第210話 すみおさめ ③
そして、片や長瀬ゆかりのほうである。
その日も、お定まりのトイレ掃除にいそしんでいると、レイコがフラッとやってきた。そして
「お掃除終わったら、うちにいらっしゃい。お茶ごちそうしてあげるから」
と声をかけられた。珍しいこともあるもんだ。ここで働くようになってそんなおもてなしを叔母から受けたことがなかったゆかりである。
お茶をごちそうなどと言うけど、もらい物のお菓子のあまりでも食べさせてくれるのだろうか?
と思ったゆかり、とりあえずこのあとも仕事はあるので、掃除や雑用をするときのいつもの格好である青いツナギ姿のまま旅館を出て、すぐ目の前の葉月家の屋敷へと向かったのだった。
インターホンでレイコと話すと、「玄関開いているから、そのまま入ってらっしゃい」とのこと。
ここ数ヶ月ですっかり馴染みになった葉月家の玄関ドアを開けてリビングに「おじゃまします」と言って顔を出すと、ゆかりの格好を見たレイコが大笑いした。
「まあ!ゆかりちゃん、あなた。その格好でやってきたの?本当にもう……」
最近は厳しく叱られることはなかったが、あんまり打ち解けてもくれなかったレイコが急に、昔のゆかりがよく知っているレイコ叔母さんに戻って笑っていた。
そういえば、叔母から「ゆかりちゃん」と呼びかけられるのも久しぶりだった。
おそらく若女将の芳江は旅館のほうで仕事をしている様子。
他に家人のいない妙に静かな葉月家のリビングテーブルには、すでにお菓子の準備もしてあった。
「そこに座って待っていて」
とレイコに言われて、大人しくツナギ姿のままテーブルにつくと、目の前には漆の光沢がつややかなところに沈金細工で控えめな松葉の模様をあしらった丸皿のうえに、分厚く切った羊羹が、先を軽くぬらした黒文字楊枝を添えて置かれてあった。
「待っててね、今からお茶を立てるから」
ゆかりが席について待っていると、着物姿の叔母が黒塗りの盆を抱えてゆかりの目の前に座った。
見ると、その上にはナツメに匙、茶せん、それにズンドウみたいなストンとしたシルエットの半筒茶碗に、ポットが乗っかっている。
茶道のことはよくわからないゆかりだが、これから濃茶を立てることぐらいはわかった。
そして、叔母が大笑いした理由もわかった。
この格好でお抹茶というのは、相当に間抜けだ。というかマナー違反といわれるかもしれない。
叔母と二人だけ差しで気楽に飲むお茶だから、そこのところは大目に見てくれたのだろう。ここのところずっとゆかりには厳しかった叔母が、笑って許してくれたのもそういうことなのだろう。
レイコはゆかりの目の前の椅子に座ると、
「たまにはいいでしょ?こういうのも。お抹茶もお薄と違ったおいしさがあるから。気軽に飲んでくれたらいいのよ」
と言いながらも、きちんと折りたたんだ袱紗を使って茶碗を拭くところから始まって、ポットのお湯で椀を暖めてから、匙を使って静かに加えた抹茶を静かな茶筅さばきでもって茶を立てて、それをゆかりの目の前に静かに差し出した。
「お茶の作法とか、あなたはわからないでしょ?気にせずにどうぞそのまま召し上がれ」
とてもにこやかにそう言って、お茶をすすめるレイコに、ゆかりもなんとなく釣り込まれるように笑顔になる。とりあえず、一口飲んだあと「結構なお手前です」と、わざと真面目腐った顔で頭を下げた。
「だから、そんなに形式ばらないでいいのよ。私もいっしょにいただくから」
そう言って笑った叔母は、今度は手順とかにはあまりこだわる様子もなく、簡単に自分のためにお茶を立てると、黙って一口それを飲んで。
「ああ、おいしい。今日はいいお羊羹もあるから、それもどうぞ一緒に召し上がれ」
目の前に用意してあった黒羊羹は、たしかにちゃんとしたお茶会に出すにしては、切り方が分厚すぎる。けど、おやつにいただくには、充分満足な大きさ。実はこれ一個百円の一口羊羹とは訳が違う。バッテラ寿司ぐらいのやつが一本六千円とかっていうものだそうで。
「頂き物だけど、おいしいでしょ?」
ちょっと濃厚すぎるぐらいに甘味の強い羊羹だが、不思議と食べたあとしつこいとは感じないのだった。
そんなことは置いといて。
