第1話 万能人⑦

 寮の自室に足をひきずりながら戻る。

 寮、と言っても僕だけは正規の研究所の寮ではなく、屋敷から離れたところにある建物を自室として割り当てられている。だから、部屋に戻るよりは医務室のほうがまだ近いと考え、医務室の場所を周囲の優しそうな研究員たちに尋ねようとしたのだ。

「医務室に来ても、あなたは追い返します」

 遠くから叫ぶ声があった。

「研究員じゃなくて、医者だったのか!」

「女が医者で悪かったわね!」

「女性研究員と女医だったら、断然、後者のほうが萌えます」

 僕は彼女を励ますつもりだったのに、どうやら逆効果だったらしい。怒った彼女は僕のほうへ方向転換したかと思うと、ずんずんと大股でやってくる。かと思いきや、例の吐瀉物まみれのサンダルのせいで、豪快にこける。しまいには小さな子供のように大声で泣き出してしまった。見かねた人が彼女を立たせる。彼女はその場で汚いものを触るかのように、いそいそとサンダルを脱ぎ捨てたかと思うと、いや、だから、サンダルは実際に汚いんだよな、とにかく豪快に遠く離れたゴミ箱へと投げる。見事にゴールイン。三角屋根のふたが揺れる中、食堂に居たほとんど全ての人が拍手や歓声、口笛などで彼女を褒め称える。さっきまで泣きべそかいて、眉間にシワよせて、歯だって食いしばっていたのに、今は照れくさそうに口に手をあて、おほほと笑っている。僕もあははと笑う。

 笑いながら、けがをしても、病気になっても、医務室には行けないなと思った。近くに良い病人があればいいけれど。

 健康管理には気を配らなければな、と溜息を吐く。それにしても、僕の住む部屋は何故、こんなにも遠く離れているのだ。大体にして、僕の住処は屋敷の敷地内にない。歩くには少し遠く、僕は自転車で行き来をする。ようやく自転車置き場まで来て、僕は頭を悩ませる。今、自転車に乗ったら、絶対に吐くな。しょうがない。血も繋がっていなく、キスもセックスもしない、僕の友達は駐輪場に置いて行くことにしよう。友達の名ははちと言う。僕の下の名前がみつだから、ふたり合わせて蜜蜂、もしくは蜂蜜と言う訳だ。それに、乗り物が生き物の名前をしているのは、なかなか可愛らしい。「蜂」と「自転車」は何かを運ぶという点で共通している。

 蜂とは中学以来の付き合いだ。登校、下校に始まり、どこかに行く時には必ずと言って良い程、蜂と一緒に遊び歩いた。普通の人間なら、車で行く距離でも僕は蜂と行くことにこそこだわった。

「蜂が居なければ、蜜はとれないんだよ」

 そう言う度に、「だから?」と言われた。いや、「だから?」と言われても。僕は顔をしかめるしかなかった。きっと、人間に対しても、自転車に対しても、同等の愛情を降り注ぐ僕のことを理解してくれる人が居なかったのだ。僕はさすがに蜂とセックスしたいとは思わないが、キスならいくらでもしたいと思う。多少、汚くても構わない。感謝の気持ちを伝えるのだ。もしも、帯解にはっきりと交際を断られたならば、僕は蜂にキスをしよう。ところで蜂は男なのか、女なのか。自転車に性別はないはずだ。男性向け、女性向けのデザインというのはあるが。となると、こいつ、雌雄同体か。そう言えば、パラ見した生物の教科書に「蜂は自家受精する」とあった。何だ、自家受精って。受精は普通、自宅とか自分の巣でするものではないのか。つまり、ラブホテルだとか旅先だとかで受精すれば、「他家受精」になるのか。精子と卵子に違いがなかったら、どこで受精しようと同じことだと思うのだが。

 僕は心の中で蜂にしばしの別れを告げる。蜂が羽音を立て、行かないでと哀願しているような錯覚に囚われる。気のせいだった。「蜂」は生き物ではない。自転車だ。

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