第216話 ママチャリで行こう ③
さて、そんなことのあった翌日のこと。
長かった叔母のところでの花嫁修業も無事に終えたゆかりの慰労会を開こうということになった。
「慰労会」と名前を付けると、大げさに聞こえるかもしれないが、実際のところ、草壁たちの部屋に彼女を呼んで、草壁、ゆかりの弟の亮作と、ツルイチとの4人で飲みましょう、というだけのこと。
要はそれまで頻繁に行われた、部屋での飲み会にすぎない。
そんな日の夕方、お呼ばれとなったゆかりが、草壁たちの部屋であるマンションお隣の307号室に顔を出すと、さっそくキッチンに立つのだった。
「お姉ちゃん、一応ゲストなんだから、おつまみ作ることないのに」
ダイニングに入ってくるなり、持参のエプロンをつける姉を見た亮作がそういうのだが、姉のほうにも言い分がある。
「あなたたちに任せておいても、お菓子とか出前ばっかりじゃない?たまには手作りのもの食べたいし」
ゆかりはそういうと、すっかり勝手に他所の部屋のキッチンを占領して、お料理を作り出した。
「まあ、ゆかりさんが作ってくれるものなら間違いないでしょうから、今日は主賓のお言葉に甘えましょうか?」
その日はゆかりの慰労会に合わせるように早く帰ってきたツルイチも、ダイニングのテーブルに大人しく座って、お嬢様が立ち働く様を見守っていた。
因みに、もう亮作とツルイチの目の前には宴会前だというのに、いつの間にかカクテル缶が一本ずつ口をあけていたりする。
キッチンに立つゆかりの背後ではすでにメンバー二人が宴の始まりを待ちきれないらしい様子をしているからあんまり時間も掛けてられない。
とりあえず、今は買い置きのスルメと柿ピー齧らせて時間稼ぎ。
その間に、まずは小松菜のお浸し。お醤油の代わりにナンプラーを使ってエスニック、かつピリ辛に仕上げてお酒にもあうように。
あとはお魚コーナーで白身魚が刺身用でお安く売ってたから、それを使って、ニンニク風味の利いたピリ辛バルサミコドレッシングを作って和えたら、お魚のマリネの完成。彩りと香り付けに紫たまねぎと万能ねぎも添えて。
お菓子のポテチもいいけど、新ジャガ出回ってきたからシンプルに皮ごとザッと油で揚げて、軽く塩コショウ。、アボガドディップも添えたら、これも一品。
サラダは芽キャベツとクコの実をローストしてから、レーズン、パルメザンチーズとざっくり混ぜ合わせて、レモン風味を聞かせたドレッシングと絡めて一皿。
ラビオリは既製品を買ってきたけど、それに軽くパン粉をまぶしてローストするのは一工夫。ついでだから、マリナラソースは手作りしてディップにしていただきましょう。
というわけで……。
「草壁さん、トマトの皮むいといてくれます?」
「はい!」
そう、今現在キッチンを占領しているのは、長瀬ゆかりとこの部屋の住人草壁圭介の二人である。
ゆかりのおつまみ作りのお手伝いをさせられているのだが、実は彼もエプロンをつけた理由は他にある。
「草壁クン、から揚げあがったら、熱々のやつ一つちょうだいよ」
「おまえ、あんま食うなよ、ほら、熱いから気をつけろよ」
そんなふうに、揚げたての草壁お手製のから揚げを亮作がホフホホフ、ってなりながら頬ばるのだった。
いつかにも触れたが、なぜか草壁の作る鶏のから揚げが皆に妙に評判なのだ。そこで、飲み会やらなにやらとなると必ずと言っていいほどリクエストが皆からでるのである。
見ているとゆかりは作らされているというわけじゃなくて、本当に楽しそうにお料理をするのだった。
菜箸片手に、お鍋をかき回して
「なんか、こうやってちゃんとお料理作るのって、久しぶりだなあ」
ちょっと、うっとりした顔になっている。
