第206話 心ほぐして ⑤


 つまらないことで機嫌なんて直っちゃうものかもしれない。


 いや、元々今回のことは、嫉妬というより、単なるコミュニケーション不足の重なりが生み出した、二人の心の歯車の噛み合わせの問題、と言ったほうがいいかもしれない。




 ちょうどその日の皿洗いのシフトが、あの3人組のうち岩城と福田が休みという日で、仕事は草壁、ゆかり、そして渡辺の3人ですることとなっていた。




 皿洗いのお仕事では特に語ることもない。


 もうオフシーズンと言ってもいいような1月の下旬では、客の数も少ない。本当のところは草壁とゆかりの二人で余裕でこなせるかもしれないような、結構静かな洗い場だった。



 つまみ食いの常習犯、渡辺も監視役が二人もいると思ったように残飯アサリもできないようで、いつものごとく大量の汗をかきながらもおとなしく仕事をこなした。



 そんな中、草壁とゆかりが並んで皿を洗っているところにやってきた渡辺から、珍しく


「二人ともちゃんと仕事してくださいよ」


 と逆に説教をくらったのは、暇だから二人とも気が緩んでいたわけじゃないと思われる。




 なんとなく雑談を交わしながら、のんびりてを動かしているうちに渡辺よりトロくなっていたらしい。


 言われて、二人ともちょっと、顔を赤らめていた。





 そんな調子で仕事も一応無事に済んだ。


 仕事終わりのひとっ風呂っていうのもこれであと数回で終わりかと思うと名残惜しくて、いつも以上にのんびりと浸かった草壁が、あのマッサージチェアのあるフロアに出て、壁際に数台並ぶドリンクの自販機の前へと向かった。




 見ると、某有名ソフトドリンクメーカーのロゴの入った缶ジュースを売っているものやら、紙パック入りの乳製品がラインナップのメインになっている自販機もあれば、瓶入り飲料が弾薬庫みたいにして透明ケースの向こうでずらっと並んでいる自販機もあったりして、何を飲もうか迷ってしまう。




 ここの豊富なドリンク類を前にしばらく草壁が考え込んでいると、



「草壁さんもお風呂はいってたんですか?」




 振り返ると、ゆかりが立っていた。


 ゆるく羽織ったグレーのスウェットジャケットのはだけたジッパーの下に見える、インナーの生成りのシャツのせいでスポーティというより、かなりガーリーな印象の着こなし。


 デニム地にも見える光沢のあるつるんとしたマキシスカートは今までに何度かみたことがあるような気がした。



 すっかり化粧っ気もおちた風呂上りの肌は、むしろ上気のせいか明るい色のファンデーションを乗せているみたいにツヤっと光っていた。多分リップグロスすらしていないと思うわれるが、さくらんぼ色の唇は赤ちゃんのそれみたい。



 簡単に乾かしただけの黒髪からにおい立つリンスの匂いがかすかにした。




 そういえば、こんなに近く、こんなに穏やかな彼女を見るのは久しぶりかもしれない。


 風呂上りとは違う、熱気を体の奥から感じながら、しばらく草壁はすぐ目の前で微笑む彼女をじっと見つめていた。





 そこで、二人はそれぞれドリンクを購入した。


 草壁はコーヒー牛乳を。スマホほどの大きさをした250mlの紙パック入りのやつである。


 そしてゆかりは飲むヨーグルトを。こちらは、それより一回り背の小さな200ml入りのやはり紙パック。




 なんとなく、二人でゆっくりドリンクでも飲みながら雑談でもしようか?という雰囲気になったが、風呂上りの客のくつろぐ大浴場前ロビーというのは、大体が観光でやってきたような客ばかり。彼らは少々くつろぎすぎている。マッサージチェアに揺られながら「アーッ」なんて低い声唸っているのだとか、浴衣の前をはだけさせて、酔っ払いながらウロウロしているオヤジがたむろしているのだった。




 フロント前のロビーは、やはりバイトの身では大きな顔で談笑するわけにも今はいかない。



 二人にとって、ゆっくりできる場所、というと、自然ともう人気のない厨房ということになった。




 それぞれ自販機で買った紙パックを持って洗い場に戻ってくると、思ったとおり人は誰もいない。


 調理担当の料理人も、バイトももうすっかりいなくなると、ホテルの片隅のこのちょっとした宴会場なみの広さのあるスペースは、とても静かに変わる。




 さっそく、必要最小限の照明だけつけると、二人はいつも弁当を食べるステンレステーブルについた。


 片手で軽々持ち上がる、背もたれのない丸椅子をちょっと動かす音さえも、耳障りになりそうなぐらいの静謐に包まれた室内だ。



 なんとなく、急に話題を作るのもわざとらしい気分をお互いに感じながら


「草壁さん、もうすぐここのお仕事終わるんでしょ?」


「はい、ゆかりさんはいつまでいるんですか?」


「わからないです。予定とか聞いてないから」


「そうなんですか……」



 と当たり障りのない話を続ける二人。



 一応、せっかく買ってきたドリンクだ。両人が揃って、紙パックが背負っているストローを袋から取り出したときである。


 厨房が静かなせいで余計に分かっちゃうのだろうが、二人ともお腹がなった。



”あっ、今わたし、お腹鳴っちゃった!””ぼ、僕も、そう”



 今日は楽勝で終わったが、仕事終わりに小腹が空くのはよくあること。


 このまま、またいつ鳴るか分からないお腹を抱えながらじゃ落ち着いて話もできない。


 というわけで、二人はホテルの売店へなにか買いに出かけることにしたのだった。



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