第245話 お地蔵さんが…… ⑦

 客席キャパが千をちょっと超えるぐらいの中規模ホールが今回の会場。エントランスを潜ると、3階フロアの上にまで届く天井の下、正面玄関側は一面のガラス張り。とても「抜け」のいい内観のロビーに出迎えられる。


 そういう視界の広い景色というのはここ最近のトレンドかもしれない。そして喫茶アネモネに欠けているのはそんな解放感かもしれない。ただし、それは時代というものの影響あるだろう、アネモネのような店ができたころというのは重厚感が一種の高級感を演出するその時代のトレンドだったかもしれないのだから。


 別に、ここで最新のコンサートホールと昭和に出来た町の小さな喫茶店を比べてもなんの意味もないけど。



 なんてことを考えながら、長瀬ゆかりが一人ホールのロビーを歩いていると若い女の声で



「あ、長瀬!」


 と声がかかった。声のほうを見ると立っていたのは音大時代の友人だ。去年、ゆかりの自殺未遂騒動のあと久々に女子会で顔を合した数人のうちの一人。


 薄い空色したのっぺりとしたドレス姿のその彼女のことはあんまりふれないでおく。実際ここのお話でそれほど大事な役割はない。が、その隣に立つ男のほうはちょっと触れておく必要があるだろう。



 彼、名前を波多純一という、そして声を掛けた女性の実兄でもある。


 波多はこの時少し驚いていた。


(電車で見た人だ……)


 ただゆかりが乗り込んでいた電車の同じ車両にいただけなのだが、戸袋付近のバーに軽く肩を寄せて立つその彼女の姿を密かに見惚れていた乗客の一人でもあった。



 綺麗な人だなと思った。思いながらぼんやりしてたらゆかりの姿が消えていた。そして自分が一駅余計に乗り過ごしたことに気づいて大慌てで引き返してきて今に至る。


 そしたら彼女が自分の妹の顔見知りだと言うじゃないか!若干の運命のイタズラみたいなものを思わずにいられない展開。




 面立ちは中性的とかフェミニンという感じとは少し違う。頤まわりの少しがっちりしたシルエットや、黙っていると力強く閉じているように見えるやや大き目の口唇、細めだが、しっかりとした眼差しの目つきとか、社交的で行動的な印象を受ける好青年と言っていい。


 実際、IT企業に就職の後まだ26という若さで独立してフリーで働いているのだ。人脈づくりなんかに及び腰の、奥手なタイプではないようだ。



 そんな彼でもゆかりを一目見たとき、少し及び腰となった。妹とのつながりを利用したとしても、いきなり馴れ馴れしく話しかけるのも躊躇していた。なんとなくあるのだ、オーラというか、雰囲気というかそういうのが。


 そうして妹とゆかりの立ち話をぼんやり眺めていると。


「波多君も来てたんだね」


 と、仕事上でのクライアントの一人から声をかけられた。もちろん、オンナに気を取られて仕事の上での大事なお客を邪険にするようなヘマはしない。そつない笑顔とトークで軽く挨拶を済ませてから、ゆかりのほうへ振り返ると……彼女は演奏の行われるホールの中へと消えていた。



「さっきの女の人、お前の友達?」


「そう」


「綺麗な人だよな……」


 純一の呟きに妹が少し怪訝な顔を見せた。綺麗なのである。友人だから、そんなこと知っている。しかし、この兄貴の言葉には一種の底意が込められているのを感じずにはいられなかった。兄貴がどうも色気づいている様子。


「でも、手ごわいと思うよ」


 玉砕した男の話は何度か聞かされていたわけでもある妹だった。




 パンフレットを入手した後、純一もチラッとゆかりの姿を探してみたが、簡単には見つからない。しゃあない。追いかけたところで何ができるわけでもない――そう思っていた。



 開演時間近づく満員御礼の客席は、もう着座済みの後頭部だらけで埋まって見えた。自分たちの席を求めてやってきた純一はそのとなりに座るゆかりの姿を再び発見した。




「なに、そこだったのゆかり」


「偶然だね」



 兄貴を後ろに従えてゆかりのほうへ近寄る妹。ゆかりの右が空いているのは一緒に来る連れのドタキャンで空いているからだが、そんなことは知る由もない。満員というアナウンスがあった以上誰かが来るに違いない。ゆかりが一人で来たというなら誰か見ず知らずの客だろう。そして波多兄妹の座席はゆかりの左手に2つ並んでいる席となる。


 妹はごく当たり前のようにゆかりの隣に座ろうとした。



 そしたら信じられないことに、普段は結構優しい兄貴が、自分を両手で突き飛ばすのだ。


「何すんの?」


 そりゃあ、一歩間違えば座席一つどころか、もうひとつ向こうで大人しく座っているハゲオヤジの頭を自分の両手で突き飛ばしかねなかったわけだから妹が怒るのは当然だ。


 しかし、兄のほうは悪びれた様子もなく。


「俺がこっち座る」


 と言ってゆかりの隣に腰を落とした。




 やがて打楽器の放つ鞭のような鋭い響きとともに、快活なラヴェルのピアノ協奏曲が始まった。




 演奏の最中、純一は妹にそっと耳打ちした


「おい、飯代おごるから、彼女を食事に誘え!」


 突き飛ばしたと思ったら、女を口説く道具に使われて妹はやや不機嫌である。


「自分で誘えばいいじゃない!」


「今日初対面の人間が誘ったところで簡単に来てくれるかどうかわからないだろ!なっ!頼むから……」



 状況からして、あんまり高級店をたかるわけには行かないだろうな……。お近づきの顔つなぎなわけだし。3つ星レストランみたいなところじゃあ、初対面からギラギラしすぎだろうけど。


 ま、とりあえずメニューの高いところから順番に頼んでやれ。突き飛ばした意趣返しだ。



 ということで純一の妹はその依頼を受けた。



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