第201話 あーん ⑤

 ということで、数日間は草壁のかわりを勤めることとなったあやとともに、双葉荘の事務室を出たところにある人と出くわした。



「あっ!」




 本日もツナギの作業着にキャップ姿で、モップ片手にロビーにやってきたのは、ここの下働きである長瀬ゆかりだった。



 目の前にはもうバイトも終わったはずのあやがなぜかまた双葉荘に居る。それだけじゃない、そのとなりには草壁がなぜか知らないが右手にテーピングをしている。


 どういうことなんだろう?




 双葉荘のロビーで鉢合わせになった3人のうち、草壁とあやの二人はとてもまずいところを見られたようにして二人とも固まっていた。ゆかりだって事態が飲み込めないので、しばらく声もないままだった。



 すると、草壁とあやの二人が、そろって、頭のてっぺんから出しているみたいな声で


「ご報告、すっかり忘れてました!」



「二人して変な言い方しないでよ!」




 その場で簡単な状況説明を受けるゆかり。



 草壁さん、本当にあやちゃん誘ってデート行っちゃったんだ!と驚くと同時に、心の片隅では「ザマミロ!」とか思っている人の悪い自分に気づいていたりもする。


(どうせ、あやちゃんダマくらかして連れ出したんでしょ?バチが当たったんだわ!)



 なんにせよ、お嬢様のご機嫌は相当ナナメになっちゃった様子。


「ふーん。二人でデートに行った先でケガですか?……」


 すぐに唇をとがらせてそっぽ向いてしまった。


 あやが、すかさず「いや、デートなんてそんなものじゃなくてですね……」と言い訳しようとする言葉を最後まで聞くことなく、モップ片手にさっと背中を向ける。



「別に私に報告も言い訳も必要ないでしょ」


 そんな言葉を残してさっさと階段へと消えていった。




「ああなると長いんですか?」


「多分、長いと思う」


 立ち去るゆかりの背中を草壁もあやも呆然と見送るしかなかった。





 ところで仕事のほうであるが、こちらは問題もあるはずがない。


 あやは初心者だが、草壁からの指示もあるということで、洗い場に入るなりさっそくあのダメバイト3人組より遥かにいい動きで仕事をこなした。



 それはいいのだが、つい先日までかわいい仲居さんが一人増えたと、洗い場でも厨房の料理人の間でも評判だった子がなぜか洗い場のスタッフとして草壁とともにやってきたと思ったら、なんとあの普通の大学生のお兄ちゃんと仲が良さそうなのだ。



「草壁クンって、あの長瀬さんといい、この元仲居の子といい、モテるのか?ああ見えて」


「ぜんぜんそう見えないけどなあ」



 という変な評判を密かに立てられることとなった。




 草壁からの指示を受けながら、夕食準備の手伝いという仕事無事終了。


 仕事のことであんまり特筆すべきことはない。この翌日、草壁が付き添ったら3日目からは即席洗い場リーダーとしてあやは一人で仕事をこなすようになったのだった。


 この子は何をやらせてもソツがない。




 そして、夕食後の皿洗い本番の前に、夕食タイムとなったときのこと。




 今まで何度か触れたが、洗い場メンバーの夕食というのは、この洗い場の片隅にある大きなステンレステーブルの上で食べる、旅館用意の安物の仕出し弁当である。


 どうでもいい話だが、仲居さんたちというのは、上の階にある社員専用の休憩室で取る。食堂ではないが、飲み物の自販機があったり、お茶が用意されていたり、時には差し入れのお菓子やパンなんかが置いてある、見晴らしのいい部屋だ。


 閉め切った厨房の片隅よりは随分と明るくて綺麗なところである。




 用意されている食事は一緒でも、食べる場所によって随分と雰囲気が違ってくるもんだ。


 そういえば、こちらにはテレビや有線放送もないから、とても静か。


 まるで深夜の台所の片隅でカップラーメンを啜っているみたいなのが、ここ厨房でのいつもの食事の様子だった。




 そして、もちろん一緒に仕事に入った草壁もあやとともに、そんなテーブルを囲むメンバーの一人として、あやの目の前で仕出し弁当のプラスティック容器を開けていた。



 ちなみに他のメンバーである、バイト3人組、渡辺、岩城、福田は、ちょうどゆかりと初めてお弁当を食べたときみたいに口数が少ない。


 どうも3人とも結構人見知りするらしい。


 しかも女子と気軽に話をするのも苦手なようだ。



 あやから、声をかけられると、照れたような顔であんまり目を合わさずに一言二言、要領の悪い答えを返すばかり。




 一方、現在右手をケガしている草壁である。


 この状態で箸は使えないので、フォークでの食事ということになるのだが、問題はどっちの手でフォークを持つか?右手はテーピングされているので、動かしづらい、けど利き手。左はフリーだが、利き手じゃない。


