第1話 万能人⑨

 案の定、夕飯時には、帯解おびとけに大いに叱られた。

京終きょうばては馬鹿なのか? 馬鹿だから、高校にも入れなかったのか?」

「馬鹿ではない。僕は自分の覚えたくないことは、覚えられないだけだ。それに、高校に行かなかったのは、絵の時間を削られるのが許せなかったからだ」

 帯解はもはや言葉を失っていた。

「今更、僕を雇ったことを後悔しても遅いぞ」

「京終はいつも僕の想像の上を行く」

「妄想でアーティストに勝てると思うなよ」

「きっと京終の頭の中は、多くが妄想で出来ているのだろうな」

「いいことを教えてやろう」

 僕は得意になって、箸を掲げる。

「僕が人生で最も重要視しているのが、気分だ。現実など知ったことか。つまり、妄想だけで生きているのと変わらない」

 帯解はあんぐりと口を開けている。理解不能といった顔だ。僕は身を乗り出し、帯解の頭を叩く。

「帯解は現実世界に生きる人の代表者だからな。現実と妄想の戦いだ」

 帯解が眉間にシワを寄せる。僕の手を払う。

「やってやろうじゃないか」

 即座に女性の悲鳴が上がる。

「やるってやっぱり…!」

「そういう意味じゃない!」

 帯解が声のしたほうに向かい叫ぶ。例の女医だった。帯解が俯き、一息吐く。

「とにかく、明日は僕も高校に行く。そこで、先に歌う人を見つけたほうが勝ちだ」

「それは、現実と妄想の勝負に関係なくないか?」

「気分至上主義者のくせに、細かいんだよ!」

 帯解は涙目で、立ち上がり行ってしまった。どうやら帯解には喧嘩の経験もないらしい。僕はそっぽを向く。帯解って、本当に子供っぽいよなあ。


 僕は首を傾げる。なんか、見覚えのあるような女の子が近づいて来るのだけれど、どう見ても帯解なのだ。そして、帯解は男だったはずなのだが。

「えーと、めいちゃん?」

「そうだ。僕のことは、明ちゃんと呼べ」

 かつらだろうか、長い髪の毛をして、ワンピースにボレロなんか着ちゃっている。しかも、違和感が全くない。どこからどう見ても良家のお嬢さまといった感じだ。

「女の子は僕とは言わない」僕は首を振る。いかにも、残念そうに。

「あれだ」帯解が手を叩く。「僕っ子、とか言うやつだ」

 どこからそんな言葉を覚えたのかと、急に不安になる。

「誰だ。こんな純真な女の子にそんな俗っぽい単語を教えたのは?」

平城山ならやまさん。医務室の」

 あいつか。あいつこそ、帯解のことを狙っているのではないか。

「ところで、何故、そんな格好をしている?」

 帯解、いや、明ちゃんが不敵に微笑む。

「奇襲作戦と変装を兼ねている。京終が僕の想像の上を行くのなら、僕も京終の想像の上を行こうと思ってな」

「いや、驚きはしたけど、そんなには」

 むしろ、嬉しかったりする。もちろん、本人には内緒だ。しかし、本当に似合っている。本当に本当は、明ちゃんではないのか? スカートをめくりたい衝動に駆られる。確認したいが、殴られるに決まっているので、我慢する。

「何? 恥を忍んで、女装までしたのに!」

 とにかく帯解は努力の仕方を激しく間違えている。

「校門前でくっちゃべっていても始まらない。とにかく、校舎内に入ろう」

 僕は帯解の細い腕を引っ張る。ちらりと帯解の顔を盗み見たら、真っ赤だった。何だよ。何で、帯解が赤くなるんだよ。僕もつられて頬を染めた。

 スリッパに履き替え、ぺたぺたと廊下を歩く。

「歌、聞こえる?」

 帯解が尋ねる。僕は唇の前に人差し指を当てる。

「本当に小さい声なんだ。黙って」

 帯解が頷く。僕は中学時代にクラスみんなで学校に泊まって、夜中に校舎内を胆試ししたことを思い出した。普段、見慣れているはずの校舎は、暗いというだけで全く別の顔を僕らに見せた。不気味だった。温厚だとばかり思いこんでいた先生が急に怒声を上げた時と同じ居心地の悪さを感じる。えっ? と思う。この人は、この校舎は、僕の知っているのと全然違っているのではないかと。僕が今、歩く校舎はまだまだ慣れきっていない、愛着もあまり感じられない。だから、あの不気味さが支配しそうになるのだ。未知の世界は恐ろしい。息苦しい。

「あ」

「聞こえる」

 帯解が先に気付き、僕も続く。小さい小さい鈴を転がすような、小鳥が囀ずるような、幼い子供がひそひそ話をするような、そんな歌声が聞こえる。染み渡る。歌を聴き洩らさぬように、息を潜め、まばたきすら我慢する。声が小さすぎて、知っている歌なのか、そうでないのかも判然としない。それでも、これは歌で、山の中にいるみたいな空気を思い出させる。樹海のような、圧倒的な存在感。僕は自然と窓から晴れ渡る青空を仰ぎ、そして、泣いていた。唐突に現れた歌は、自然消滅していた。あまりにも自然すぎて、現在、歌を聴いているのか、それともこれが単なる余韻なのかも曖昧で区別がつかなかった。きっと、実際に歌っている時間よりも、余韻に浸っていた時間のほうが遥かに長かったに違いない。




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