第1話 万能人(10)

 またしても、僕は歌の主を探すことができなかった。そのことが悔しいような、それでいいような不思議な気持ちになる。合格しているかどうか、知りたいけれど結果を見るのが恐いのと少し似ているかもしれない。期待と不安で胸が張り裂けそうな、そんな気持ち。こんなに素晴らしい歌を歌う女の子を見てみたいとは思う。しかし、僕らが見つけてしまったことで、もしかしたら、その女の子はもう二度とその歌声を披露することはなくなってしまうのではないかとも漠然とだが不安に思う。だって、わざわざ、こんな人気のないところで歌っていたのだ。女の子の事情が何なのかは計り知れないが、こんなに小さな歌声だから大勢の前で歌うというのは、やはりそぐわない。

 後ろを振り向くと、帯解おびとけも僕と同様に泣いていた。何度も何度も涙を拭うのだけれど、どうしたって止まらないのだ。帯解は困って笑う。

「僕は、万能人と呼ばれるし、自分でもそう名乗るけれど、それでも、僕にこんな歌は歌えないよ。それが、悔しい」

「これは、もはや人間の所業ではないよな。霊的現象だ。奇跡だよ」

「奇跡」

 帯解が噛み締めるように言う。

「そうだ。奇跡のためには、彼女の歌声が必要不可欠だ」

 僕は声を洩らし、首を傾げる。

「僕が京終きょうばてを雇ったのは、奇跡を起こすためなんだ」

「どういうこと?」

 ほとんど核心 まで迫っているらしいのに、それ以上のことを帯解は口にはしない。

「帯解に迷惑をかけたくない。だから、言えない」

 突き放されたようか気がする。そして、見えない電車が僕の身体を木っ端微塵にする。頭の中で、何かが割れる音がした。


 高校が始まってからは、ぱったりと歌声が聞こえなくなってしまった。

 どうやら、僕の仮説は正しかったらしい。朝の七時過ぎから、夜の七時前まで、学校の開いている間中ずっと粘ってみたが、成果は得られなかった。校舎内を散歩して回ったけれど、女の子は見つからない。帯解に見捨てられて、女の子にも見捨てられた気になる。

「京終くん。学校が始まってからというもの、顔色が優れないようですが大丈夫ですか」

「それは、高校初のテストも惨憺たる結果でしたし」

 安宅あたか先生は気にしないで、これからですよと励ましてくれたが、そういう訳にもいかない。

「京終くんは中学校を卒業してから、十年も経ちますからね。久々の学校生活で疲れが出るのも当然です。こんなことを言うと教師らしくないと叱られてしまうかもしれませんが。まずは学業はほどほどにして高校生活に慣れるのに集中したほうが京終くんの心にも良いと思いますよ」

 放課後の教室に、安宅先生とふたりきりでいる。放課後には安宅先生と話すか、勉強を見てもらうことが多い。

「高校は、きっと中学を出てすぐに入っても、それがどこの高校であったとしても、決して僕には馴染まないと思うのです。小学校、中学校と、とりたてて嫌なことがないのにも関わらず、いつも、何で自分は学校なんかに通わなければならないのだろうと思っていましたから」

「京終くんは、学校が嫌い?」

 僕は首を横に振る。

「そうではなくて、世間というモノが嫌いなのだと思います。学校なんて集団生活できない、もしくはそれを苦痛に思う人間には、ほとんど拷問か虐待ですから」

「しかし、京終くんは世間が嫌いでも、人間が嫌いではないでしょう?」

「いやいや、やはり、それは人によりますよ」

「でも、とりあえずは、帯解博士と私のことは、気に入ってくれているのでしょう?」

 安宅先生は笑う。すっかり、見破られてしまっている。僕は白い歯を見せ、笑い声を洩らす。安宅先生が教室の時計を見やる。

「では、私はそろそろ仕事をしなければなりませんので」

「仕事!」

 僕は慌てて、かばんから仕事の予定がびっしりと書かれた手帳を取り出す。

「大変だ。絵の仕事を忘れていた」

「絵ですか?」

 安宅先生が首を傾げる。僕は、営業用に持ち歩いている作品集の小冊子を手渡す。「どうりで」と、安宅先生が驚きの声を洩らす。

「どうりで聞いたことのある名前だなとは思ったんですよ。我が家のカレンダーは、京終くんの描いた絵です。まさか教え子が世界的なアーティストだとは、思いもよりませんでした」

 僕は久しぶりに頬を染めた。笑って、失礼しますと頭を下げる。

「京終くんもお仕事、頑張って下さい。さようなら」

 安宅先生が手を振るのを確認して、速歩きする。ずっと失念していた絵の仕事で、今は頭がいっぱいだった。だから、階段から現れた女生徒に気付かなかった。盛大にぶつかり、盛大に転ぶ。果たして、ぶつかったのはクラスメートの女子だった。しかし、名前が浮かばない。彼女はどちらかと言うと、地味なタイプなのだ。校則は守るモノと言うよりは、そこに存在しているモノで、紙ではないのだから、破るモノではないと固く信じているようなそんな女子だ。

「せ、先生、ごめんなさい」

 それだけ言うと、そそくさと彼女は去った。

「先生じゃないんだけどなあ」

 僕は未だに制服ではなく、スーツを着ていた。他人のことは言えないが、それでもせめてクラスメートの顔くらいは覚えていてくれたっていいではないかと僕は顔をしかめた。

 それに、人に謝るときは、大きな声のほうが良い。せめて、明確に謝罪の意思を伝えるほどには。





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