第230話 彼女をその気にさせるコツ ①

 そんなこんなで、カレンダーも3月となった。


 大学生なら春休みという時期である。本作の主人公の草壁圭介も例に漏れず、お休みの真っ最中。にもかかわらず実家にも帰らずにここひまわりが丘で春を過ごすつもり満々なのは、やはり意中の人であるお隣の長瀬ゆかりも実家に帰ろうとせず、この町にいるからである。



 そして、もう一人、実家から帰って来いという矢の催促を受けながらも知らん顔で、こちらに居続ける人物がいる。


 


 ゆかりの実弟にして、草壁のルームメイトの長瀬亮作だ。




 草壁がここにいるのは、ここに居たいからなのに対して、亮作がここに居続けているのは実家に帰るのがイヤだから、というもの。


 未だに長瀬家の父と母は、亮作を実家の会社に迎え入れることを完全には諦めていないらしい。だからのこのこと帰れば、またもや跡取り話を蒸し返されるのは目に見えているということで、こちらに避難しているような状況である。



 


 そんなとある休日の朝のことである。


 草壁たちの部屋である307号室のダイニングテーブルでは、部屋の住人である長瀬亮作と、その姉の長瀬ゆかりの二人が頭をつき合わせて、なにやら話し込んでいるのだった。




「お姉ちゃん、春はどうするの?冬みたいに、叔母さんとこにいるから帰れないって訳にはいかないでしょ?」


 同居人である草壁の姿も、そしてツルイチさんの姿も見えない二人きりの朝のテーブルでは、そんな姉弟が少し声も押さえ勝ちでヒソヒソ話でもするような様子。



「私は今回関係ないもん」


 まるで勝ち誇ったような笑顔で答えるゆかり。



「なんで?帰らないでもいいの?催促かかってこなかった?」


「私はピアノ教室があるから、学生とは違うの!」


「どういうこと?」



「春はね、こういう習い事の教室にとっては大事な時期。わからない?学校が春休みにはいるから子供は暇になる。そうなると今まで以上にレッスンの依頼は増えるし」



「そんなの、春だろうが夏だろうが休みになればそんなもんじゃない?春が特別なわけじゃないでしょ?」



 亮作が詰問するみたいな様子で姉に食って掛ってきた。一人で帰るのが嫌だから、一人でも道連れを多く引き連れて帰りたいという様子だ。



「それだけじゃないのよ。春は特別なの。この時期、年度が改まって小学校や幼稚園に通いだすのに合わせて習いごとへと通わせようなんて親が増える時期なのよ」


「ウソだよ」


「ホントよ!本屋でも英会話や資格検定の参考書の売り上げが伸びる時期なんだから。そういう大事なときに教室を預かる身としては、今は仕事を離れられないの」



「……」


 余裕の笑顔の姉にそういわれて、亮作は不服そうなふくれっつらをして黙り込んだ。





 そんな会話を姉弟がしている時、つい今しがたベッドから起きだしたボサボサ頭の草壁が、ダイニングに顔を出した。



「おはよう……って、あれ?ゆかりさんどうしたんですか?こんな時間に?」



 厚手のドテラの下には未だに、ミッキーマウスのTシャツを着ているのを確認したゆかりは思わず小さく噴出しながらスッと立ち上がった。



「ちょっと亮作とお話……ついでだから、朝食つくりますから食べてきませんか?」


「あっ、ごちそうになります」


 言われて草壁は思わず頭を下げたのだが、まるで自分ちにこっちを呼んでいるみたいな言い方をしているのが微妙に気になった。



 そしてゆかりのほうはというと、そういうことにはお構いなしに冷蔵庫を開けると勝手に中を漁りだすのだった。



「お野菜はあるし、卵もあるけど……お魚はなしか……これはどっちかっていうと洋風の朝食になりそう。こっちの戸棚は確か缶詰置いてあったわよね?あ、あるあるトマト缶。白ワインもあった!」




