第239話 お地蔵さんが…… ①
春の陽気のせいでそろそろ重いコートに袖を通す機会も減りつつあるような3月の真ん中の頃のお話。
ひまわりが丘にあるとあるマンション、の307号室では、その夜、簡単な飲み会で盛り上がっていた。
そんなことは今までにも何度となく紹介してきた風景なのだろうけど、その日の飲み会はいつもとはちょっと違っていた。それは通常4人であるはずのメンバーのうち一人が欠けていたのだった。
「あいつ、とうとう里帰りしたんですね」
「金欠に耐え切れなくなったみたい。お小言と引き換えに小遣いせびりに行ったんでしょう」
とダイニングテーブルに隣同士腰掛ける草壁圭介と長瀬ゆかりの二人がそんなことを話しながら、ビールの入ったグラスを傾けていた。
ここで言う『あいつ』とは長瀬亮作のことである。そうあれほど嫌がっていた実家への帰省だったがとうとう彼も仙台へと帰ったのだ。
ゆかりの言うとおり、背に腹は変えられないということだろうか?金がないから帰ったのかどうかは不明だが数日間は向こうで過ごすということなのには違いない。というわけで、この日の飲み会は草壁とゆかり、そしてルームメイトのオジサンのツルイチさんの3人ということになっている。
「お金が理由じゃないかもしれませんよ?ねっ、草壁クンもそう言ってましたよね?」
そう言ってゆかりと草壁の会話に入ってきたツルイチ。このオッサン、だいたい4人で飲むときには、静かにグラスを傾けていることが多いが、3人しかいないせいか今日は、妙に口数が多かった。それにしても、と草壁は思った。つまらないこと言い出すなよって。
「なんですか?それ?」
そんなこと言われたらゆかりも気になる。
「きっとゆかりさんを怒らしちゃったから、逃げたんじゃないか?なんて、ね」
「怒らしたって何がですか?」
「ほら、この間、ゆかりさんの教室でやった教室焼肉のことですよ」
ツルイチの言うのは、前回、亮作と草壁、ツルイチの3人がゆかりのピアノ教室に押しかけて焼肉パーティーを開いたことを言っているのだ。確かにあれはまずかったらしい。ゆかりはその言葉を聞いて、眉をひそめた。
「あのあと大変だったんですから!教室に焼肉の匂いがずっとついて消えないし!」
「あれは、我々もちょっとやりすぎだったかって思ってたんですよ」
ツルイチが剥げ頭を掻いて照れ笑いするが、そのくせ、肉の欠片すら残らなくなるまでパーティを続けたのだった。もちろんゆかり自身もしっかり味わったのは言うまでもない。
「二人とも知らなかったでしょうけど、あの焼肉のあと、見学希望の親御さんを迎えることになってたんですからねっ!」
「そうなんですか?」
もちろん草壁は知らない。そして、それがどうなったかというと……。
「うちの教室にやってくるなり、子供のほうが『お母さん!お腹すいたっー!』って言い出すし」
「そんなにうまそうな匂いが出てたんだ……」
「なに、感心してるんですかっ!?」
ゆかりに睨まれて草壁もツルイチもしばし黙った。
「それからその子のお母さんがなんて言ったって思います?」
「さあ……」
「『この教室は香ばしいですね』って、笑われたんですよっ!教室を香ばしいって!」
「……すみません……ところで、そのお子さんの入会は?」
「するわけないでしょ?!お母さんがずっと愛想笑いして、そのまま音沙汰なしです!」
草壁もツルイチも苦笑して俯くしかなかった。
「ああいう所で悪ノリするところがあの子の良くないところなのよね……。一度みっちり説教してやらないと」
と眉をしかめるゆかりを見て草壁が思わず
「やっぱりお姉ちゃん怒らせたのが怖かったのか……」
「実家の両親より私のほうが怖いって言いたいわけですか……」
ジトリと睨むゆかりの鋭い視線から、草壁は黙って顔をそむけるしかなかった。
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