第212話 すみおさめ ⑤
先ほど、真奈美と遭遇した地点まで草壁の足でものの2分もあれば到着した。が、ターゲットがそこにジッとしているわけもないだろう。しばらく、あたりをキョロキョロしながら赤い水玉のジャンパーと熊の絵柄を探してみたが簡単には見つからなかった。
まず、手当たり次第に表通りに飛び出したあと、開いているお店に飛び込んでクマの絵のある赤い水玉ジャンパーの女の子がこのあたりを通らなかったか?とたずねてみたが、誰も首を横に振るばかり。
時間としては、小さな子の足でもちょっと離れたところに行ってしまってもおかしくない。
しかし、別れたあと、あの子がどの方向へ向かったのかも見当がつかない。
「まいったな……交番に行っておまわりさんにちょっと聞いてみるか」
そう思っていたときだった。
「サイフ落ちたよ!」
行きの道すがら、掛かった声と同じ響き。
ぎょっとなった草壁が後ろを振り返ると、さきほどと同じく草壁のサイフを持った真奈美ちゃんが突っ立っていた。
またサイフ落としたということより、なんとか真奈美と出会えたことの安堵で、思わずのけぞるほど大きなため息が漏れる草壁だった。
目の前でサクランボの髪飾りで止めたツインテールを揺らして、本日二度目のお財布を拾ってあげた男を不思議そうに見上げているこの赤いほっぺの子は多分、自分が迷子になったことを自覚していない様子だ。
まあ、とりあえずはこれで一件落着か。
両膝の上に手をついて、真奈美ちゃんのほうへ頭を下げた草壁がとりあえず確認のために
「あなたは葉月真奈美さんですか?」
と聞いてみた。
すると、向こうは草壁の顔をジッと見ながら
「うん。なんで知ってるの?」
と聞いてくる。まあ無邪気なこと。
「おにいちゃんは、ゆかりちゃんの知り合いだからです」
「ゆかりちゃんの?」
「そう」
それでも依然として不思議そうに草壁のことをジッと見ているだけの真奈美。とりあえず、草壁が手を差し出して
「一緒に帰ろう。ゆかりちゃんが探してるよ」
というと、真奈美は大きくかぶりを振った。
「イヤ」
「どうして?」
「知らない人についていっちゃいけないって、お母さん言ってた」
はい。そのとおり、真奈美ちゃんそれでいいんです。
旅館から、再び真奈美と遭遇したこの駅前通りのとある場所まで、ゆかりが全力疾走して多分3、4分だと思って、真奈美といっしょにその場でジッと待っていると、草壁からの連絡を受けたゆかりが、えっ、まだカップヌードルできませんが?っていうぐらいの時間でやってきたのはちょっとした驚きだった。
草壁が一緒に帰ろうと言ったときには、不審げに首を横に振った真奈美ちゃん。
だが、じゃあ、ゆかりちゃんを呼ぶから、それまでここで一緒にまっててくれる?というと案外素直に頷いた。
あんまり人見知りもしないせいか、通りの脇の植え込みのフチに二人で並んで腰掛けて
「スーパーでお姉ちゃんのところを勝手に離れてどうしてたの?」
と聞くと
「犬を追いかけてた」
と言うのだ。それから猫を追いかけているところで、草壁のサイフを拾ったあと、今度は鳩を追いかけているときに再び草壁のサイフを拾ったらしい。
そのうちこの4歳児は、お母さんの言いつけどおり最初は草壁にちょっと警戒しているようなところがあったが、すこし話すようになると、やがて警戒心なんてどっか行ったみたいに、あれこれと草壁に質問してきた。
「お兄ちゃんはゆかりちゃんのお友達?」
「うーんと彼氏」
「彼氏?」
「恋人」
「恋人だったら、チューとかするの?」
「ときどきね」
「ふーん。なんでゆかりちゃんを知ってるの?」
「恋人だからだって言ってるじゃないの……お兄ちゃんも双葉荘で働いてるんだよ」
「じゃあ、お母さん知ってる?」
「若女将のことでしょ?知ってるよ」
「じゃあ、お兄ちゃんも今日来るの?」
「何に?」
