第207話 心ほぐして ⑥

 そして、ロビー近くの売店で、草壁はアンパン、ゆかりがメロンパンを買った。



 それはいいのだが、実はこのとき、二人の留守を狙うかのようにしてある人物が厨房にさ迷いこんでいた。


 もう残飯はないのだが、食い物の匂いがしそうな場所というのをなぜか敏感に感じ取る、例のアイツ。




 売店でパンを一つずつ買うだけのことなので、用事なんかはすぐ終わる。


 厨房に侵入した渡辺がテーブルの上にまだ手付かずのまま放置されている、コーヒー牛乳と飲むヨーグルトを発見し、それに何のためらいもなく手を伸ばしているとき、すでに二人は買い物を済ませてこちらに戻ろうとしていた。



(この様子じゃあ、多分、すぐにこの飲み物の持ち主は帰ってくるに違いない)


 そう判断した渡辺。さっさとミッションを終えねばならないということで、とにかくあんまり考えずに、テーブルの上に置いてあったコーヒー牛乳に手を伸ばす。



 ストローはさきほど、二人とも容器から取り外したばかり。


 机の上には長いのと短いの、二本のストローが転がっている。


 どっちがどっちとかあんまり考えずに、渡辺は短いほうのストローへ手を伸ばして、急いでまだ口の開いていない飲み口の穴にぶっさした。


 しかし、背の高いコーヒー牛乳に短いストローを入れたせいで、ストローは全部容器の中に落ちてしまう。


「わっ!もうメンドクサイ!このまま飲んじゃえ!」



 渡辺は小さく開いたストロー穴に吸い付いて、そのままチューチュー言いながらやがてコーヒー牛乳を飲み干した。



 そして残る飲むヨーグルトに手を伸ばそうとしたとき、出入り口扉に人の気配を感じたので、それには手をつけずに大慌てで、勝手口から逃げ出したのだった。





 ちょうど、二人がパンを買って厨房に戻ったとき、以上のような出来事が起きていた。


 だから、旅館廊下側の出入り口扉を開けたとき、奥の勝手口が「バタン!」と音を立てたのを聞いて、草壁とゆかりも驚いた。


 まさか、自分たちがいない間にここに誰かいるとは思わなかったから。




 一瞬、二人が驚いた顔を見合わせて突っ立っていたが、最初にゆかりがその部屋での異変に気が付いた。



「あっ!コーヒー牛乳がない!」



 言われた草壁がステンレステーブルに近づいて辺りを見渡すと、すっかり中身のなくなってペチャンコにへしゃげたコーヒー牛乳の紙パックをゴミ箱の中に発見した。



「飲まれてる……」



 あの短い間にここに侵入して、他人の飲み物を勝手に飲むような人間といえば、アイツしかいない。



「渡辺クン。まだ帰ってなかったのね」


「さっき勝手口のドアの音がしたけど、あいつ僕らの気配を感じて逃げたんだ!」




 もうなくなっちゃったものは仕方ない。


 今更また買いなおしにでかけるのもメンドクサイ。喉渇いたら、従業員用に冷やしてあるお茶でも飲んどくか。と思った草壁は、そのままゆかりとともにステンレステーブルに座って、アンパンの袋を開いた。




「ついに草壁さんも被害者になっちゃいましたね。もう一分戻ってくるのが遅かったら多分、私のヨーグルトもなくなってたと思います」



 草壁の目の前に座ったゆかりは、かろうじて難を逃れた、自分の飲むヨーグルトの容器に手をのばす。



 テーブルの上には一本だけストローがあるので、それを手に持つゆかり。


 それは渡辺がヨーグルトのストローを持っていったせいで、本来コーヒー牛乳用の長いストローである。



 水色をした四角い紙箱の上隅にある丸穴の薄いビニールの膜に、それをゆっくりと力を入れながら押し込んでゆく。


 ストローは飲み口が締め上げる、滑らかな抵抗を受けながらもスッと奥に飲み込まれるように中に入ってゆくと、白いヨーグルトを湧出を半透明な筒の表面に見せていた。




 唇をストローの先にちょっとつけると、一口、ゆかりはそれを飲んだ。




 草壁はしばらくそんな様子をジッと目の前で見つめた後に、ぽつりとゆかりの手に持っている飲むヨーグルトを指差した。



「そのストロー、僕のコーヒー牛乳のやつですよね?長いですし」



 言われるまであんまりそんなことを気に掛けなかったゆかりだったが、確かにそういわれればそうかもしれない。このタイプの容器のドリンクを何度か飲んだことがあるが、いつもは一杯までストローを挿入すると、飲み口にキスするみたいに飲まなければいけないのに、今は奥まで挿したストローが3,4センチも頭を出している。



