第1話 万能人③

「しかし、まずいな」

 帯解おびとけが何かを食している様子はない。僕は「おいしいごはんが食べたかったら、レストランにでも行こうか?」などと、そらとぼけてみる。帯解が何か良からぬことを、言い出すのではないか。そんな不安が頭をよぎる。

「僕の助手になると言うのなら、大卒とまではいかなくても、最低限、高校くらい卒業してもらわなくては。そう、首席で」

「それって、一番で、ってこと?」

 帯解は満面の笑みで頷く。帯解が乱れた髪を整える仕草がまた、聖女のように美しい。僕が帯解に見とれているそのわずかな間に、僕は現役高校生になってしまっていた。帯解がおそらくは高校の関係者であろう人物と電話し終えてからも、しばらくその繊細な髪の毛を弄んでいたのは、僕の注意を逸らす、その為の作戦だったのだ。中卒の僕は、美しいモノが目の前にあると、馬鹿まるだしで、ずっと見続けるという習性がある。例えば、横断歩道を渡る途中で、美しいモノを見つけてしまったら、僕は車に轢かれてなおもそれを見続けるだろう。命は惜しいが、美しいモノから目を離すほうがもっと悔しい。高校を出たら、その習性も修正できるだろうか。そんなことを、「京終きょうばては高校生になった」という宣言を受けた後、ぼーっとした頭で考えた。

「入学試験はいいのか?」

「それは、明日、受けてもらう。しかし、上手くいかなくても、大丈夫だ。何故なら、京終は既に高校生だからだ」

 それでは、一体、何の為の入学試験なのかと僕は訝った。が、帯解が楽しそうだったので、口にはしない。

「職権乱用したのは、これが初めてだ」

「初めての職権乱用」

「初めての職権乱用」

 帯解はさも愉快そうに繰り返す。初めてのおつかいに興奮する子供のようだと思った。きっと帯解は母親の胎内にいた頃から、美しかったに違いない。指をしゃぶるのも、子宮を蹴るのも、何もかも。

 美しく育った少年が手を叩く。

「そうだ。高校に行くのなら、制服が要る」

「はあ? 着るのか? この僕が、制服を?」

「当然だ」

 帯解が頬を膨らませて、言い切る。

「制服なんて、ただの記号だ。誰も、似合うか似合わないかまで、追及したりしない」

「それでも、両極端な場合には、通行人が振り返る。夢に出たら、気の毒だ」

 僕は本気でそう思った。ふいに帯解が僕の頬にその白い指を滑らせる。

「似合うよ」

「似合うかな」

 帯解はどこまでも、可愛らしく微笑む。たんぽぽの花みたいだ。

 酒を与えるか、否か。十九歳と二十歳の区別がつかないように、僕が高校生の間に混じってみても、年上だなんて微塵も感じさせないだろうと、帯解は言うが、それはさすがにないと思う。どこの大学院を出たのかとためらわずに訊かれた僕である。十九歳と二十歳の区別がつかないからと言って、十六歳と二十六歳の区別がつかないなんてのは、漢字を習い始めたばかりの小学生の話だろう。もう一度、言わせてもらう。それはさすがにない。そんなこと、ある訳がない。僕はとにかく、警官からの職務質問を受けないかと心配でならない。


 しかし、困った。因数分解って、何だっけ? 数学の問題は、一問目からして、解けない。因数分解の「因」の字は、因幡の白うさぎの「因」の字と同じだな。ところで、因幡の白うさぎとはどんな話だったかと思い出しているうちに、試験終了のチャイムが鳴る。監督の教師に、苦笑いで解答用紙を差し出す。

「これは教えがいがあるというものです。京終蜜みつくんですか。名前を書いてあるのは、非常に好ましい。解答用紙が渡ったら、まず名前を書く。これは基本です。案外、高校生にもなって、この基本ができない生徒が多いのですよ。それで、大学に落ちる子供たちが少なからず居ます。そうでなければ、一年早く、東大や京大といった最高学府で学べるのに。親御さんの経済的負担も馬鹿になりません」

 物腰の柔らかい白髪の教師は、物憂げに溜息を吐く。

「しかし、いくら世界の帯解博士の頼みであっても、全教科0点ではさすがに入学許可が取り消しになってしまいます。どうにか、がんばってください」

 僕を心底心配してくれる教師と熱い握手を交わす。僕は深く頷き、そのままの視線を保つ。昨日の帯解の無茶振りを思い出す。

「こんな僕でも、首席でこの学校を卒業できるでしょうか」

 思いがけず、肩に手が触れる。何度か、叩かれる。

「できます」

 白髪教師の力強い声と目とに、僕は思わず泣いてしまった。まばたきを忘れ、相手の顔を見つめる。

「私は安宅あたかと言います。京終くんが合格したら、私は京終くんの担任になるでしょう」

「素敵な予言です」

 安宅先生は目を細め、頷く。

 チャイムが鳴り、国語の問題を開く。胸が高鳴る。にやけずにはいられない。どうやら、予言は実現されそうだ。




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