レイコがゆかりをここに呼び出したのはなにも、お茶菓子を二人で食べたかったからじゃないのだった。
ゆかりも、それに気づいていた。やってくるなり自分のことをもう「ゆかりちゃん」という呼びかけに戻っていることになんとなく、ある予感はあった。
そして、レイコから思っていたとおりのことを言われた。
「長い間、ごくろうさまでした。住み込みも、うちの仕事も1月いっぱいであがってもらうわ」
「えっ」
「どうしたの?びっくりしたような顔をして、何か不満でも?」
いきなりの卒業宣言だった。
もちろんいつまでもここに居るわけじゃないのは最初からわかっていたことだけど、突然言われると、なんだか「もう終わりですか?」と物足りなく思う自分に気が付いた。
居たくはないけど。
「私、ちゃんと花嫁修業してたのかなあ?なんて思って」
ゆかりが一人でそんなことを言って考え込むと、その様子を見たレイコが愉快に笑った。
「何?掃除ばかりで何も教えてもらってないって言いたいの?」
「いいえ、そうじゃなくて!」
「フフフフ。あなたならどこへ行っても恥ずかしくない花嫁さんになるわよ。叔母さんはそんなこと心配しなくていいって思うわ」
そこまで口にしたレイコ、そこで、すこし言葉を切ると、じっと目の前のゆかりを見据えて。
「うちのアキラの嫁に欲しいぐらい」
などと言うのだった。
このアキラなる人、レイコの一人息子であり、現在旅館双葉荘の専務という立場でもある。もうお分かりと思うが若女将芳江の旦那でもある。
ちなみに、レイコの旦那が旅館双葉荘の代表取締役社長である。
旅館業の通常業務にはあまり口を出さずに、事務室とは別室の社長室にいることが多いせいで、草壁もあんまり顔を見たこともないのだが。
レイコの言うことを聞いて、ゆかりがちょっと驚いた。
「アキラさんには、若女将がいるじゃないですか」
すると、レイコは急に真剣な表情に変わった。
「あなたさえその気になってくれるなら、芳江さんと別れさせます」
まさか、ここに呼び出したのは、卒業の言い渡しじゃなくて、そんな無茶な話の相談だったの?いや、まさか。ゆかりは軽く笑顔で答えた。
「そんなこわいこと言わないでください」
目の前のレイコの表情は相変わらず厳しかった。
「冗談でこんなこと言うと思う?」
「冗談って言ってください!」
ちょっと混乱してきたゆかり、つい、真面目になってしまった。
そして、そんなゆかりを見てやっとレイコは笑った。
「焦っちゃって……そんなことできるわけないでしょ?」
やっとホッとしたゆかりだったが、レイコの言葉には微妙に引っかかるところがあった。できるわけはないが、できたらそうしたい。まるでそう言っているようにも聞こえたからだ。
するとレイコは、まるで独り言のように静かに言葉を続けた。
「芳江さんも、悪い人じゃないのよ。あれで普通の家庭の主婦なら、倹約上手のいい奥さんだったでしょうね。あんまりこだわりのない旦那さんなら、あれで充分いい女房だと思えるんじゃないかしら?でもね」
ここで、フッと小さくため息をついたのが、ゆかりには分かった。
そういえば時々感じていた、嫁と姑の間にあるなんというか微妙な温度差。芳江はたまにゆかりにこぼすことはあったが、レイコはついぞそういうものを今まで見せたことはなかった。それが、ようやく姑からも垣間見えたのだった。
「旅館を一軒切り盛りして、従業員を引っ張っていく立場っていうのは、それだけではなかなか。
人を使うというのは、その人から常に見られているということなのよ。そこを心がけて行動しないと人はついてきません。立場さえあれば、普段は何とかなるけど、いざとなったときに困るのは自分なの。いつか必ず自分に帰って来るからそれが分からずに人を使っていると、いつか必ず痛い目にあうわ」
レイコには若女将は、まだ将来の女将候補としては頼りなく映っているようだ。しかし、見ていたら心配してはいるものの、どこか諦めてでもいるように、軽く笑みを浮かべているレイコだった。
「ねえ、ゆかりちゃん。人間には躓かなくても分かる人と、躓いて分かる人と、躓いても分からない人がいるけど、あの人は少なくとも第一の人じゃないみたい。
芳江さんはアキラが連れてきたお嫁さんなのは知ってるわよね?
