第204話 心ほぐして ③
やがて手の怪我も一応回復した草壁が双葉荘のバイトに戻ることになった。
未だに、あの一件以来、口を聞いていない二人だった。ということは草壁にしてみるとゆかりが怒っているかどうかの確認は取れていないということだ。
が、これまでの経験で一応わかる。
多分、怒ってる、と。
まあ、こっちのちょっとしたオフザケに過ぎないというのは向こうも知っているだろうから、台風みたいなことはないだろうが、ちょっとした低気圧の通過は覚悟しといたほうがいいかもしれない、と。
約一週間ぶりの職場復帰。
また、あいつら3人組のお守りか。と思っていた草壁だった。
実は、そこで、ちょっとうれしいことがあった。
一応、迷惑を掛けた女将と若女将への挨拶のために双葉荘の事務所に赴いたところ、ようやく自分の後釜らしいバイトが補充されたという話を聞かされた。
近いうちに仕事に入るから、しっかり教えてあげてね。
と、若女将から頼まれて、ついに自分もここのバイトから逃れられると、ちょっとホッとした草壁だった。
「残念ね。本当にやめちゃうの?」
女将のレイコが名残惜しそうな顔でそう言ってくれたのが、なによりのねぎらいの言葉だ。
「春休みや夏休みの時期になったらまたおいでなさいな」
などと言われて、思わず「よろしくお願いします」と頭を下げそうになるが、ここで情にほだされたら、本格的に泥沼に足を取られそうな気がした草壁。すかさず。
「いやあ、休暇には実家に帰っちゃうので、なんとも……それに来年はもう就活の準備とかもあってのんびりしてられないと思います」
さりげなくお断りをすることも忘れなかった。
「あら、そうなの……就職、なんだったらウチに来ること本気で考えてもらってもいいのよ」
隣で若女将の芳江が驚くようなことを、レイコが言った。お義母さん、お世辞じゃなくて本当にうちの社員にスカウトするつもり?
悪い子じゃないと思うが、草壁のことをそれほど買っていたわけじゃない芳江にしてみたら驚きである。
来て貰うんなら別にかまわないけど、この普通の感じの大学生をお義母さん、なんでそんなに気に入っちゃったんだろう、って思ったら、草壁のほうが及び腰。そりゃそうかもね、ご実家からは遠いこんなところに骨を埋める気にはなれないでしょうね。
何はともあれ、職場復帰と言ってもあと1週間ほどで、草壁はこの双葉荘からはさようならというわけだった。
そうして、挨拶も済ませた草壁、すこし早いがそろそろ着替えて仕事の準備にとりかかるか。と思って旅館の廊下を歩いていると、そこには、最近ではすっかり見慣れた青のツナギにキャップ姿のゆかりが、手すりを雑巾で拭いているところに出くわした。
草壁にしてみたら、「あっ!」って思うわけだろう。
ゆかりの姿を確認するなり、しばらく動きが止まった。一方、こっちには目もくれずにもくもくと拭き掃除にいそしんでいるゆかりは、気づいていないのか、わざと無視しているのかはちょっと分からない雰囲気。
微妙に気まずい思いはあったが、逃げ出すわけにもいかない。
何気ない様子を装いながら、ゆっくり近づき、「どうも!忙しそうですね!」と勤めて笑顔で明るくゆかりに話しかけた。すると、向こうは顔を上げもせずにそっけなく。
「それがわかるんだったら、むやみに話しかけないでくださいね」
と冷たい一言。
台風じゃないが、熱帯低気圧ぐらいにはなってるじゃないか!この人もそうとうヘソを曲げるとしつこい。
「あの……怒ってます?」
「なんなのよ!みんなして、怒ってる、怒ってるって!」
『みんな』の意味が草壁には分からなかったが、それなりに怒っていることは確かな様子だ。
いったんねじれた心の糸はちゃんとほぐしてあげないと、余計にこんがらがる危険もある。
ここはきちんと弁解しておくに限る。
「あやさんをバッティングセンターに誘ったのだって、そっちが挑発的なこと言うからで」
「そんなこと怒ってません!」
と言って、立ち上がったゆかりが雑巾片手のままそっぽを向く。分かりやすい『怒ってます』のジェスチャーだ。
「お弁当食べさせてもらったのは、向こうが手の怪我の責任を感じて……」
草壁の弁解をゆかりは最後まで言わせなかった。
ジロッと彼の顔を睨みつけて
「絶対、ウソでしょ?あなたが何も言わないのにあの子が自分からするわけないもの!」
急に声のトーンが上がるゆかり。草壁もその勢いにちょっと気を呑まれてしまい、言葉が出ない。すると、畳み掛けるように、一気にゆかりがまくし立てた。
「どうせ、『あれは、僕もうかつだったんだから、気にしなくていいよ』とかなんとか言いながらいい人ぶって、そのあとあやちゃんの前で『イテテテテ』って大げさに痛がって見せて、向こうに心理的なプレッシャーをさんざんかけたあと、わざとらしく目の前でフォークを転がして見せて、それを拾わせてから――」
ゆかりが草壁の目の前で大きく口を開いて見せた。お嬢様、ちょっとはしたないマネです。お口の奥が見えちゃいます。
目は相変わらず笑っていないので、定期歯科検診みたいなったゆかりが大きく口を開きながら
「――『あーん!』ってやったんでしょ!!」
「ずっと見てたんですか?」
驚く草壁。事実はまさに今ゆかりが目の前で言ったとおりだ。
「見てなくても想像つきます!……わたし、忙しいんで」
再び、手すりの拭き掃除へと黙々と戻るゆかり。
これは、まだ機嫌が直るのにちょっと時間が掛かりそうだと草壁も観念せざるを得なかった。
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