第209話 すみおさめ ②

 普段はパチプロのこのオジサン。大体毎日のように打ちに出掛けているみたいだが、パチンコ屋が終わったあともどこかで飲んでいることも多いらしく、帰宅は草壁もすっかり部屋でくつろいでいるような遅い時間になることもしばしば。そして、ダイニングに寝袋を出して、そこで寝るが、朝は早い。草壁が1限目の授業にあわせて起きだすころには、テーブルで新聞読んでるか、もうどっかに出掛けてモーニングでも食べてるそうだ。



 考えてみると、このオジサンと二人で向かい合ってじっくり話したことはあんまりなかったと思った草壁。


 別に無理に話すこともないのだが、ちょっと気になったので、このオジサンとゆっくり話してみようかと思った。


 一斗缶に腰掛けるツルイチの隣に立って、目の前にあのオンボロ寮のゆかりの部屋が常夜灯の明かりで薄茶色にぼんやりと光っているのを見つめながら、草壁が問いかけた。




「ツルイチさんが、以前にここで働いていたのって、いつごろなんですか?」



 草壁の足元で、ツルさんも目の前の寮をじっとみながら答えた。



「もう、随分と古い話ですよ。ちょうど今の女将がここに嫁いできた頃にここにいましたからね――」


 そこまで言うとこのオジサン、草壁のほうをちょっと見上げて笑った。


「――それで、『古い』なんていうと、女将に失礼ですかな?」



 ツルイチのそんな言葉を無視して草壁が聞いた。


「女将の若いころのことを知ってるんですか?」


「まあ、知ってるというほどのことではないですがね。そうそう、若いときは綺麗な方でしたなあ――」


 そして、また再び草壁を見上げて、ニコッと笑った。


「――いや、もちろん、今でも充分に綺麗な方ですがね」



「ここに居ない人に、そんなに気を使って喋ることないでしょ!!」


 そんなこんなでいちいち話が途切れると、聞いているほうがまどろっこしい。




 それからツルイチさんはその当時のことを振り返って、草壁に話してくれた。



「あの当時、旅館を仕切ってたのが亡くなった大女将でした。ま、私が居た当時から大女将って言われてた人で。この人は厳しかった。何しろ、当時まだ厨房の若手だった私なんかでも、なにかあるととっつかまって、お説教ですよ。白衣の下のシャツの袖がだらしないとか、歩き方がなってないとか。あの頃の料理長っていうのも、名の通った料亭で働いていたっていう腕利きを大女将自ら引っ張ってきましたが、そんな人相手にだって、味付けが気に入らないとか平気で説教してましたね。それで、言うことが正しいものだから、簡単に反論できない。


 ある日、こういうことがありましたね。


 宿泊客に出す新しい料理の味見を大女将がすることになったんですよ」



「へえ……そういうことするんですか?」



「しないところもあるでしょう。料理のことは料理人に任せて口は出さないっていうところもね。しかし、あの当時のここは違ってました。大女将が首を縦に振ってようやく、ゴーサイン。勝手なことは許さないっていう」



「今もここはそうなんですか?」



「今は違うみたいですね。なんでも今の若女将の時にやめたらしいです」


「そうなんですか……」


 ということは、レイコが仕切っていた頃はまだやっていたということだろうか?草壁は思ったがそんなこと、ツルイチが知らないかもしれない。とりあえず、黙ってオジサンの昔話に耳を傾けた。



「その試食のときに、ある椀物を料理長が作って持ってったんですな。するとそれを一口飲んで『ちょっと味が薄い』と言って文句をつけた」



「大女将が?」



「そう。しかし、実はこの大女将って方、お酒を飲むんですよ。そのときも一杯引っ掛けてちょっと赤い顔をしながらの試食だったんです。料理人だって、せっかく作ったものを一口飲んですぐに突っ返されてムカッとも来たんですな。『じゃあ、作り直します』って大人しくその椀を下げた」



「ムカッとしたのに?」



「だから、作り直すフリだけして、同じものを知らぬ顔で持っていって『今度はどうですか?』ってとぼけたんですよ。どうせ、分かりもせずに言ってるに違いないとタカをくくって。けど、それを同じように一口飲んだ後、一言『やっぱりちょっと味が薄い』と言って突っ返す」



「ふーん」



「言われた料理人、もう一回同じことをやってみたんですよ」



「つまり同じ椀を3度持ってって味見をさせたと?」



「そういうことです。そしたら、料理人の顔をじろっと睨んで一言『だから、味が薄いって言ってるじゃありませんか。何度同じこと言わせるんですか!』って一喝したそうです」



「怒った?」


 草壁がそこで、こんなことを言い出すと、ツルイチは愉快そうに笑った。


「いやいや、怒ってなんかいないんですよ。そうじゃありません」



 そう言われて草壁は一瞬、キョトンとなった。話を聞いているとそういうことで雷を落としたという、大女将の怖さを表すエピソードかと思ったのだが、どうも違うらしい。


 ツルイチは、3本目のタバコに火をつけると、さらに話を続けた。



「そして、今度は言われたとおり、ほんのすこし味を濃くして持って行ったら。ようやく『そうです。これでいいんです』って即座に頷いた。この話を、私、そのときの料理長から聞いたんですけど、それ以来この方、大女将を一目置くようになったということです」



