第220話 センチメンタル バレンタイン ②

 そしてやってきたバレンタイン当日。



 ところで前回のお話で、購入を楽しみにしていた10万円のロードレーサーがなぜか赤いママチャリとなってしまった草壁。


 アノ後、責任を感じたゆかりからは平謝りをされて弁償を申し出られたりもしたが、結局そのママチャリは彼の愛車となっただった。




 考えてみたらただの町乗りのためにしか使わないわけだし、これで十分。


 それに10万円の買い物が1万円で済んだということはその分お金の余裕もできる。


 デート代に余裕ができるというわけだ。




 もちろん今のところ、デートに誘おうたって素直にはウンとは言ってくれないゆかり。予算はあっても使う目処がまったく立っていないのが現状。




 それはそうと自転車という「足」ができると、徒歩と公共交通機関だけで移動していた時と違って、日常の行動範囲が広がる。


 例えば買い物一つにしたって、駅前のスーパーばかりじゃなくて、郊外のお店にまで行ってちょっと白菜と鶏肉とお醤油を買ってくるなんてことも可能。


 それまでは知らなかったお店も見つかることもあったりする。


 一つ隣の駅前に、大きな古本屋を見つけて毎週のように古本を漁りに行ったりするのも楽しい。同じ古本屋と言ってもチェーン店と個人のお店では微妙に品揃えが違うようだ。店内にアイドルポップスの有線放送が店舗の営業案内とともにスピーカーから流れるような店より、AMラジオが垂れ流しになっているかび臭い個人経営の店のほうが、彼の好みの品揃えに近かった。




 その日も隣町までひとっ走りして買い物を済ませると、線路沿いをまっすぐひまわりが丘まで目指す。


 別に急ぎの用事はないのだけど、なんとなく急いで帰りたいという気持ちなのは、バレンタインデー当日というのは何が起こるか分からないという、まったく根拠のない予感がするからだ。



 そんなふうにして、線路の高架下にまっすぐ伸びる道をすっ飛ばして、ひまわりが丘の駅前までやってきた草壁。


 ちょうど駅のロータリーに差し掛かったところで、駅から出てくる見覚えある人影を見つけた。


 チャリンコを飛ばして、すっとその人の隣に並びかけた。



「こんにちは、ゆかりさん」



 草壁とゆかりは駅出口のロータリーでしばらく立ち話をした。



「あっ、草壁さん……」


 ゆかりは、今ではすっかり草壁の愛車となってしまった赤いママチャリがどうしても気になって仕方ない。彼がそれに乗っているのを見つけて、しばらくママチャリを見つめてしまう。



「自転車でお出かけしてたんですか?」


「ちょっと隣の町まで、自転車あると電車乗らなくても楽に行けるからいいですよね」


「は、はい……あの……」



 目の前の草壁は、ロードレーサーがママチャリに変わったことにあんまりこだわりもない様子で、今ではすっかり赤い自転車を愛車にしてしまっている。


 しかし、ゆかりとしてみたら、そのために冬の間バイトまでしてたはずのものを買いそびれさせたという責任は感じていた。


 そこで、これまで何度か申し出ていたことだが――。



「あの……自転車、ほんとうにごめんなさい、私弁償しますから」


 とうつむき加減でポツリ。


 しかし、草壁のほうはなぜかママチャリが手に入った瞬間から憑き物でも落ちたみたいに、ロードレーサーへの執着が消えていたので、あっさりしたものだ。笑顔で手を振った。



「この自転車、乗ってみたら軽快だし、意外に気に入ってます」



「本当にいいんですか?」


「はい、もうこれで十分ですよ」


「そうですか」


「それに、10万円の買い物が1万円で済んだわけだから、予算が浮きましたし」



 急に草壁は声のトーンを落とした。そして目の前のゆかりをチラッと覗き込むようにして見つめた。



「予算って、何の?」


「おでかけの」



 来た。とゆかりは思った。そういえば、ちょっと前から彼は私をデートに誘いたいらしいそぶりを見せてきた。いつも断ってはいるけど、今日もそういうことだろうか?


 ゆかりは草壁の視線に気づかないふりでそっとそっぽを向いた。



「映画とか見ます?」


「はあ……まあ、時には見ますが……」


「こんど、大きなアウトレットモールが出来るの知ってます?」


「いえ、知りません」


「じゃあ、ゆかりさんの行きたいところとかもしあったら」


「特にないですけど」



「あの、食事とかもおごるから一緒にどっか行きませんか?」



 ずっと草壁を無視するようなゆかりの顔を覗き込んで草壁が、ここのところ何度目かになるデートのお誘いの言葉を口にした瞬間。



「何度も言わせないでください。そういうところに二人きりで出掛けるっていうのは、私ちょっと無理ですから!」



 ゆかりが顔も口調も厳しくきっぱりと草壁に言い渡した。


 ママチャリのサドルにまたがったままがっくりと首をうなだれる草壁。



「あーあ、残念」


 そう言って草壁はゆかりの目の前でうなだれるのだった。しかし、最近こんなふうに断られるのに慣れたみたいで見た目のガッカリそうな様子よりは気持ちは割りと平然としたものだった。




 その後、二人は並んでひまわりが丘の商店街の中を歩いた。


 実は、精神的なショックという意味では自転車を押す草壁と並んで歩くゆかりのほうが大きかったかもしれない。彼女は急に無口になった。そして、彼女は明らかに機嫌が悪かった。


 チラッと見上げると、さきほどからこちらも口数の少ない草壁も残念そうに眉を寄せていた。


 そんないかにも残念そうな彼を見てゆかりは思うのだった。



(何なのよ!このタイミングでデートに誘ってくるなんて!)