隣でトマトの皮をむく草壁が聞いた。
「寮では作ってなかったんですか?」
「はい……あんまり設備も整ってないし、冷蔵庫もないから材料のストックもできないし」
「そういえば、あの部屋、何もなかったですもんね」
「だっていつまでいるか分からなかったし、お休みの日はこっちに帰ってきてたから、家財道具そろえてもやがて処分する手間がかかるだけじゃないですか?」
「結局、買った家具って?」
「ちゃぶ台と、お鍋とヤカンと包丁と食器。全部草壁さんの叔父さんのところで」
「……親戚の僕がこんなこと言うのもなんですけど、よくあそこで買い物なんかする気になれましたね?けど、お鍋とか包丁は一応買ったんですね」
草壁がそう聞くと、ゆかりは急に俯いてしまった。何事かイヤなことでも思い出したらしい。急に静かになってつぶやいた。
「はい……実はあの部屋で、一度ジャガイモの煮っ転がしを作ったんです。そしたら……」
「そしたら?」
「ちょうど夜でした。部屋の周りをゴソゴソ動き回る足音が聞こえてきたんです」
「ゆかりさんの部屋の周りを?夜中に?」
草壁もよく知っているが、あの寮の周辺は夜に誰かがあんまり足を踏み入れるような場所ではないのだった。
話を聞いていると、泥棒でもやってきたみたいな雰囲気がする。
「私、カーテンの隙間からそっと外を覗いたら、居たんです」
ゆかりの表情がさらに曇った。何か恐ろしい目にでもあったみたいな様子だ。
「誰が居たんですか?」
「渡辺君です」
「渡辺が?」
そう、あの双葉荘の洗い場のバイト、食いしん坊のデブ渡辺のことである。
彼は外に出てみると、なぜか裏庭のどこかから香ばしくておいしそうな匂いが漂ってきたのだった。その匂いに引き寄せられるように、彼は裏庭をさまよいだした。隙あらば食ってやろうという魂胆のもとに。
そして、部屋のカーテンの隙間からゆかりが見たのは、ケダモノのような目をしながら夜の闇を匂いの元をかぎまわって徘徊するオーガ(鬼人)の姿だった。
「私、一瞬で怖くなっちゃいました」
そろそろ、お鍋の中のポテトの色が気になるところだが、それ以上によほど回想の中の渡辺が不気味だったのだろう。ゆかりの手は完全に止まったまま、遠い目をしていた。
「あいつに食い物が絡むと、怖いな……」
横で草壁も深く頷く。
「あの人、ほっといたら私の留守中に部屋に忍び込んで、鍋のもの食べそうでしょ?」
「大いに考えられます」
「一度、そんな捕食ルートができたら、二度三度とやってきそうだし」
「アリですね。まるで」
「私、すっかり怖くなって、3,4日ぐらいかけて食べようとしてたお鍋のお芋をすぐに全部食べました」
しかもそのとき、ゆかりは渡辺に見つからないように部屋の電気を全部消して、暗闇の中で鍋から直に芋の煮っ転がしを食べたのだった。
まだ完成に至っていない、芯のあるジャガイモの煮っ転がしを鍋一杯に……。
「あの、ろくに味も染みていないジャガイモの煮っ転がしを一気に全部食べたら、いろんな意味で死にそうになりましたよ」
とは言え、今は昔の出来事。今となっては笑い話だった。そこまで泣きそうな顔で振り返ったあと
「ゆかりさん、あそこでロクな目にあってませんよね?」
と言う草壁とともに、二人で大笑いするのだった。
そして、そんなふうにしてキッチンに立つ草壁とゆかりを背後でお酒片手に見守る亮作とツルイチは
「なんか、訳の分からない話して二人でもりあがってますね?」
「あの旅館、、お二人にはよっぽど楽しいところだったみたいですね」
と、不思議そうな顔をしていた。
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