第224話 センチメンタル バレンタイン ⑥
恵の放った言葉の矢はUターンして、あやではなくゆかりの心臓を突き刺した。
虚ろな気持ちのままその日のピアノのレッスンを終えたゆかりだった。
まさにそのとおりだと思う。
そしてこんなチョコを渡すとか渡さないとか遊びみたいなことにうつつを抜かして、一喜一憂している自分がもどかしかった。
けど、どうすればいい?
自分の気持ちは決まっているし、彼とはこれ以上踏み込むつもりもない、踏み込ませもしないつもり。
こんなことで、このひまわりが丘での時間は過ぎて……そして、いつかさようならするのだろうか?
それでいいと、自分に言い聞かせていたが、改めて気が付くと虚脱したような、フワフワとした不安だけが付いて回った。
本当に自分はどうしたらいいんだろうか?と。
コートの衿を木枯らしに巻かれながら、そんなことを考えてゆかりが夜道を歩いて自宅マンションまで戻ってきたところ、見覚えのある車が正面玄関まえに横付けになっていた。
ワインレッドのレクサスだ。ちょっと見派手なクルマで、どっちかというと女性がステアリングを握っていそうな雰囲気。ハッチバックのCTといえば、レクサスとしては可愛いクルマだが、それでもレクサス。二十歳代半ばの普通のサラリーマンが簡単に手を出せるようなクルマじゃあない。
「あっ!ゆかりちゃん!よかった今帰ったところ?あのさ、急な呼び出しで悪いと思ったけど、もし迷惑じゃなければご飯でも付き合ってくれない?」
と言ってその車から降りてきたのは藤阪公司だった。
ゆかりはなぜか、少しやけっぱちな気分で「ウン」と頷いた。
二人で訪れた先は、とある豪華客船……を改装して桟橋の上に浮かべているレストランだった。
港の倉庫群なんかの広がる、少々殺風景な夜の海岸通りをすり抜けると波の静かな港の岸壁で小さな星粒のようなイルミネーションを満艦に散らせて、夜の闇の中に浮かんでいる大型客船が見えてきた。
近くのパーキングでクルマを降りてから、街中より少しきつめに吹き付ける海風にもてあそばれる髪を軽く押さえてタラップを登る。
フロアワックスをたっぷり塗りたくって丁寧に磨き上げた木目あざやかなデッキに、乾いた靴音を響かせてドアを開けたら、店内は船の中というより夜の水族館みたいにサファイヤ色した深い蒼一色の空間だった。
直前に入れておいた予約を伝えると、ウエイターが静かに二人を窓際の席にまで案内した。
まるで海の中から、また海を見ているような不思議な二重の感覚を味わえるような眺めの座席からは、漆黒の海原が月明かりにぼんやりと蛍光色を放って広がっていた。
きっとバレンタイン当日なんかに来たらカップルで満杯になっているかもしれないような店だったが、そんなイベントが終わった直後のせいだろうか?直前の電話予約でも随分といい席が空いていたものだった。
例えば、少し離れた席で、アラサーカップルが少し口を大きく開けて談笑している様子も、テーブルライトの明かりを受けて異様に白く光る頬骨の動きが見えるだけで、声までは届いてこなかった。まるでスキューバでもしているみたいな静寂に包まれた空間だった。
皿の上のラングスティーヌもソースの海を泳いでいた。
綺麗な場所だと思ったが、ゆかりがまるで本当に海の中をただようみたいにして、フワフワとした気持ちが離れないのはロケーションに感動しているからではなかった。
”友達同士でも、義理チョコって言えば簡単なことを、チョコレート一つ渡すのに、まわりに気を使わないとできないなんてどんな関係なんですか!!もはや友達ですらないんじゃないんですか?!”
夕方のあの喫茶店でのあやと恵とのやりとりの中で、恵があやに向かって放った言葉の矢がゆかりの胸を刺したままだった。
バックの中には、自分でもおかしいぐらいに無邪気になって作った『義理チョコ』が眠ったままである。
それを彼に『義理チョコ』だと言って渡して、それからどうなるの?
答えは簡単。どうにもならない。するつもりもない。
「どうしたの?ゆかりちゃん、今日はずっとぼおっとしているみたいだけど?」
藤阪の言葉でふとわれに返ったゆかり。
ふっと窓の外に広がる夜景に目をそらした。
「あんまりいい景色だから、つい見とれてました」
笑うつもりだったが、笑う芝居を打つ気にもなれなかったので、感動したふりをして無表情に黙り込んだ。
多分、そんな彼女の内心の葛藤は目の前の男には伝わっていないはず。
そのとおりかもしれないが、誘ったほうだって感情のない木偶の坊でもない。ゆかりが自分を無視するようにして夜景に視線を移したその横顔に向かって静かに語りかけた。
「ごめんね、急に誘ったりして」
「いいえ」
「ただの友達とは言っても、この時期にまったく連絡がないのが寂しくて……つい」
ゆかりはそれに直接答えるかわりに、冗談っぽく言った。
「公ちゃん、彼女いるんじゃないの?本当のところは。だって、こんなオシャレなレストラン、どう考えたって接待じゃなくてデート向きだし。そんなところにサッと誘えちゃうっていうのが、なんかアヤシイ」
なるべく冗談で話を終わらせようというのが彼女の思惑だった。
しかし、目の前の男がジッとこっちを見つめて
「あの日から、君だけだよ」
と、言われるとなんと言葉を返していいかわからず、ゆかりは黙り込んでしまった。
そんなディナーも済んだあとのこと。
二人は藤阪のクルマに乗り込んだ。
そこで、運転席の藤阪がエンジンを掛けるまえにパーキングの駐車券を探そうとしてクルマのルームライトを点灯させた。
そのとき助手席に座るゆかりが膝の上に置いた自分のカバンを何気なく開けた。おそらくハンカチでも取り出そうとしたのだろう。その様子を隣の藤阪がチラッと見て呟いた。
「ゆかりちゃん、それ、チョコレート?」
「えっ!?」
そうなのだった。バックの一番上でポーチなんかに押しつぶされないようにして大事に入れておいたのがあのチョコだ。
それをなぜ藤阪が一目見てわかったかというと、そのラッピングには一番上にしなくてもいいのに「St. Valentine's day」ってピカピカの金文字が光るステッカーを飾りに貼っておいたからである。
見つかっちゃった。こんな時期にこんなものをバックに忍び込ませているなんて普通じゃ説明できない。
藤阪からの指摘は、恵の言葉とはまた種類の違う痛みを彼女の胸に走らせた。
(どうしよう。他の誰かにあげるためにずっとチョコを持ち歩いているなんて、ただの『義理チョコ』って言ったって信じてもらえない。しかも、公ちゃんはうちの両親とも顔見知り。誤解を受けたらどんな噂が立つか分からない……)
「遅くなりましたけど、よかったらどうぞ!」
もうどうにでもなれ!と思ってそのチョコを手渡した笑顔のゆかりだった。
藤阪は気づいていなかったが、声がなぜか少し震えていた。
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