「へえ……」


 草壁が分かるような分からないような顔して相槌を打ったとき、ツルイチが聞いてきた。



「分かりますか?この話の意味」


「え!意味……」



「つまりね。そのときの料理長だって相当な腕の人なわけですよ。その人が最初の味見のときに持ってった椀の味だってまずいものを持っていったわけじゃない。その人がこれでヨシって思ったものを持ってったわけだな。しかし、それがダメだと言う。そして、その人が試してやろうと同じものを3度持ってたのだって、自分の椀の味に自信があったからでもあるわけでしょ?これで悪い訳はないし、普通の人なら分かる訳ないって思ったんです。ところがそれが分かってしまう。そして味付けが変わったらそれもきちんと味わい分けるとね。


 味覚の精度というのが常人じゃなかった。


 例えて言うと、普通のプロが1ミリ単位で分かるものを、あの大女将という方は0・1ミリの精度で測ることのできた人ということですよ。



 さっき草壁君は、大女将が怒ったって言ったでしょ?だからアレ違うんですよ。怒るのなら、2度目に同じものを持ってったときに怒るはずです。同じものだって分かってたでしょうから。


 けど、そこで知らぬ顔をして突っ返したとき、料理長が自分を試しているってことに気が付いたんです。そして、それを受けて立ったということなんですなあ。


 3度目に睨みつけたというのも怒ったんじゃなくて『あんたのたくらみなんか、もう見抜いてるんだから、こんなお遊びに付き合わせるはいいかげんにしなさいよ』ってメッセージですよ。味云々だけじゃなくて、それぐらいの機微はさっと読み取れずに、いい料理人にはなれないわよって言うことです」




 なるほど、と草壁は思った。が、正直だからどうした?という話だ。


 寒空の下、そんな長話延々と続けられて正直、体が冷えてきた。


 このオッサン、白衣だけでよく平気でこんなところに座ってられるよな。




「大女将というのがこういう方でしたから、それは今の女将も嫁いできたときというのは苦労されたようですよ。けど、そういう苦労してるような顔は一切外のは見せませんでしたね。大女将には頭は上がらないようでしたが、普段はきびきびとして、思いやりのある方で。


 そういえば、旅館の人間に大女将のカミナリが落ちるときには、いつも一緒になって頭を下げるのがあの当時の女将の仕事みたいなところありましたからねえ。


 張り詰めた厳しい大女将と違って、料理長だろうがアルバイトだろうが関係なしに誰とでも気さくに接してましたね。


 じきに若いのに旅館の仕事を仕切るようになって……」




 とにかく年寄りの昔話というのは長くなるが常らしい。


 それはそうと、そのとき草壁があることを不意に思い出した。そこで、ツルイチの昔話が一段落したところでそのことを聞いてみることにした。


 それは、ちょうど今、ふたりの目の前に立っているオンボロ寮のことである。



「僕、前にここの人から聞いたんですけど、あの目の前の寮があるじゃないですか?たしか、昔はあそこで寝泊りすれば一人前って言われてたんですって?」



 すると、ツルイチが笑って頷いた。



「古いことを知ってますね。……そうですよ。あの寮ね……ちょうど今の女将が旅館を仕切るようになった頃のことですけどね。旅館の敷地の中に寝泊りさせるわけだから、ちゃんとした人でないと、ってことであそこに寝泊りさせてもらえる人っていうのは、女将が目をかけた人だけしか許さなかった。だから、バイトでここに入って、あそこに寝泊りするようになってやがてここの正社員になったって言う人は何人もいましたね」



 なるほど、そういう訳だったのか。


 話を聞いたらなんのことはないような話だった。しかし、それも今は昔の話。今の若女将が旅館を仕切るようになってからはこんな寮あったって、誰も住みたがらないし、ボロっていっても建物である以上、維持費だってかかるわけだ。


 だから――。



「そう言えば、あの寮、取り壊されるそうですね」


「本当ですか?ツルイチさん」



 草壁が聞くと、ツルイチはひどく大げさに何度も首を縦に振った。


 なぜかちょっと懐かしそうに目の前に寮をじっと見つめたまましばらく、黙り込んでいたが、やがて口を開いたとき、このオジサンが、タバコの話をしたときみたいに過ぎ去った時代を惜しむかのように言った。



「なんでも、経費削減らしいですよ。ここ数年は誰も使ってないみたいでしたからね。


 最近は、コストだの経費だのって、よく聞きますな……女将が仕切ってた頃は、事務所以外の場所で、そんな言葉口にされませんでしたが。


 ここも、随分変わりましたなあ」




 長いツルイチの話の最後に、思わず草壁がくしゃみを連発して、この日の二人の会話も終わった。

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