 そんなゆかりの様子を見ながら、草壁はテーブルを挟んで正面に座る亮作にそっと耳打ちするように囁いた。



「缶詰の場所とか、ちゃっかり確認してるけど、お前教えたの?違う?ところであの白ワインってたしかツルイチさんのだろ?あの人どうしたの?」


「食材のお金は、朝食作ってもらう手間賃がわりに僕らでお金だしとこう……ツルイチさん?競馬」




 そんなことを亮作と草壁が話している間も、ゆかりは他人の家のキッチンで随分とスムーズにクルクルと立ち働いた。


 慣れた手つきで片手の卵割を連続でこなしたと思ったら、菜箸で手早く攪拌。


 一方で、野菜をざくざくと切って、グリルにポン。


 お鍋で鶏肉とお野菜を軽く炒めて、白ワイン投入後に、トマト缶を入れてゆっくりと火にかけて……。



 そんな一連の作業の間、ずっと鼻歌交じり。



 草壁はそんな彼女の様子を見て、先日まで落ち込みがちだった様子が普段どおりにもだったのだろうか?と感じないではいられなかった。


 事実、気分の上げ下げというのは毎日のようにありはするが、基本的にいつまでも落ち込んでいられないというのがそんな彼女のそのころの心境である。


 


 


 簡単に朝食を作るのかと思ってみていたら、取り出した食材はかなりの量の様子。因みにほとんど草壁の買い置きをゆかりは勝手に使って調理している。


 しかし、手際がいいせいと、動きがいいせいで見ていて飽きないし、なんとなく作っている人が楽しんでいるのが見ていても伝わってきて、不思議と退屈を感じないものだった。



 


 やがて、お手軽というにはちょっと時間はかかったが、ゆかり特性の朝食は大きめの皿の上にのっかったワンプレートブレックファストとして一同の元に配膳された。



 中身は比較的シンプル。スクランブルエッグにロースト野菜のサラダ、そしてミネストローネがついて、最後はトースト。



 けど、弱火にかけたフライパンの上でそっと木べらを使って丁寧に鍋肌をなぞりながら作ったスクランブルエッグは煎り卵の失敗作みたいなボソボソじゃなくて、まるでクリームのようなしっとりした仕上がり。そのまま食べてもよし、トーストの上にディップしても最高に合う。


 野菜も生をカットして適当に盛り付けてマヨネーズ回しかけてできあがり。というのが草壁が朝作った場合の定石形だが、わざわざローストするという一手間かけているのが、やっぱり違うなあと感じさせられる。


 しかも、梅干とオリーブオイルで作ったお手製ドレッシングをさらっと作って掛けてあったりする。


 


 どうでもいいことなんだけど、焼きあがったトーストをそのまま出すんじゃなくて、マーガリンを塗ってから1時のラインで二つにカットしてあるという、喫茶店みたいな一手間も、家庭でやられるとちょっと唸ってしまう小さな気配り。