 まあ、あんまり右手は使わないほうがいいのだろうが、ケガをしていない薬指と小指と親指を使えば右でも食べれる。



 が、こうすると……。



「イテテテ……」



 やっぱりテーピングしている人差し指と中指にもちょっと影響があるわけで、右手に痛みが走った。


 じゃあ、左でフォークを持ったら良さそうなものだが、実はこのお弁当には味噌汁がついているのだった。


 お椀じゃなくて、カップアイスを一回り大きくしたぐらいのフタ付きのプラスティック容器に入っているものだ。これを片手で飲みながら、フォークを使うとなると、味噌汁を持つ手は左となる。いちいち持ちかえるのがめんどくさいならフォークは右で持つことになる。



「やっぱり食べにくいですよね?ほんとごめんなさい」



 あやは目の前の草壁が不器用な手つきでフォークを握って、顔をしかめているのを見て申し訳なさそうに小さくなっていた。



「あれは僕もうかつだったんだから、気にしなくていいよ」


 草壁が笑顔で、ケロッと言うのだが、それが余計にあやに申し訳ないという気持ちを抱かせた。




 因みに、厨房出入り口に背を向けるように座っているあやの目の前が草壁。


 草壁からは旅館廊下から誰かが厨房に入ってきた場合、それがまっさきに見える位置だ。




 草壁は笑ってフォークをぎこちない手つきで右手に握って食事しているが、見ていたらとても食べにくそうなのは明らか。


 あるものは真上から突き刺したほうが食べやすいが、ご飯なんかは掬ったほうが食べやすいだろう。


 手の動かし方に大きな制約のある中では、フォークの角度をちょっと変えるだけでもけっこう手間どるものだった。


「よっしょ」


 って思わず声を出しながら草壁が弁当箱の隅に立てたフォークを支えながらちょっと持ち方を変えようと一生懸命だったとき、指を滑ったフォークがコロンと弁当箱から転げ落ちてしまった。




「あ、落ちちゃいましたね」


 目の前のあやが、草壁が手を伸ばすより先にそれを拾い上げた。多分そんな動作だってその手じゃやりにくそうだというのはよくわかったから。彼女なりに気を使ったのだ。



「ちょっと、待ってくださいね。一応拭きますから」


 テーブルの上に転がったフォークを拾い上げると、近くにあったティッシュで軽くフォークを拭いてから……。



「はい、どう……ぞ……」


 とあやが、目の前に草壁に差し出したあと、見事に固まった。




 いや、いっしょにテーブルを囲んでいたバイト3人組も黙々と動かしていた箸が一斉にとまった。


 そして、厨房から音が消えた。


 その静寂を切り裂いたのは草壁の発した、鼻に掛かったような甘え声だった。




「あーん!」



 あやの目の前で草壁が、カバのあくびみたいな顔していた。





”草壁さん、ああいう人だったなんて……”


”色恋沙汰を職場に持ち込むのはどうかと思いますよ”


”いいなあ、あんなかわいい子にしてもらって”



 岩城、福田、渡辺の3人がそんなことを言いながら、今テーブルの上で繰り広げられている光景に眉を潜めている隣では、草壁の弁当を手元に引き寄せてフォークを手にしたあやと、彼女の目の前でニヤニヤしながら、ご満悦で安物弁当を食べさせてもらっている草壁の姿があった。



「次はウインナー!」


「はい」



 あやにしてみたら、自分のせいでこうなったこと、無碍には断れないという心の負い目があった。



 っていうか、あやの目の前でわざと使いにくい右手でフォークを握っていたのは草壁の計略だったのかもしれない。それは本人しかわからないだろうが。



「次は何にします?」


「うーんと、卵焼き」


「食べやすいように半分にしますね」


「サンキュー」


「はいあーん」


「あーん」


「次は何にします?」


「ご飯」


「これぐらい?」


「うん!」


「はい、あーん」


「あーん」



「次は?」


「柴漬け!」


「はい、わかりました。じゃあ、これ、あーん!」



「あーん!!!」


 そして、草壁が大きな口を開けたときである。


 彼の顔はカバから稲川 淳二に変わっていた。




 彼の目の前で「はいじゃあ、あーん」なんてにこやかにやっているあやの頭の向こうで厨房の扉が開き、そしてそこにはこっちをジッと睨んで立つ長瀬ゆかりの姿が見えたからである。





第41話 おわり

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