第234話 ランチ物語 ①

 季節も早いもので、3月も上旬。気が付けばカレンダーの上ではすっかり春。



 この時期まとまった休みをもらえるのが大学生。しかし、草壁圭介はそんな長期休暇の最中だというのに、帰省もしようとはせずに、ここひまわりが丘でのんべんだらりと過ごしていたということは、前回触れたとおり。


 しかし、前のお話の直後、彼はちょっとの間、実家に帰省したのだった。




 それもここのところ帰ると言ったら2泊3日と言った、小旅行みたいな日程だったのが、どういうわけかたっぷり1週間も実家に滞在したのちの帰宅となったのだ。




 一体、どういう風の吹き回しか?


 とはいえ、新年度の始まりまでのことを考えると、まだまだ親不孝な帰郷と言えるものだったが。




 その日、ひまわりが丘に帰ってきた草壁は大きな旅行カバンを引きずるように提げながらマンションまでやってくると、なぜか自宅のドアをソウっと、なるべく音を立てないようにして開けた。


 まるで、空き巣にでも入るような様子である。


 そもそも、ここにやってくるまでだって、駅を出るとわざわざ商店街のアーケードを避けて遠回りするルートを選んでの帰宅であった。


 まるで、誰かさんから逃げるようにして。




 ノブを慎重に回すと、ほとんど音もなく307号室のドアは開いた。


 これなら気配を悟られることなく部屋に入れると思いきや。



「あっ、今お帰りですか?」



 お隣の308号室のドアが開いたと思ったら、お隣さんの長瀬ゆかりが顔を覗かせた。いつもどおりの笑顔だ。


 しかし、声を掛けられた草壁のほうは、まるっきり職務質問された泥棒みたいな様子でそわそわと落ち着かない様子で答えた。



「あっ、どうも。今帰ってきました。あの……お、おみやげ持ってきたので、よかったらどうぞ」


「それは、どうもありがとうございます。ところで、お昼、食べました?」


「いえ……まだですけど」


「それならちょうどご飯作ったんですけど」


 ゆかりがそう言った途端である。彼女の背後から、もう一人の人間がにゅっと首を出してきた。


「一緒に食べませんか?偶然、3人分あるんです」




(来た!)


 思わず、唾を飲み込む草壁だった。




 通されたダイニングへは、久しぶりの訪問となる草壁だった。相変わらず、一人暮らしの割にはいつお客さんを迎えてもいいようにさり気なく飾りつけがしてあるのが、ゆかりの部屋だった。



 小さな花瓶に梅の枝を数本挿したガラスの花瓶が置いてあったりするのが3月らしい。そういえば、テーブルクロスもこの前来たときのものとは違って、薄い桃色に白い唐草もようがうっすらと浮かんでいる光沢のあるデザイン。色あいは桜を意識しているのかもしれない。たしかにそのうち桜の枝も小さな蕾を膨らませている頃だし。



「いやあ、いつ来てもゆかりさんの部屋って綺麗にしてますよねえ……」




 わざとらしく感心する草壁の言葉にゆかりはあまり反応せずに、すこし儀礼的な固い様子でダイニングテーブルの椅子を勧めた。




「そんなことは、まあさておき、どうぞ座ってください」


「はあ、あっいい匂いがしますね。お昼なに作ってるんですか?」


「それはじきにわかりますから」



 すぐ目の前のキッチンにはあやが立って、お玉で鍋の中をかき回していた。プンとカツオ節の香りがよく立っている。


 草壁がすすめられるままに、あの頑丈そうな高い背もたれのついた椅子に座ると、ゆかりが草壁の目の前にスッとついた。


「まあ、私たちとしても言いたいことが色々あるので、ゆっくり話をしましょうよ」



 思わずゴクリと唾を飲み込む草壁。そして、お盆の上に鉢を3つ乗せたあやが、テーブルへとやってくると草壁の目の前にそれをトンと置いた。



「それじゃ、カツどんでも食べてもらって……」




「取調べかよ!」

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