第1話 万能人②

 僕は残念そうに、首を振る。ん? 帯解の周りだけ、時間が止まってしまったのかと疑った。帯解の白い肌から、さらに色が抜けていく。僕は心配し、帯解の顔の前で、手を振る。

「あの、帯解?」

 僕に声をかけられ、ようやく帯解が帰ってくる。息が乱れている。少しの失敗で、呼吸をするのも忘れてしまうだなんて、万能人が万能人たる為には、多大なる努力が必要なのだろう。僕は勝手に、帯解を気の毒に思っていた。

「僕と同じ、桜井線の駅名だったのに」

 帯解が悔しそうに呟くのが耳に入る。先程、自分の名前を間違えられて僕を殴ったばかりの人が、その殴った相手の名前を間違えてしまったのだからこれほど痛いこともないように感じられる。今にも、さあ、僕を殴れと帯解が頬を差し出してくるのではないかと、はらはらする。別段、僕は自分の名前を間違えられたくらいで、相手をぶん殴ってやろうというほど野暮な人間ではない。あ、いや、これは帯解のことを非難している訳ではないのだ。そう、決して。

「まあ、そんなことはどうだっていいじゃないか」

 僕は精一杯の作り笑顔を見せる。帯解は小さな子供みたいに、目尻に涙を浮かべ、僕を上目遣いに見る。僕は唾を飲み込む。なかなか可愛いじゃないか。そう思ってしまった自分に悪寒が走る。

「何。その鳥肌」

「いや、ここはちょっと寒いなって。窓、閉めてくれないかな」

 帯解は不信そうに僕を一瞥すると、それでも、親切に窓を閉じてくれた。帯解が僕の名札に目を遣ったので、僕は首にかける。それを確認して、帯解が屋敷を案内してくれることになる。僕は思い切って、目の前の細い背中に訊ねる。

「帯解は、兄弟いないの?」

 うん? と、帯解が振り向く。数回、まばたきする。

「いやさ。お姉さんか、妹さんでもいたら、紹介してもらえないかな、なんて。帯解、男前だから、そんな人がいたら、絶対に美人だと思って」

 帯解が笑い声を洩らす。

「残念だったな。生憎、僕には姉も妹もいない。一人っ子なんだ」

 僕は大仰に溜息をついてみせる。

「本当に残念だよ。僕は帯解と親戚になれない」

「なりたかったのか? 兄弟に?」

 帯解がさも不思議そうに首を傾げる。僕は目を細め、そうだと答えた。

「僕の方が帯解より年上なんだ。だから、そうなったら、帯解にこき使われなくて済むのになあって思って」

「しかし、雇い主は僕だ」

「はい。ご主人様」

 僕は自嘲気味に笑う。これは大変なことになったぞ。僕は、男に惚れてしまった。


 まさか、自分が高校に通うことになるだなんて、思ってもみなかった。

 昨日のことだ。帯解が「京終はどこの大学院出身で、専攻は何なの?」などと、のたまったのだ。「どこの大学出身?」なら、まだ解る。帯解は、どこの大学院出身なのかと訊いてきたのだ。僕の顔面の筋肉から、まるで潮が引くかのように、血が引いた。本気で言っているのか? 僕はやっとの思いで、眼球を動かし、帯解を非難する。

「まさか、高卒だとは思わなくて、その、ごめん」

 帯解もまた、顔の筋肉をひきつらせていた。帯解はきっと、大学院で修士か博士の課程を終えた人間としかつきあってこなかったのだ。それなのに、僕の方こそ、お前は社会の現実を何も知ってはいないのだと、暗に非難してしまったようで心苦しい。思い切りよく、帯解の整った髪の毛を鷲掴みにしてやる。

「僕は義務教育の恩恵しか受けていない」

「え?」

「高校も大学も大学院も、全部、義務教育だったら、僕は仕方なく博士にでも何にでもなっただろうがな」

 帯解はゆっくりと頭を傾ける。目が光ったような気がした。おもむろに「ス」と口を開く。

「スウェーデンなら、大学まで学費はタダだ。それも、外国人も」

「僕は留学してまで、博士になるつもりはない」

 僕は肩をすくめる。



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