「今晩、おうちでしゃぶしゃぶするんだよ。ゆかりちゃんといっしょに」
「わあ、いいなあ、おいしそう!」
「お兄ちゃんも来る?」
「いいなあ、お兄ちゃんも行きたいなあ」
「じゃあ、来たらいいよ!」
「あははは。お招きに預かって光栄です」
そんなことを話していると、息を切らしてゆかりが到着したのだった。
第一声に
「真奈美ちゃん。今日はひとりでお散歩ですか?」
と言ったとき、なんとか笑顔になろうとしながらも、潤んだ目が泣きそうになっているのが草壁にはわかった。
さっそく双葉荘にまで帰ると、レイコも芳江も泣き出さんばかりの勢い。
「よかったわあ、ちゃんと帰ってきてくれて」
祖母のほうは、ただただ胸をなでおろすばかりだ。
「コラッ!一人で遠いところに行っちゃダメっていっつも言ってるでしょ!」
と厳しく叱るのはさすがに母親らしい芳江。
そして、真奈美発見の最大の功労者である草壁は何度も二人から頭を下げられたのだが、あんまり何かをしたという自覚もなかった。
なんでかしらないが、財布を二回落としただけのことである。
真奈美が拾ってくれなければ、多分、サイフも、真奈美も見つからなかったと思われる。
「いいえ。こちらも、真奈美ちゃんにサイフを拾ってもらって助かりました。真奈美ちゃん、ありがとう」
草壁がそういって真奈美に微笑むと、真奈美は無邪気に
「どういたしまして」
という、相手から『ありがとう』と言われたときに返すようにと親から教わった定型句を言う。そこはお利口さんだが、この場合、微妙に答え方が間違っている。
「こらっ!あなたもちゃんとお礼を言わなきゃダメでしょ?」
と芳江から叱られていたりするのだった。
「草壁君には、すっかりお世話になっちゃったわね、最後の最後まで。何かお礼がしたいけど、何がいい?」
旅館事務所で、レイコからそんなことを言われた草壁
「いいえ。僕、たいしたことしてませんし、御礼なんて大げさですから」
と遠慮した。事実、お礼をされるほどのことはないと思っていたし。
すると、そばでその話を聞いていた真奈美が突然
「お兄ちゃんもシャブシャブ食べたいって言ってたよ!」
と大きな声を上げた。
「しゃぶしゃぶ……真奈美、あなた今晩のこと草壁クンに言ったの?」
「うん!そしたら、お兄ちゃんも食べたいって!」
「あっ!それは。僕もおいしそうだなあとか、言いましたけど」
「草壁クン、今晩仕事だもんねえ」
若女将はそっけない。だから無理だとさっさとこの話にケリをつけようとする。だいたい、お礼と言いだしたのはレイコのほうで、芳江からは別にそんな話は出てない。
が、レイコは、なぜかシャブシャブの話から簡単に引き下がらなかった。なんとか彼を呼びたいみたいな様子。
「それはそうだけど、洗い場なんとかならないかしら?」
「今日は、あの3人しかいないから、まだ任せておくのは無理だと思いますよ」
「それは分かってるわよ。誰か代わりに入ってくれる人、居ないかしら?」
「もう、じきに仕事が始まるこんな時間に捉まる人なんて居ませんよ。お義母さん」
そのやりとりをそばで黙って聞いていた草壁が、そこでおもむろに口を開いた。
「あの……うまくいくかどうか分かりませんが、交渉してみましょうか?」
皆が見守る中、そう言った草壁は、横で立っているゆかりに向かって軽く頭を下げた。
「こういう役は僕より適任だと思うので、とりあえず交渉お願いします」
「な、何のですか?」
「僕の代役を引っ張り出してきてもらう交渉の、です」
「それを、なんで私がしなきゃいけないんですか?」
「今日の件に関しては、ゆかりさん、僕に借りがありますよね?」
平然と草壁が言うのだった。
やっぱり、しゃぶしゃぶは食べたい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます