第227話 ペパーミント スノー ②

 勢いこんで作った手作りチョコを渡し損ねたあと、ゆかりはもう一度同じマネをする気にはなぜかなれなかった。


 少し大げさな言い方をすると、彼女は、きっと浮かれている自分に天罰が下ったのだと思った。もう一度無邪気に手作りにいそしむ気にもなれなかったのだった。


 


 ちょうど草壁がゆかりの様子を見て落ち込んでいると思っていた当時の彼女の心境というのはそんなことだった。



 いずれお別れしなきゃいけない、町と彼。


 日常はのんびりと過ぎて行き、結構ハッピーな毎日は送れているはずなのに気づいたら、落ち込んでいる自分に気が付く。


 それを冬という季節のせいにするには、問題はあらわすぎた。


 今は、この町での気楽な生活を、先のことも考えずに過ごしている。まるで目を耳をふさいでしまえば、こわい犬なんかどこかに消えうせると信じて蹲る子供だった。




 それでも、時折心の隙間に入ってくる将来への不安という影と、しあわせにはなれないんじゃないだろうか?という恐れにさいなまれた。



 


 ある日、町で目にしたウエディングドレスに見とれたあと、手をつないで歩く見知らぬカップルとすれ違ったゆかりは、そのとたん、急に彼女は矢も盾もたまらなくなり、大急ぎで自宅まで走って帰った。


 そして、一人でずっと泣いていた。


 もちろんそんな話は誰にも出来なかった。


 なぜ、急にそんなふうになったのか、自分でも不思議なぐらいに泣けてしかたなかったのだ。




◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇




 そんなとある日の風景である。


 学校帰りの凍える体で、草壁がひまわりが丘の商店街のアーケードを通って自宅へ向かって歩いていると、喫茶アネモネには、エプロン姿のゆかりがカウンターに立っているのを目にした。


 


 それが分かって素通りは、この男の行動パターンにはない。


 


 冬の季節もそろそろ終わりを告げようって頃だが、まだ寒さが本番なそんな日には彼の首にはいつかゆかりからもらったマフラーが巻かれている。


 今日もそのチェックのマフラーをヒラヒラさせながら、草壁はアネモネのドアを潜った。




 カウンターの向こうでマスターとゆかりが並んで立っている光景というのは見慣れた構図だが、驚いたことにコーヒーを淹れているのがゆかりだった。



「あれ?ゆかりさんがコーヒー淹れているんですか?」



 さっそくカウンターに座った草壁の目の前では、ゆかりが「S」の字を細長く伸ばしたようなポットの注ぎ口を静かに傾けて、糸をたらすようにお湯をフィルターの中に回しいれていた。



「彼女に淹れてほしいってお客さんもちょくちょくいるからね」



 ふと見ると、隅のテーブル席に陣取っている初老の一人客がゆかりの手つきをジッと見つめていた。


 まあ、あんな年寄りなら恋敵の心配も必要ないだろう。草壁は、すぐにマスターのほうへ向いた。



「僕もお願いしていいですか?」


「じゃあ、指名料2000円」


「キャバクラじゃないんだから!」




 かくして草壁のために再びコーヒーを淹れるゆかり。


 見ていると相当慣れているような様子だ。ペーパードリップのフィルターを手元も見ずにサッサと折りたたんでドリッパーにセットすると、粗めに挽いた豆をポンと落とす。


 まるで豆に話しかけるみたいな顔をしながら、じっくりと様子を見ながらお湯を注ぎいれる手つきはすっかりここのマスターみたいになっていた。



「上手ですね」


「ゆかりちゃん、結構やってるからね」


「そうなんですか?」




 それからすっかり豆のアロマを吸い取った琥珀色のコーヒーをカップに注いで客の目の前に差し出せば完成。


 な、はずなのだが。



「ちょっと待っててください。まだ終わりじゃないですから」


 


 草壁の目の前に白いカップを置いたゆかりがそういうと、クルッと背後の戸棚の一角にしまってある背の高いガラス瓶に手を伸ばした。


 中にはコーヒーよりは薄い色をした茶色い液体の入ったそれ。中身がちょっと減っているところを見ると飲みさしらしい、そのキャップを手早くまわして開栓すると


「本当は専用のスプーンでするんだけど、ないから、この普通のスプーンを使いますね。落ちないかちょっと心配だけど」



 ゆかりは、コーヒースプーンを今まさに湯気を立てている白いカップの上に、腹側が上を向くようにして慎重な手つきで寝かせた。


 それから、なんとかカップの上で大人しくしているスプーンの腹の上にそっと角砂糖を一つ乗っけると、先ほど戸棚から取り出したビンの中身をゆっくりと注ぐ。



「何やってるんですか?」


「これ?カフェロワイヤルです」


「カフェロワイヤル?」


「知りませんか?こうやって角砂糖の上にブランデーを注いだあと、そこに火をつけて……」



 スプーンの上で、ブランデーを吸って角の溶け出している角砂糖に、マッチの炎を近づける。


 すると、スプーンの上から薄い炎が青くゆらめきだした。まるでその炎に食べられているみたいにして、序々に角砂糖はスプーンの上で溶けていく。



「はい、おしまい」



 ものの数秒のアトラクションのあと、スプーンをコーヒーの中に落として「カフェロワイヤル」の完成である。

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