第202話 心ほぐして ①
気が付けば、お正月が遥か後方に霞んでしまうような1月の下旬近く。そして、恵方巻きのご予約承り中のポスターが、コンビニにスーパーに一斉に飾られるような季節。一年中なんかセールやっているものだ。
随分前の話のようだが、長瀬ゆかりがなぜ旅館双葉荘で、掃除ばかりやらされる毎日を送らなきゃいけないことになったかというと、元々は彼女の母親である登善子からの指令だったのを覚えてらっしゃるだろうか?
ここまで触れることはなかったが、登善子だって娘を妹のところに預けておいて預けっぱなしの無関心だったわけではない。
時々、妹である葉月レイコの元へ電話をかけて、娘の様子を伺っていはいた。
聞けば、自分が思っていたより、過酷な環境にいるような気もしないではなかったが、あのレイコがそれでいいと思っているならということで、特別、姉である登善子のほうから妹へ娘のことについて口は出さなかった。
「お世話掛けるわね。ゆかりの様子、どう?」
実は最初の頃は2、3日おきにそんなふうにして電話してくるので、レイコのほうから「お姉さん気を揉みすぎ。そんなにしょっちゅう話さなきゃいけないことないわよ」と笑われたりしていた。
今夜も、双葉荘のオンボロ寮の一室で、ゆかりが翌日の早起きに備えて、すっかり寝息を立てて布団に包まっているような時間に、登善子からレイコの元へと電話を入れていた。
「元気にやってるわよ。ほんといい子ね。ゆかりちゃん」
最近では、ゆかりを厳しく叱ることは少なかったが、かと言って本人を目の前にしてあまり誉めることもしないレイコだった。
しかし、こうして姉と親しく話している様子はお世辞ではなくて、本音である。
娘を誉められてうれしくないことはないが、あんまりしんみりと妹が言うので、登善子のほうが照れるぐらいに。
「大げさに言って!むしろ、あなたのところに花嫁修業に出させてはみたものの、あなたには私の躾がなってないって思われるんじゃないかと、心配で」
「あら、うらやましいぐらいよ。あんないい子に育つなんて。思えば、ゆかりちゃんっていっつも亮作君といっしょになって男の子みたいにして遊んでたけど、気が付いたら、いい女の子に変わってて、私が驚いたわ。」
「言いすぎよ。けど、あの子には好きなことをやらせるつもりだったから、何も仕込んでなくて……不器用な子でしょ?」
すると受話器の向こうでレイコが大笑いする声が聞こえてきた。
「ウソばっかり!本当は、姉さんの自慢の娘でしょ?何を教えても覚えが早いし、器用だし、それに――」
ここで、レイコは一度言葉を止めた。考えているからではなくて、常日頃思っているあることをきちんと姉に伝えておきたいと思ってのこと。もし姉さんがそれに気づいていないなら、もっとちゃんと自分の子供こと見ておいてあげてね。
「――素直で、心もちのしなやかな、いい娘ね」
妹との話を終えて、受話器を置いた後、登善子が思わずこうつぶやかずにはいられなかった。
「そんなにいい子だったかしら?」
と
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
前回のお話から、一週間以上たったそんなある日のことである。
アノ一件以来、草壁とゆかりは顔を合わすことがなかった。というのも、草壁は右手の怪我が直るまで双葉荘のバイトはお休み。
そして、ゆかりもひまわりが丘に帰ったって、用事を済ませたら双葉荘に戻ってくるということで、しばらく二人が口を聞く機会もないのだった。
そして、そんなある日の双葉荘の寮の一室の昼下がり。
旅館業もお昼というのは、客がいないので随分と静かで暇なときも多い。
もちろん掃除はするが、なにも旅館の清掃要員がゆかり一人ではない。となると、繁忙期も過ぎたそんな時期の午後はゆっくりとくつろげるのだった。
で、そんなとき、ゆかりは何をして過ごすか?
以前、寝て過ごしていると書いた。が、何も暇だからと言って寝てばかりでもない。
ところで、この部屋、本当になにもない部屋なのである。いつぞやの鍋パーティの時のちゃぶ台と座布団があるぐらい。
未だに冷蔵庫もテレビもラジオもない。休みになればひまわりが丘に帰ってしまうから、長時間いることはあんまりないので、そんなにあれこれ買い揃えても仕方ないのだ。
それでも暇な時間というのは出てくる。
やることがないので、暇つぶしに読書でもと思って、せっかくだから、ちょっと長いものでも読んでみようか?なんて買い揃えていくうちに、押入れに入れてある本の数がどんどん増えていった。
まず、トーマスマンの「ブッテンブローク家の人びと」それから、トルストイの「戦争と平和」。その次が、吉川英治の「宮本武蔵」に行ったあと、「南総里見八犬伝」へ。そしてついには、「プルタルコスの英雄伝」……。
そのうちマルセルプルーストが飛び出しそうな勢い。
実はチョイスに統一のないただの濫読だが、それは本の調達先である古本屋の本棚と相談してのこと。
お隣も上も下も、ご近所さんだっていないような、図書館なんかより遥かに静かな環境なので、他に気をとられることもないままに読みふけることができた。
その日もそんなふうにちゃぶ台の上に広げた文庫本の上に視線を滑らせながら、頬杖をついているゆかりの元へたずねてきた人物がいた。
「こんにちわー」
声の主がそう言っていきなりドアを開けると、ゆかりも驚いたそぶりもなく、
「あっ、いらっしゃい!」
と声を掛けてすぐに迎え入れたのは、あらかじめ訪問の約束があったからである。
たずねてきたのは、ゆかりの親友、辻倉あやである。
本日はいつものバック以外に、麻地のトートバックも下げてきた。大学の教科書でも入れているのだろうか?と思うかもしれないが、実は違う。
というのも、本日の訪問はただゆかりの元へ遊びに来ただけじゃないのだった。
「味のほうは、あんまり自信ないけど……」
と言って、そのトートバックから取り出したのが、お弁当箱二つ。
「あ、ありがとう!もうここの仕出しのお弁当にもいい加減飽きちゃってたところだったから、すごいうれしい!」
というわけで、今日はあやの手作りお弁当を差し入れ。それでもって、二人でお昼を食べましょうということであった。
黒いボディーをしたお弁当箱は、フタのところにポップなハート柄を散らしてある二段式のスリムタイプ。そしてもう一つが、リラックマの平型お弁当箱。
容器は違うが、中身は同じである。
今日の朝早くから、あやが作った手作りお弁当。
ちなみに、本日はあやのご両親も彼女の手作りお弁当をお昼に食べるという。
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