第225話 センチメンタル バレンタイン ⑦
その後、藤阪がマンション前まで送るというのをなぜか駅前で下ろしてほしいとゆかりは言った。
ちょっと買い物をして帰りたいからと言ったが、本当は違っていた。
「最近、帰りは駅前でいいって言うようね?」
藤阪が不思議そうに聞くのにも理由があった。
あまり、マンション前まで来てもらいたくなかったのだ。男と遊んで帰るところを、彼に見られるのはなんとなくおもしろくなかった、というのが主な理由である。
気が付けば冬の夜道だというのに、妙に暖かな風が吹いていた。なんとなく角を曲がれば夜桜の舞い散る様子が街灯に照らされているかもしれないと思えるほどに。
(わたし、これからどうしたらいいんだろう?)
と、ぼんやりとゆかりは思った。
よく考えてみたら贅沢な悩みかもしれない。進むべき道は決まっているわけだし、それは世間の人からみたらうらやましいような境遇なはず。
なのに、素直にそれを受け入れる気になれずにいる自分。じゃあ他にどうしたいのか?と言われて他に選択肢はなかった。
自分の背中には、ずっしりと重いものがもう縛り付けられてしまっているわけだし、それを拒否するつもりもなかった。けどこのまま私は決められたレールの上を走り続けて何年も何年もしあわせに過ごせるの?
そう思うと、少し怖かっただけだ。
恋とも言えないようなオママゴトみたいなことをこの1年ほど続けてきて、これからもちょっとそんなことを続けたらこの町とも、彼ともさようなら。
「それにしても、チョコ結局渡せなかったなあ……わたしダメだな」
思わずそうつぶやくと、鼻先がすこしツンとなった。
そのとき、急に背後から声が掛かった。
「ゆかりさん、今お帰りですか?」
振り返ると、赤いママチャリにまたがった草壁の姿があった。
「ね!結構二人乗り上手でしょ?」
「たしかに、あんまりグラグラしないんですね」
「これぐらい楽勝ですから」
たまに犬を散歩させている人とすれ違うぐらいがせいぜいという、静かな住宅街を二人乗りの自転車がゆっくりと走った。
後ろの荷台の上で横座りになったゆかりには、真冬だというのに頬に当たる風がむしろ心地いい。真横に投げ出した靴のつま先が時々道の脇に生える雑草に絡まると、水を切るような感触がする。
彼の腰にそっと置いた両手に、運転者の体の躍動を軽く感じる。
冬着越しに鈍く伝わるだけの体の感触。考えてみたら普段親しくはしても、スキンシップというのはあまりないわけだ。二人乗りをするなら普通のことだけど、意識するとそれだけのことがちょっと気恥ずかしいような気もする。
おかしい。まるで男性経験がないひとみたいなことを考えている自分がちょっとおかしかった。
「寒くないですか?」
「平気!むしろ気持ちいいぐらい!」
ゆかりは草壁の後ろで、ヘンにはしゃいでいた。
そのとき、二人を乗せた自転車の前を、まるで獲物でも追いかけているみたいな勢いで飛び出してきた猫が横切った。
「うわっ!」
驚いた草壁が大きくハンドルを切ってネコを避けた。
いくら二人乗りが得意と言っても、二人乗りのために重心が大きくずれている自転車はしばらく止まりかけの独楽みたいに二度三度大きく、その身をうねらせた。
「キャッ!!」
と小さく叫んで、ゆかりは思わず知らずに前の彼の背中にしがみついた。
急にわき腹をきつく締め付けられたと思ったら後ろの彼女が必死になって自分に抱きついてきた。草壁のほうはネコ以上にそれに驚いた。
「だ、大丈夫ですか!?」
なんとか、ペダルを止めることもなく自転車の制御を取り戻すと再び何事もなかったかのように、ママチャリは夜の町を進む。
しかし、後ろの彼女はピタッと背中に抱きついたまましばらくジッと黙って抱きついたままだった。
そのとき彼女の様子が急に変わった。
ちょっと前まで上機嫌に声を上げていた彼女の不思議な沈黙。
やがて、背中に押し付けられた彼女の頬の辺りが軽く震えていることに気づいた。
”友達同士でも、義理チョコって言えば簡単なことを、チョコレート一つ渡すのに、まわりに気を使わないとできないなんてどんな関係なんですか!!”
”もはや友達ですらないんじゃないんですか?!”
(泣いている?!)
ゆかりが言葉を詰まらせるようにしながら、口を開いた。
「ごめんなさい……チョコレート、作ろう……としたら……失敗しちゃい……ました……ごめんなさい」
彼にはゆかりがなぜ泣いているのかはっきり理由は分からなかったので、ただゆっくりとペダルを踏みながら簡単にこう答えた。
「いいですよ、そんなに無理しなくても」
「やっぱり……チョコレート……欲しいですか?」
少しくすぐったいような締め付けをわき腹に感じながら、草壁がそっけなく
「どっちでもいいです。それより、危ないから、そのままちゃんと捉まっててください」
こう言うと、後ろの彼女は
「はい」
と小さく返事をして、背中を抱きしめる両腕にさらに軽く力をこめた。
赤いママチャリは冬の夜道をゆっくりと進んだ。
ハンドルを握る彼がわざと遠回りしていることは、背中にしがみついている彼女も気が付いたが、何も言わずそのまま二人きりのクルーズに身をまかせた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「へえ……これゆかりちゃんの手作りかな?綺麗に作ってあるし、味もうまい!」
ちょうどその頃、車中でゆかりからもらったちょっと遅めのバレンタインチョコを齧っていた藤阪は包みを開けて思わず感心してしまっていた。
丁寧にラッピングされた赤い箱を開けると中には、ずれないように隙間を埋めたパッキンに包まれて巣の中の鳥の卵みたいな丸いトリュフチョコが綺麗に並んでいた。
ガナッシュに、ミルクチョコ、ホワイトチョコ、ストロベリーチョコ。
表面には色違いのチョコの糸をまとわせたり、ココアを振ったり。大理石の色見本のカタログみたいな華やかさ。
手作りならこれは多分、相当手が込んでいる。
「けど、これなんなんだろう?」
手をチョコでべとべとにしながら、次々とそれらを口の中に放り込む藤阪には、一つ意味不明なものがあった。
それは、箱に入っていたメッセージカードである。
花のあしらいをフチにまとわせた白いカードの中に一言「ごめんね」と書いてあるのは、バレンタインに渡せなかったことのお詫びだとして――。
その横にゆかりの手書きらしい、小さな自転車のイラストが添えてある意味って?
第45話 おわり
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