「確かにそうかも……けど、それがどうかしました?」



 ゆかりにしてみたら今更そんな指摘されてもコーヒー牛乳はないし、もともと自分のドリンクについていたストローもないのだから、こうするしかない訳だ。


 すると、草壁がものすごい強引なことを言い出した。



「ということは、そのヨーグルト、半分僕のものじゃないですか?」


「なんで、そうなるんですか!」



 いきなりそんなこと言われたらゆかりでなくても驚くだろう。しかし、目の前の草壁は大真面目らしい。眉一つ動かさず平然としている。



「そのストローないと、飲めないでしょ?」


「そんな理屈をいいますか?」


 合ってるようで、無茶苦茶な気がする。


 すると、草壁は急に拗ねた顔に変わった。



「前に、ゆかりさんがプリン食べられたときは、プリンアラモードおごってあげたのに、僕が被害にあってるのを見て、ヨーグルトの半分もくれないなんて……」



 ゆかりは思った。なるほど、”タダより高いものはない”ってこういうことを言うんだ、と。





 結局、二人はひとつのドリンクをシェアすることとなった。



 ゆかりがメロンパンを小さくちぎって、口に入れると、チュッと小さくヨーグルトを飲んで、草壁の目の前に紙パックをトンと置く。彼のほうもアンパンをちぎって食べながら、遠慮がちにヨーグルトを吸い上げて、ゆかりの目の前にトン。



 久しぶりだから、なにかおしゃべりでもしましょう。


 というつもりで二人になったはずが、今まで以上に押し黙ったまま、夜食を食べることになった二人。



 お互い、あんまりヨーグルトのほうは見ずに、またそれ以上ドリンクの話をすることもなく黙々とパンを食べ続けた。




 


 やがて、持ち上げた容器の重さから判断して、あと数口も飲めばヨーグルトもなくなろうとしていた。砂時計の残りの砂もあとちょっとといったところ。


 そのことに気づいたゆかりは、手にヨーグルトを持ったまま、ポツリとつぶやいた。



「私、きっと子供っぽいんですよ」


 草壁は黙って彼女のほうを見ているだけだ。



「こんな面倒くさいヤツのことなんか見切りつけてちゃんと彼女みつけたらどうです?」


 ゆかりがそう言って草壁を見た。冗談でも返してくれるかと思ったが、草壁は怒ったような顔でゆかりを見ているだけだった。


「わたしは、ずっとこんなのですから、さっさと諦めてください」



 草壁にまったく笑顔ないのを十分承知で、あえて冗談めかした軽い調子でそう言ったあと、微笑むゆかり。


 私たちは、ずっと『お友達』ですから、そのつもりでよろしくお願いします。と、でも言いたげに。


 言い終わると、ゆかりは最後の一口残ったヨーグルトを、ズズッとすこし乱暴な音を立てて飲み干したあと、食べ終わったメロンパンの包装とともにゴミ箱に捨てた。



「それにしても、渡辺君、困った人。他人のものを勝手に!!」



 ずっと押し黙ったままの草壁の様子をわざと無視しながら、ゆかりがすこしわざとらしく大きな声を出して、場の空気を変えようとしていた。



「放っておいていいんですか?捕まえて、弁償させたほうが?」



 相変わらず草壁はゆかりを何か言いた気にみているばかりだったが、ゆかりにそう聞かれると、こちらも食べ終わったアンパンの包装をゴミ箱に捨てると。


「そうですね――」



 とゆっくりと立ち上がりながらおもむろに口を開いた。


 そして、



「いつか必ず、捕まえて見せます」


 と背中で答えて、ゆかりを厨房に残したまま帰っていった。


 だから、そのときゆかりがどんな顔をして自分の言葉を聞いていたかを知らない。




◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇




 どうでもいいことだが、後日草壁はあのマッサージチェアの揉み心地というのをいやというほど体験させられた。


それも、あのときゆかりが座っていたやつの隣にある、見た目同じように見えてそれより一段値の張る、最高級機の方で。


 この最高級マッサージチェアのどこが違うかというと、マッサージモードの中に「全身揉み倒し」の「鬼」モードというのがあって、それを受けると――。



 一本釣りされたマグロみたいに、チェアの上で何度も元気よく飛び跳ねながら、悶えることができるという貴重な経験を体験できるのだった。



 もちろん、そのとき草壁の隣に立ってニヤニヤしながらリモコンを握っていたのが、ゆかりだったことは言うまでもない。




 そして、またもやレイコから「いい加減にしなさい!」と怒られたことを最後に付け加えておく。





第42話 おわり

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