 少しはTPOというものを考えろということだ。なぜなら今日はバレタインデー。先日さんざん悩んだあげく買った『義理チョコ』はちゃんと彼女のバックの中に用意してある。あとは渡すだけだが――。



(そりゃ、デートなんてこっちは断るわよ。当たり前でしょ?けど、今あんなふうにデートを断ったあとじゃ、チョコレートなんか渡しづらいじゃない……)




◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇




 その後草壁とゆかりは喫茶「アネモネ」のドアを潜った。



 ゆかりは暇なのでちょっと喫茶店のお手伝いのつもり。それならということで草壁もカウンターに腰掛けていつもの調子。


 ちょうどそのとき、辻倉あやもエプロンをつけてカウンターに収まっていた。


 久しぶりのお店ツートップのそろい踏みといったところ。




 草壁にしてみたらどちらからか、いや両方ともからチョコレートをもらえそうな予感のヒシヒシとする状況である。



 そこで、すこしでも渡しやすい雰囲気を作ろうと一人妙に上機嫌ににやけてすわっていると。



「どうしたの?草壁クン、今日は上機嫌だけど?」


「ん?そうですか?別になんでもないですけど」


 と言いつつ、やっぱりニヤニヤしている。



 さっさとエプロン姿に早変わりして、草壁の目の前に立っているゆかりはそんな彼を見てちょっと皮肉げに言う


「100円でも拾ったんじゃないですか?」


 その隣ではあやも、表情一つ変えずに。


「思い出し笑いかなにかですか?」


 と、そっけない。




 このお調子者がこの時期必要以上に浮ついているのならば、大体相場は知れるだろうに。


 マスターはカウンターでともに並んで居るゆかりとあやが、草壁に冷たいことに驚いた。



「二人とも案外残酷だね……」



 草壁にしても、しばらくわざとらしい笑顔を浮かべていてもゆかりからもあやからもノーリアクションなことにだんだんと不安になってきた。



 


 ちょうどそのとき、テーブル席の客が勘定を済ませて店を出てゆこうとしていた。


 レジを打っていたあやが、その客につり銭とともに


「これ、今日はみなさんに特別にお配りしているものです。よかったらどうぞ」


 と言って、キャンディーの包みみたいなものを一つ手渡した。



 スーツ姿で一人携帯片手に黙ってお茶を飲んでいたのは、営業周りの途中みたいな様子の中年リーマン風。少し大きめのカバンを抱えた中年太りの見慣れない客だった。


「何これ?」


「一口チョコです。私たちの手作りなんですけど。バレンタインデーということで」


「あっ、ありがとう……。ここで食べちゃってもいい?」


「はい」


「……お、おいしい!ちょっとビターでいいね!こんな可愛い子の手作りチョコが食べれるなんて今日はちょっとラッキーだなあ」




 多分一見さんなんだと思われるその客は、手渡されたチョコをその場で食べてしまうと上機嫌で店を出て行った。




 そんな様子をチラッと見ていた草壁が、マスターに聞いた。


「なんですか?あれ」


「今日はバレンタインだから、あやちゃんとゆかりちゃんの手作りチョコをお客さんに配ってるんだよ」



「あっ!そうか!今日はバレンタインデーか!」


「君、絶対、わかってただろ?」



 草壁がわざとらしく驚いていると、カウンターのゆかりが草壁にそんな一口チョコを手渡した。


「だから、草壁さんにもこれ、どうぞ」



 カラフルなパラフィン紙をラッピング用の針金でキュッと閉じてあるのが、例のブツ。


 草壁はゆかりからそんなのを一つ、ちょんと手のひらに乗っけてもらったのだが、この男その手のひらをなかなか引っ込めようとはしなかった。


 手のひらの上に巾着結びになった一口チョコを乗っけたまま、しばらくその手をゆかりのほうに差し出したままの草壁。



「どうかしましたか?」



 さっきから気が付いていたが、ゆかりの態度が妙に冷たくそっけない。視線もひどく皮肉そうに睨んでくる。


 これだけお付き合いもあって、個人的に義理チョコの一つもくれないのだろうか?


 実は草壁は確信していた。本命チョコみたいな気合の入ったものは無理かもしれない。ゆかりは自分のことを『友達』としか言わないし、またそういう事実もない。


 しかし、他の誰からももらえなくても、ゆかりは自分にチョコをくれるだろうとほとんど確信していたのだった。



 それがいつまで経ってもそのそぶりがないので、草壁のほうからちょっと催促してみた。


 それが今の犬に「おかわり」でも教えてるみたいな格好している草壁の本音であった。




「これだけですかね?」



 ゆかりさんから直接、いただけないんでしょうか?と思っていたところ、ゆかりの反応は予想以上にそっけなかった。



「そうですけど……なにか?」


 まさか、もらえるとでも思ってたんでしょうか?わたしそんなつもりまったくありませんけど。


 ゆかりの目がそう言っていた。


 草壁にしてみたら、がっかりというより、驚愕だ。


 予想屋が絶対確実鉄板だと言った馬に手持ちの金全部ぶっこんだら、見事にこけやがった。



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