 なんかこういう朝食っていいもんだなあと、草壁は思うのだった。



 それはともかく、そんなこんなで3人での朝食でのこと。


 亮作が草壁に聞いてきた。



「草壁くんは春休み中、暇なんでしょ?」


「ん?なんだよ。それ」


「いや、だってバイトはもうしていないし、実家にも帰るつもりないみたいなこと言って昼間っからブラブラしてるし」


「お前だってパチンコしながらブラブラしてるじゃないか?」


「最近してないよ。釣りばっかり。ね、暇でしょ」



 すると、そんな亮作の様子を見たゆかりが眉を顰めた。



「あんた、またそれ?亮作、一人で里帰りがイヤだから、また草壁さんを巻き込むつもりなんです」


「いい加減にしてくれよ……」


 苦笑する草壁。



「お前、そんなに実家帰るのイヤなら、追試があるとかなんと言っとけば?」


「それ、余計に洒落にならないよ!こっちで遊んでばっかりだと思われちゃうだろ!」


 事実そうじゃないか?と草壁は思ったが口には出さなかった。代わりに聞いた。


「そんなに家業継ぐのいやか?」




 草壁にそう言われて、亮作はチラッと一瞬皮肉げなまなざしを投げた。ブルジョワの世界を知らない一般庶民は暢気でいいなとでも言いたそうに。



「父親見ているとね、やっぱり思うんだよ。トップって孤独で大変だなあって。そりゃさ、うちに帰ってきたら口ではあんまり仕事の話はしないし、残業ったって社長の場合、会議が長引くとかだけだからそんなに遅くなることが日常でもないし、書類の束抱えて帰ってきてうちでも仕事するなんてこともないけどさ。見てるとわかるんだよなあ、悩んでいるときっていうのは、いつも頭の中には仕事のことばっかりなんだろうなあって。しかも決断が会社の業績にモロに響くような重大なことも多いみたいで」



 草壁が冷蔵庫に常備しておいた食パンと言ったら安物の6枚切りのものだ。それでも焼き加減がちょうどいいので、周囲はかりっと香ばしく、中はふんわりもっちり。そんなトーストにかじりつきながら亮作は少し遠い目をしていた。



「ああ、わかる。お父さん、そういう時って却って私たちによく話しかけてくるのよねえ。けど、なんか上の空だなって雰囲気がすごいわかる」



 草壁の隣では、ゆかりがそう言ってほどよくローストされて香ばしいミニトマトをフォークで突き刺す。こういうプレートの場合、箸じゃなくフォークという選択を躊躇なくするところは、案外と洋風な食事に慣れているのかもしれない。



「おじいちゃんが急になくなった頃は、特につらそうだったもんね……一人で仕事の最終責任全部抱え込んじゃうことになってさ……おねえちゃん、知ってる?アノ頃、お父さん真夜中に一人で庭をウロウロしてることよくあったんだよ」


「えっ?ホント?私知らない。あっ、あなたの部屋からだったら庭が見えるんだ」


「そう。それでさ、夜中にベットの中で寝てるとなんか足音が聞こえるから、泥棒か?って思って起きたら、お父さんが庭をトボトボ歩いているんだ」




 姉弟の話す他人の家庭の話であったが横で聞いている草壁にも、その様子はなんとなく頭に浮かべることができた。


 というのも、去年の夏、長瀬家にお邪魔したときその大きな庭の様子を実際に目にしていたからだ。



 話を聞くとまるで暗闇の中を一人で歩いているように思うかもしれないが、実はそうじゃない。あそこの庭には昼間の明るいうちは石で出来た一人がけの椅子か?と思うような形をしたガーデンライトがいくつも配置されていて、夜の間は芝生の庭をずっと照らし続けている。だから、真夜中と言っても庭は薄暮の頃のような明るさに包まれているのが常であった。




「そうなの?私の部屋からは庭、見えないから知らなかった……」


「じっと見てたらさ、最後は決まって、ウチのあの大きな樫の下に立って木をじっと見上げてるんだよ」


「ふーん……」



 亮作の話に出てくる「樫」とは、もちろん草壁もあのとき目にした庭の真ん中に大きく葉を茂らせてたつ樫の大木のことだ。



「僕さ、まさかあそこで首でもくくるんじゃないかって、本気で心配したもん」



 横で暢気に聞いている草壁も思わずギョッとなるような話だ。あの一クラス分の小学生が余裕でドッヂボールできそうな庭の真ん中に立っている、キノピオの親玉みたいなでっかい樫の木の下で真夜中、父親がジッと立っている姿は確かにゾッとしないだろう。




「そんなの目の当たりにしているとさ、跡継ごうなんて、とてもなれないね」


 亮作が草壁に向かってしみじみとそういうのだが、それを聞いていたゆかりが不服そうに口を尖らせた。



「私がいるところで、よくそんなセリフ平気で言えるわね!」

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