第1話 万能人⑧

 体調が思わしくなかったので、なんと寮に辿り着くまで一時間ほどかかってしまった。寮と呼ぶのならば、もう少し屋敷の近くにしてはどうかと思う。

 寮は、青いトタン屋根がチャームポイントの二階建てだ。僕は世間的には、名の知れたアーティストということになっているから、ここはアトリエでもある。だのに、四月に入ってからは、油絵どころか、水彩画も描いていないし、スケッチすらしていない! アーティストの名折れだ。自分がしばらく絵を描いていないことに、アイデンティティの危うさを感じる。一般的な画家のイメージ通り(?)、頭を抱えふらふらと歩く。絵を描かなくては、生きていかれない。これは、僕の本心なのだ。

 中原中也という詩人が居た。彼はまず詩を書く前に詩人になろうとしたと言われる。普通は、詩を書くから詩人なのだ。それを彼は詩人らしい滅茶苦茶な生活を好んですることで、まずは詩人になったのだ。それから、詩を書いた。一方、僕は生まれながらのアーティストだった。気が付けばいつも何かしら絵を描いていたし、お前は変わっているとよく言われた。小学校の担任に、クラスのみんなの前でそう言われたことすらある。みんなと違っているというのは、やはり、寂しいものはある。僕には「一般」というものが、頭では理解できても、実感はできないのだ。たとえば、中学生ともなるとクラスの中で、女子がいくつかの仲良しグループに分かれる。言ってしまえば、派閥だ。A、B、Cの派閥があったとして、AとB、AとCといった派閥間の触れ合いがないかと言えばそうではない。表面上は、仲の良いフリをする。それは、授業や行事を円滑に進めるためには必要不可欠なのだ。それはまだ解る。僕が理解に苦しむのは、同じ派閥の中でもさらにメンバーを好ましく思っていない人が居るということだ。好きでないのならば、派閥を抜けるなりすれば良いのに、いつまでも当事者がいない時を見計らって陰口を叩く。しかも、その当事者というのが、十中八九全てのメンバーに当てはまる。つまり、みんながみんなの悪口を言って結束しているのだ。こんなに気持ちの悪い話があるだろうか。仲の良いフリをして、不満がありながらも本人には決して伝えない。あまつさえ、親友に隠し事をしているのだと堂々と言う女子も居る。「一般的」には、ご機嫌伺いをする彼女らのほうが正統派なのだと支持されるのだろうが、僕の目にはどうしても奇異に映った。だから、僕はできるだけ嘘は吐かないし、無理をしてまで友人を作ろうとはしない。決して嘘を吐かない蜂は最高の親友だ。

 洗濯機に汚れた服を放り込む。洗面所で真っ裸の自分に惚れ惚れとする。美しい。痩せている人間のほうが、筋肉や腱、骨などが浮き出ていてよく見える。僕の場合は筋肉も脂肪も薄いので、ほとんど全ての肋骨の位置が見てとれる。中学生のとき、ふざけて後ろから抱き付いてくる阿呆が居たが、その度に悪寒が走った。「肋骨の隙間に指を入れるな!」と僕は怒ったものだった。いくら医者でも肋骨の隙間に指は入れない。あそこは他者にあけ渡してはならぬのだ。きっと。筋肉や関節の動きなどを観察したい衝動に駆られるが、シャワーも後回しにしてとりあえず寝ることにする。余計なことに頭を使い過ぎだ。何度でも言うが、僕は具合が悪いのだ。深い眠りにつく。

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