第221話 センチメンタル バレンタイン ③
そして草壁は一人がっくりと肩を落としてアネモネを後にしたのだった。
ゆかりからもあやからもチョコはもらえなかった。
来たときにはわざとらしい笑顔を作っていたと思ったら、帰りにはわかりやすくがっかりとした様子で店を出てゆくのを見送ったマスターが、隣に並ぶゆかりとあやに言った。
「ふたりとも、冷たいね」
「なんですか?」
ゆかりはそ知らぬ顔で、草壁の去ったあとのカウンターを拭いていた。
「草壁くん、がっかりしてたみたいじゃない?義理チョコぐらいは二人から期待してたんじゃないの?」
それぐらいは渡すつもりだったゆかり。マスターの言葉には直接答えずにしばらく黙って仕事をこなした。なんとも答えようがない。
それはそうだけど、こんなところで用意のチョコは渡したくなかった。
一応『義理チョコ』だけど、ここで渡したらまるっきり正真正銘の義理チョコになってしまう。
せめて、他の人には知られずにこっそりと……そう思っていた矢先に草壁がデートデートで先走って結局、渡すきっかけを失ってしまったまま。
われながら、チョコ一つでなんでこんなに持って回らないといけないのか、少し歯がゆい。
ゆかりがそんなことを考えてぼんやりとしていると、ゆかりとはまったく違った事情で草壁にチョコを渡さなかったあやがマスターに言った。
「いろいろとお世話になってるけど、お付き合いしてるなんて設定で、ごちゃごちゃやってると――」
「まだその設定、生きてるの?」
「はい、まだ田村君、ちょいちょいここに来るし」
そして、あやがこんな言葉を続けた。
「ただの友達でもない感じで、気軽に渡しづらくて」
あやのそんな言葉に、ゆかりの眉がピクリと動いた。
あやの言っているニュアンスとは違った意味あいで、まるっきり自分に当てはまる言葉でもあったからだ。
ゆかりのそんな思いまでは知らないだろうマスター。気軽な調子で今度はゆかりに聞いた。
「ゆかりちゃんぐらい、あげたらいいのに」
そっけなく答えるゆかり。目がちょっと虚ろなのは、質問への動揺ではなく、さっきから心の中を占めているなんともいえないモヤモヤのせい。
「わたしたちも、特になんでもありませんから」
そう答えると
珍しい生き物でも見つけたみたいな顔になった、あやとマスターから
「へえ!」
とわざとらしい大きな声を上げた。
「何が言いたいんですか!」
おちょくられると、子供みたいに反発するゆかりだった。
そして、ゆかりが買った『義理チョコ』はどうなったかというと、結局、その日草壁に渡すこともできないまま、彼女は半ば自棄気味にそのチョコを一人で食べてしまったのだった。
(だって、バレンタインの日に顔を合わせといて渡せなかったんじゃ、その後になって渡す理由がもう見つからない。「忘れてた」っていうのもわざとらしい)
「もう!タイミングも考えずに『デート』『デート』ってうるさいから、渡しそこねたじゃない!ほんとアノ人タイミング悪い!」
部屋で一人、草壁のために買って来た生チョコを食べながら、ゆかりは一人でプリプリ怒っていた。
しかし、自分でも気づいているのだ。今回は向こうに非はない。
1800円のチョコを買ったのだってそうだ。
義理チョコだと自分に言い聞かせながら、なんとかちょっとでもいいものを選んでしまう。
もし他の誰かからもチョコレートをもらったとして、それが自分の渡したものよりいいものだとイヤだから。そしてそんなチョコだって、渡せずじまい。
デートになんか行かない、って言っておいて、他の女の子と仲良くしているとヤキモチ焼く。
いっそのこと、彼のことなんか綺麗さっぱり忘れてしまえばいいのに、そばから離れるのはイヤ。
向こうの気持ちは知りぬいているから、それに甘えてる。けど、向こうには甘えさせない。
自分ってつくづくイヤな女だなと思う。
このチョコだって渡すのに、さり気なくとかなんとか言いながら一人相撲とった挙句、タイミングを逃してバレンタインに間に合うことも出来なかった。
やることなすこと、全部空回りしているわけだ。
そう思うと、無性に虚しい気分になった。
「結局、自分で食べるしかないじゃない……バレンタイン過ぎて渡しても意味ないし。それならなぜ当日渡さなかったのか?ってことだし」
ココアパウダーがたっぷり掛かっているからかもしれない。
その日彼女が食べたチョコの味はとても苦かった。
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