第228話 ペパーミント スノー ③
「ゆかりちゃん、いつこんなの覚えたの?」
隣で見ていたマスターも驚いていたということは、ゆかりがそんな芸当をするとは知らなかったようだ。
甘すぎず、かと言ってアルコール臭さも飛んだあとのブランデーの芳醇な香りだけを纏ったコーヒーは普段飲むそれとは一味ちがった、独特の風味。単に深煎りした豆を使った場合とは違う、コクのあるビターテイストが楽しめた。
思わず鼻の穴を広げて大げさに香りを嗅ぎながら大事そうに飲む草壁の目の前でゆかりが言った。
「うちの父親がこれ好きなんです。食事のあと、お酒じゃなくて、私にこれ作ってくれってよく言われて作ってました」
あの大きなリビングでのことらしい
「『これを飲みながらお前の演奏を聞いているのが一番リラックスできる時間だよ』なんて言ってくれたりして」
「カフェロワイヤルを飲みながら、娘のピアノ演奏を聞く……まあ、優雅な一家だねえ」
「お父さんが『どこのカフェで飲むより、お前のが一番おいしい』って言ってくれるから私も張り切ってつくってました」
ゆかりが懐かしそうに目を細めながら、一家のそんな日常を思い出していた。
そういえば、この前長瀬家に遊びに行ったときには、リビングにピアノなんてなかったが、ゆかりがまだ家にいたころにはどうもピアノが置いてあったようである。
「ゆかりちゃん、お父さん思いのいいお嬢さんだねえ」
話を聞いたマスターが深く頷きながら感心した。草壁もへえ、とは思うがなんだか生活の様子が自分ちとは随分と違うので、正直どっかの映画の話でも聞いているみたいなぼんやりとした印象しか感じなかった。
するとマスターの言葉を受けたゆかりがまた、急に変わった。
片笑みに上がった片方の唇の端には、懐かしさではなく皮肉な色が浮かんでいた。そしてふっと大きなため息をついて見せた。
「こんなダメな娘なのに……」
そうつぶやいた一言に、草壁もマスターも思わず黙り込むしかなかった。
しばらく、そんなゆかりの様子を伺うようにジッと見つめるしかない二人の視線を無視するように、ゆかりはすっとカウンターから出ると草壁の隣に伝票を置いた。
「あのころは、私もしあわせだったのかも」
すぐ隣でまたもや独り言のようにしてつぶやくゆかりを草壁は見上げた。
「今は不幸なんですか?」
「そうじゃないけど……伝票、おいと来ます。……けど、もうあのころみたいに、のほほん、とはできなくて」
一人芝居の俳優みたいにして、ずっと聞き手には若干意味不明なつぶやきを残すゆかりだった。
そして、何気なくテーブルの上の伝票を見た草壁が叫んだ。
「えっ、お勘定が600円?!」
「当たり前じゃないですか?カフェロワイヤルがレギュラーコーヒーと同じ値段だとでも思ってたんですか?」
そして、草壁の目の前では、マスターが小さく拍手した。
「でかした!ゆかりちゃん」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
日常はそんなふうにして、のんびりと過ぎて行った。2月のカレンダーも終わりに近づいたそんな頃のことである。ちょうど草壁がいつものように学校帰りの道すがら、商店街を歩いているとピアノ教室の中からゆかりが出てきて、彼を中に招き入れた。
「お煎餅あるから、いっしょに食べませんか?」
というのだ。
もちろんそんなお誘いを草壁が断るはずはなく、二人は大きなガラス窓から商店街のアーケードを行き交う人たちを横目に見ながら、ピアノ教室のソファーに向き合って座って煎餅を齧った。
「こんなところでお茶に呼んでくれるなんて珍しいですね」
同僚もいない一人で主催している教室とは言っても、当然ここはゆかりの職場でもあるわけだから、そんなところでゆっくりとお茶飲んでていいものか?とちょっと思わないでもない草壁だった。
とは言っても、そんなこと今までにも数度あるにはあったが。
するとゆかりは、軽く舌をペロッと出して
「この前のカフェロワイヤルのお詫び」
「……」
「あとクッキーとかもありますから、出しますね」
そう言って奥に引っ込んだと思ったら皿のうえにお菓子をてんこ盛りにして戻ってきた。
彼女の話だと、何かというとこういう手土産を持ってくる親御さんというのが時々いるらしい。向こうももらい物でウチだけじゃ食べきれないので先生どうぞ、と言って持ってくると無碍には断りづらい。
そして、草壁が見たことない教室の奥にある小さな給湯室の中の冷蔵庫には毎日、なんらかの御菓子があるそうだ。
「まあ、案外とあやちゃんと二人で喋っているうちに、二人で食べちゃうもんなんですけど」
「そういえば、今日の教室はもう終わりですか?」
「ううん。けど生徒が来るまで30分はあるからちょっとお茶飲むぐらいの時間はあるんです」
「へえ……」
しかし、そんな合間にわざわざ自分を呼んでお茶のお誘いするなんていうのは珍しい。
この前、まんまと一杯食わされたカフェロワイヤルのお詫びと言うけど、本当のところはどうなんだろう。
そんなことを草壁が考えていると、急にまたゆかりの様子が少し変わったような印象がした。
緑茶の入った湯のみを、掌の中の雛鳥でもいつくしむような手つきで包み込みながら、草壁の視線を無視するようにガラス窓の向こうのアーケードを凝視する表情が、虚ろな感じがした。
そういえば、彼女と初めて出会った病院で見た表情にちょっと似ていると思った。
考えてみたら出会ってから一緒に過ごした時間は、全部合わせてもまだ一年にもならないわけだ。草壁が知っているゆかりは、彼女のほんの小さな一部分でしかないだろう。
今もこうやって、一人の部屋に居るみたいにして、放心したような様子の彼女が何を今考えているかなんて、多分恋人となったとしたって分かるわけはないだろう。
しかし、ここのところの妙な様子が気になる。
「あの……」
草壁は肖像画のようにして動かないゆかりの横顔に声をかけた。
彼の声に、初めて目の前の男の存在に気が付いたみたいな顔をしてゆかりが、正面に向き直った。
「なんですか?」
「なにか悩みでも?」
「そんなふうに見えます?」
急にゆかりは笑った。まるで草壁の勘違いがおかしいみたいな表情をして。
「なんとなくですけど、この前から雰囲気が暗い気がして」
草壁の言葉にゆかりはしばらく何も答えなかった。彼の質問が聞こえていないかのように、じっと黙り込んだまま再び彼に横顔を見せた。
壁掛け時計の針音が、やけにゆったりと流れているような気になりながら、草壁はなぜか少し眠気のような間延びした気持ちを感じつつこちらもじっと口をつぐんだ。
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