実はいろいろとあったのよ。反対する人もいたわ、ウチの人なんかもね、ついこの前までただの女子大生だった子に旅館の女将なんてつとまるか?って言ってね。
けど、私はもう達観していたのよ。そんなもの、経歴や肩書き、お家柄のいくらご立派な人を連れてきたって、実際にやらせて見なければ、本当に適任かどうかなんてわかりはしないもの。
鉦や太鼓で探しても、居ないものは居ないし、縁があればお付き合いというのも生まれるし。
経営者として無責任なこと言っているみたいに聞こえるかもしれないけど、本当そうよ
だいたい、『この人は』なんて思えるような人、そうそういるものじゃないわ」
叔母はゆかりの前で静かに濃茶を飲みながら話を続けた。
それにしても、と、ゆかりは思うのである。
たまにゆかりに愚痴っていた芳江と違って、レイコがそれを言うと、とても姪っ子程度に簡単に話せるようなことじゃないようなことまで、随分と喋っちゃうものだな、と。
レイコの実姉である、自分の母にでも話しているみたいだ。
自分への信頼の証なんだろうか?
「どこだって、嫁と姑って言うと、難しいところがあるでしょ?けど、うちはさらに輪をかけて複雑なのよ。わかる?」
「あの……家庭でも仕事でもご一緒みたいですし」
ゆかりの言葉に大きくレイコが頷いた。
「そう。そうなのよ。常に一緒。そして、仕事と家庭、別々と言ったって家庭のことで衝突があったら、仕事にも影響はでるわ。人間なんですもの。その逆もまた同じ。だから、なにかと気を使うものよ。特にうちなんかは、私のお義母さんの流儀というのが、亡くなってからも幅を利かせているようなところのある、家庭にしても仕事にしても古くさいところがあるし。
新しいことをしてれば怖いものはないだろうけど、じっとしてればこわいものってのがあるもんだって、分からない人にはわからないでしょうね。
あの人なんかには、時代遅れとか、非効率とかそう思えるのも分からないでもないけど。
本当は色々と言いたい事もあるけど、今は黙ってみているのよ。
あなたも昔、ちょっと顔を合わしたことあるでしょ?私のお義母さんの、ここの大女将って言われた人」
「はい」
ゆかりが頷くと、しばらく何か考え込んでいるような表情で黙り込んだと思ったら、やがてレイコは静かにこう言った。
「私がした苦労を繰り返したくないものねえ……」
ああ、そういうことか。レイコ叔母さん、ここに嫁いできてさんざん苦労したって話は聞いたことがある。
だから、自分の嫁にはそうはしたくないのか。
ゆかりが、ちょっとそんなことに納得していると、急に、目の前の叔母は笑顔になって懐かしそうに亡くなった義母のことを話すのだった。
「けどね、今となってはいい思い出よ。
私のお義母さんはね、私があんまりお利口さんな時が気にいらなかったみたいね。ちょっと、抜けているぐらいがちょうどいいのよ、っていつも言ってたわ。
そのくせ、「あなたは物分りが悪い」っていつも小言。まあ、とにかく難しい人だったわね
けど、いい人だった。今でも良く思いだすわ
お義母さんに毎日、小言いわれて過ごした日がね、今では懐かしいもの。
今、こうして女将なんて、言われているのもお義母さんがいたからだなあって思うわ。
ゆかりちゃんを見ていて、私、なぜかとても懐かしかったわ。
ありがとう」
なぜか、最後に叔母からお礼を言われて頭を下げられると、ゆかりも大慌てになって。「いいぇ!私こそ、叔母さんに色々と教えてもらってお世話になりました。ありがとうございました」
と頭を下げると、叔母は今まであんまり見たことがないぐらい大きな口を開いて愉快そうに笑った。
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