第208話 すみおさめ ①
物語は1月も終わろうとする頃の話である。
草壁もついに双葉荘でのアルバイトを終えようとしていたそんな時期。
都会とは言っても、厚い雲が空を覆ったと思ったら、雨ではなく白い雪の欠片が舞い降りるようなこともちょくちょくあるような時のこと。
洗い場から草壁が抜けたあと、あの未だに使えないダメバイト3人組だけでは心配ということで、ついに新入りのバイトがやってきた。
草壁より一つ年上のフリーターだと言って紹介されたのは、見た目普通の大学生みたいな男子。
彼について特に語ることもない。
フリーターとしての職歴をいろいろと経験しているせいもあるのか、勤務初日から緊張した様子もなく、大人しく仕事をこなした。
それはいいが、忙しいとかなんとかという割といい加減な理由で、若女将のほうから
「今日からバイトに入る彼だけど、料理長と仲居頭の二人には草壁クンのほうから紹介しておいてあげる?」
とそんなことまで頼まれて、最後の最後までそれか!とあきれる草壁だった。
普通、それは若女将の仕事でしょ?
新入りの社員をを部長や課長のところに連れて行って紹介するのが、やっぱり新入社員ってどういうことだよ?
と思ったが言われたものは仕方ないので、この新入りバイトをつれて板場と仲居頭のところへ顔を出した。
「あら草壁クン、やめちゃうの!?」
とまず仲居頭がひどく驚いていた。どういうことだと思ってたら。
「私、草壁クンってここの社員かな?って思ってたから。バイトだったのね、あなた」
ときどき普段着のまま皿洗いの仕事にだけやってくる男をどう見たら社員と思ったのか不思議だったが、草壁はあんまりそこのところは突っ込まずにただ笑ってやりごした。するとこの仲居頭が
「けど、若女将もいいかげんあの3人組、入れ替えたらいいと思わない?ねえ!あなたのほうから、若女将……いや、こういうのはやっぱり女将のほうがいいかな?うん、女将にに直談判してみたら?」
なんでそんなことをただのバイトがしなきゃならないんだ?っていうか、あんたがすればいいだろ、なんでこっちに振る?
なんて、新入りの前で仲居頭がつまらない事を言うものだから、そこを辞した後すかさず。
「草壁さん。さっきの人の言ってた『あの3人組』って誰のことですか?」
と聞いてきた。ちょっと心配そうだ。そうだろう。
「まあ、一緒に仕事したら分かります。言っとくけど、僕がいなくなったら、洗い場のリーダーだからそのつもりでよろしくお願いします」
「はあ?いきなりリーダーですか?」
「『あの3人組』では絶対無理なんで」
「はあ……」
ついで、厨房の料理長のところへ挨拶に行った時も似たようなことがあった。
「何?草壁クン、やめちゃうの?ずっといると思ったけど。残念だなあ。君はやめるの惜しいよ」
皿洗いのバイトというわけで、実はあんまり口を聞いたことのない料理長からそんなことを言われてちょっと驚いた。
厨房という小さいがかなり厳しい縦社会の中じゃ、そこの料理長と皿洗いのバイトと言ったら、まさに社長とバイトぐらいの立場の差があるわけで、普段親しく口を聞くこともなかったが、名前を覚えてもらって仕事ぶりまで一応評価してもらっているらしいのが意外だった。
草壁がついて指導できる時間もわずか。
一応新入りのために、細かい仕事の手順や気づいたことなんかをノートにまとめて新入りに渡したら、彼は「草壁さん、字は綺麗なんですね」
と言って感心しながらそのノートをめくっていた。
「字は」って、どういうことだよ!
それとはちょっと話がそれるが、ちょうどそんな頃のちょっとしたエピソードを一つ。
ある日のこと。
夕食の準備も終わり、食べ終わった客の皿がリフトで降りてくるまでのちょっとした休憩時間のことである。手早く旅館用意の仕出し弁当を食べ終わった草壁が、一人でお勝手口から外の裏庭に出てみた。
暖かい季節なら、ちょうど沈む夕日を見ながらちょっと涼んでいるのも悪くないが、冬場はあたりも暗いし、寒い。
普通、もうこんな時節に外で休憩を取るひとはいない。草壁だって特に用事があったわけじゃない。ここ数ヶ月の間通った職場の見納めという程度である。
それに外に出てみたら、すぐ目の前にはあのオンボロ寮が見える。
もしゆかりさんがいるなら、ちょっと話でもしようかな?なんて考えたりして。
すると、外の宵闇の中で、小さな赤い火の球が揺れているのが見えた。
ん?と思ってよく見たら、誰かがこの寒い中、裏庭の真ん中で一斗缶に腰掛けてタバコを吸っているのだった。
夜の闇に、白衣の色を薄く浮かび上がらせて一人タバコをそこで吸っていたのは、草壁のルームメイトのオッサン、ツルイチさんだった。しばらくの間厨房の手伝いに入っているこのオジサンが調理の仕事も終わった今、一人闇夜の中でタバコをくゆらせていたのだ。
「この寒いのに外で休憩ですか?」
「タバコ呑みには、つらい世の中です」
ツルイチさんは、かなり薄くなった頭をちょっと上げて、大きくタバコの煙を吐き出した。
このオジサン、だいたいいつもニコヤカである。愚痴ってはいても、何かすっかり諦めているみたいな笑顔で静かにつぶやいた。
そういえば、このオジサンがタバコを吸うということは知っていたが、部屋でも一切タバコを吸っているところを見たことがない。多分、同居している長瀬亮作も草壁もともにタバコを吸わないので、気を使っているのだろう。
考えてみたら、あの部屋に灰皿は多分ないと思う。
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