腕から身体をひねり抜け出した後、カイの目を見ながらそう言った。顔を逸らそうとするヤツの頬を両の手で包み込み、ぐっとこちらの方に引き寄せながら。

 突然の出来事に目を白黒させているカイの瞳には薄く膜が張っているものの、もう不安げに揺れてはいなかった。


「それでもまだ恐怖を感じるなら、そうだな……。誓いの証として指の1つでも切り落としてみせようか?」

「そんなこと、冗談でも言うな」


 笑みと共に1つ提案してみると、拗ねたような声音でそう返された。

 

 あぁ、これでこそ俺達のカイだ。

 夜空のような濃紺の髪、赤よりも熱くすべてを焼き尽くす深い青炎の瞳。

 誰よりも強く、そして先を見据える、俺たちの帰る場所。


「悪かったって。そんな風に睨むな」


 じとりと睨みつけてくる双眸に、1歩後ずさってパッと両手を上げ降参の意を示す。さっきまでの弱々しさは霧散し、すっかりいつものカイへと、『書記長兼総統補佐』であり、『鬼神』と恐れられる男へと様戻りしていた。

 一国の主が部下に両手を上げ、こうも隙をさらけだすなんて他の国ではなかなかないのではないだろうか。など考えているとふいにカイが固い床に膝をつく。

 体調でも崩したのか、と思い近寄ろうとしたがその前に彼の声が俺をその場に縫い留めた。


「ジーク、ジークフリート。我らが総統、ラインハルトの長」


 俺の名を、俺を呼ぶカイの声はいつになく固く真剣で。

 片膝を立て地にかしずく姿はどこかの国の王子のように美しく、また騎士のように洗礼されていて。跪く軍人とその前に立つ上司たる俺の姿は、さながら騎士と王との叙任式のように錯覚した。


「今1度、貴殿に誓おう」


 聞き親しんだ声。

 けれど耳に慣れないその温度。


「私が貴殿を守る剣となり盾となる。何1つ欠くことなく守り抜いてみせる」


 生まれたころから共にある兄弟。今はもう少し遠くなってしまった存在。

 目の前で跪付き首を垂れるカイにあの日の情景が重なる。先王権の瓦解を目指し、たった2人で誓い合ったあの日を。

 はじまりは俺とカイの2人だけだったのだ。あの時もカイは俺の前に膝を折り、誓いを述べた。薄暗い小屋の中、総統でも王でもなんでもない、ただのジークフリートに。あの馬鹿は『命を預ける』と忠を誓ったのだ。

 本当に大馬鹿者だ。


 しかし。


「面を上げよ、我が砦」


 唯一無二の、愛すべき友であり兄弟であり、仲間である。



 決して大きくはないけれど、しかしよく通る美しい声で、地面へと伏せていた顔をゆっくりと上げる。月明かりに照らされ、夜風をその身に受けるジークは、歌を口ずさんでいた時のような儚げな雰囲気の代わりに、妙な威圧を纏っていた。


「お前の誓い、しかと受け取った」


 その姿は正しく一国の主であった。

 他者を圧倒するカリスマ性に威厳と風格。

 生まれながらに約束された支配者。


「ならば、俺の死がお前の死だと心得よ」


 ニヤリと口の端を吊り上げ口にしたジーク。不敵な笑みと共に告げられた言葉は、何も知らない人からすると横暴な死刑宣告に聞こえることだろう。

 

 けれど。

 

「御意に」


 俺にとっては、この上ない幸福感に包まれる、最上級の甘言だった。夜の冷たさではないナニカに身体がふるりと震える。この感覚をどう言い表せばいいのか、あいにく俺には思いつかない。ただ1つ、そこに嫌悪感などの負の感情がなかったことだけは確かだ。


「さて、と。もう随分と夜も更けた。そろそろ休むぞ、カイ」

「そうだな。お前も早く休めよ、ジーク」


 すっと差し出された手を取って立ち上がりつつ催促した。どれくらい時間が過ぎたのか計るためチラリと月の位置を横目で見てみたが、思っていたよりも西に傾いている。これ以上体を冷やすのは良くないだろう。ジークは俺よりも長い間ここで夜風に当たっていたはずだろうし。


「おやすみ、ジーク」


 ジークがベランダから私室に戻り、窓を閉めてしっかりと施錠したのを確認してから部屋を出る。


「あぁ、また明日」


 扉を閉める直前に聞こえた声がずいぶんと優しかった気がするのは、俺の思い違いだろうか。

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