第1話 万能人⑥

「歌が聞こえたんだ」

「歌?」

 図書館から昇降口へと向かう廊下で聞こえた歌声のことを教える。

「音楽の授業にはまだ早いし、合唱部かなんかじゃないか」

 帯解おびとけはカレーライスを食べるのに夢中だ。一般の人よりは頭が良いのに、味覚は子供らしい。そういう僕は、和風ハンバーグ定食だ。和風なだけ、少しは大人だ。と言うか、デミグラスソースが苦手なので、和風しか食べられないだけだが。

 昼飯時で、賑やかな食堂を見渡しながら言う。帯解の研究は多岐に渡り、雇っている人間の数も多いので、屋敷内には食堂がある。

「合唱部だったら、もっとはっきりした声で歌うだろうよ」

 帯解は氷水を飲み、頷く。

「それもそうだな」

 僕より早くカレーライスを食べ終えた帯解が、空の皿を見つめる。おかわりしようかどうか迷っているのだろうか。よし、と帯解が顔を上げる。おかわり決定か。

「明日、僕もその歌声を聞きに行こうじゃないか」

「研究はいいのか?」

「一日くらい休んだところで、支障はないをいや、あるかもしれないが、そんなの誤差のうちだ」

 僕はもう一度、食堂を見渡す。多くの人間は白衣を着ていて、その数は数十人どころではない。数百人は居る。こんなに大勢の人間を雇う金があることも驚きだが、彼らを放っておいてどこかへでかけようとする帯解が信じられない。無責任さに呆れ、溜息を吐く。

「僕は指示だけ出しておけばいいんだ。だって、こんなに大勢の人間の研究全てに携われる訳がないだろう」

 そうは言うけれど、帯解が僕を拾ってきてからというもの、帯解は研究もそっちのけでずっと僕と雑談に花を咲かせている。

「あ、悪いのは僕か」

 帯解がにやにやする。僕は居心地悪さに顔をしかめる。味噌汁を飲みながら、心を落ち着ける。飲み終え、漬物に手を伸ばす。

「解った。帯解は普通に学校通っていないから、同年代の友人がいないんだろう。それで、まだ、年の頃が近い僕を雇ってみて遊び友達にしているんだな」

 これなら、納得がいく。

京終きょうばても意外と賢い」

「僕は高校をビリで入って、トップで卒業する男だからな」

「予定だけどな」

 茶化す帯解の顔は、寂しさと嬉しさでないまぜだった。

「ほら、食い終わったら、さっさと行けよ。最近は遊んでばかりだから、仕事溜まってるんだろう」

 僕を見る帯解の目が、暗い。明るいところから突然、暗闇に放り出されてしまったみたいな、何も見えない、所在無さげなそんな目だ。

「明日、高校に高校に顔出すんだろ」

 帯解がにわかに、口角を吊り上げる。心なしか、瞳が潤んでいる。

「京終を雇って良かったよ」

「当たり前だ」

 帯解が万能人なら、僕は美術界の万能人とでも呼ばれるべき男なのだ。

「しかし、絵描きを雇って、絵を描かせないパトロンというのも妙なものだな」

「それはまだ、その時期ではないんだ。いずれ時が来たら話すよ。それまでは、高校で勉学に励んでくれ」

 立ち上がり食器を片す。妙齢の、と言っても僕よりは年上の女性研究員が僕を指して「帯解博士の恋人かしら」などと囁いていたのを聞いてしまった。うーん、実のところ、どうなのだろう。自分でもよくわからない。僕が生まれながらのアーティスト気質だろうからか。僕には、家族を愛すのも、友達を愛すのも、可愛らしい女の子を愛すのも、全て同等に思えるのだ。言ってしまえば、誰かを愛することに関して家族と友達と恋人の区別がつかない。というか、もともと区別など存在しない。ただし、馬鹿ではないので、一般的に言われる家族と友達と恋人の区別はつく。血が繋がっているのが家族で、キスしたりセックスしたりするが恋人で、その他が友達だ。何か、間違っているだろうか。現在では、孤高の美少年博士に絶賛、片想い中だ。いや、誰も絶賛はしていないが。天才同士、分かり合えないものだろうか。いや、それはそれで傍目には気持ち悪いには違いない。だって、もしも、帯解が僕の気持ちを受け入れてくれたならば…。

「京終、なんか気持ち悪い」

「き?」

 ああ、僕の愛しの帯解に、不快な思いをさせてしまった。おまけに眉間にシワなんか作らせてしまって。

「僕は罪作りな男だな」

「酔っているのか?」

 実際、僕は酔っぱらいのように耳まで真っ赤になっていた。自分で自分のテンションの高さが、多少、ウザくは思っていた。

「酒は飲んでいないはずだが」

「いくら成人でも、高校生飲酒は好ましくない」

 僕は低く、怪しい笑い声を洩らす。いよいよ酔っぱらいのようだ。

めいちゃんはお子ちゃまだから、お酒飲んだことないんでちゅね~。あのハッピーな空気を味わったことがないなんて残念でちゅね~」

 調子に乗った僕はもちろん殴られる。あ、今回は本気だ。全身全霊のパンチだ。

「残念なのは、お前の頭だ」

 床に寝転がり、早足で去る背中を見送る。くそ。「お前」なんて言われちゃったよ。明ちゃんって呼ばれたの、そんなに怒ったのかな。いや、赤ちゃん言葉のほうか。

 何気なく、上を見たら女性の脚があった。悲鳴が上がる。例の恋人発言をした女性研究員だ。

「いや、僕には、熟女趣味はないですよ。僕が今、興味あるのは帯解だけです」

 女性研究員は食器の載ったおぼんを豪快に投げ捨てると、僕のみぞおちを蹴る。やめてくれと手を伸ばすが、女性研究員は年下の男を蹴ることに性的興奮でも覚えたのだろうか。僕の頼みは耳には入っていないようだ。すぐに、女性研究員のサンダルは吐瀉物まみれになった。だから、言ったのに。再び、悲鳴が上がる。


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