第197話 あーん ①
気が付けば、年も明けてそろそろ学校が始まろうとしている1月も上旬のころの話である。
前回、たかが絵馬の願い事程度で、ゆかりが随分と大げさなリアクションを見せたが、正直草壁にとっては、彼女の本音を掴みかねていた。
本当のところ、自分に気があるのか?それとも本当にただの友達程度にしか思っていないのか?
ゆかり自身は現在フリーで誰ともお付き合いはしていません、っていうスタンスだ。
それなら、別に仲のいい男友達と一緒にお出かけぐらいはしてくれてもよさそうなのに。
しかも、こっちが他の女の子と仲良くしていると明らかに不機嫌になるというのに、追いかければそっぽを向く。
本当に扱いづらい女性だと草壁も悩んでいた。
そんなときのこと。
「この前のお見舞いのお礼です」
と言って、ツルイチさんから近所のスポーツセンターの入場チケットをペアでもらった。
前回の話でちょっと触れたが、年明け早々に痔の手術で短期入院していたこのルームメイトのオジサンをお見舞いしたことのお礼なのだそうで。
「あっ、すみません、あんなちょっとしたお見舞いにこんなお礼してもらって」
「いや、いいんですよ。亮作君も彼女と一緒に行くって言ってましたよ。草壁さんも彼女でも誘ってどうぞ」
「あ、ありがとうございます……」
最後の一言が余計だと思いながら、とりあえず草壁もそのスポーツセンターのチケットをありがたくいただくことにした。
そこで、考えることは一つ。誰を誘うか?
もちろん、ゆかりを誘いたい。
けど、大いに予想できる結果は、「ノー」という返事だろう。
こんなところ一人で行ったってあんまり面白くなさそうだし。
ツルイチからもらったチケットを目の前に草壁は一人悩んでいた。
ところで、大学が冬休みに入る頃から、双葉荘の仲居のバイトに入ることになった辻倉あやのほうは、もうその頃には、約束のバイト期間も終わりに近づきつつあった。
彼女はだいたい何をやらせてもソツなこなす子なので、取り立てて双葉荘でのことに触れなければならないような事件はない。
ないのだが、そのうち一人前に客室サービスも単独でこなすようになっていた彼女がときどき困ってることがあった。
チップ。である。
実はここ双葉荘では、個人的なチップや心づけは受け取っては成らないことになっている。
これは、客室の机の上におかれている旅館のパンフレットに大きく明示されているし、また、そういうものを渡されても断るようにというのが指導されている。
とは言っても、出す客はいる。
で、あやの場合である。
他の仲居さんはどうか分からないが、チップを出されるときちんと断る。
そういうシステムなので、というと、家族連れなんかは財布を握る奥さんがあっさりと引き下がってくれる。あっそうですか、チップ渡さなくていいなら、その分助かるわ。ってな感じであっさりと済んだ。
ところが、これが男性客だけの一行の場合、かなりしつこく受け取らせようとするらしい。
「お姉さん、固いこと言わないでも黙っていたらバレないだろ?バレたらクビにでもなるの?何、冬休みだけのバイト?だったら、なおさら後のことなんか気にすることないじゃないか!さあ!ほら!」
こういうオトウサマ方は、必ず調子のいいことを言いながら、さりげなくあやの手を握って、彼女が受け取るまで放してくれなかったりする。
どさくさに紛れて手を握っているだけみたいなことがちょいちょいあった。
そんな押し問答を延々とやるので、仕事が遅いわけじゃない彼女が客室から帰ってくるのが人一倍遅くなることがよくあるそうなのだ。
「もう、辻倉さんがげっそりした顔で帰ってくると、『また?』って言って大笑いですよ」
あやの一応の上司でもある仲居頭からそんな話を笑いながらされた若女将の芳江と女将のレイコの二人の反応は微妙に違っていた。
「律儀な子ね……」
ちょっと呆れ顔なのが、実は堅そうな女将のレイコで。
「いいことですよ、こういうことはキチンとしておくに限りますよ」
と、深く頷いていたのが若女将の芳江だった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
ちょうど、大学も始まるような時期、あやのバイトも終わりに近づいてきたような頃のちょっとしたエピソードである。
連泊客の少ないこの旅館では、チェックインの客がまだ来ない早い時間では、ロビーにも人が少ないものだ。
バイトの人間でも、そんな時間ならロビーのソファーの片隅で休憩をとることもある。
その日、そんな時間のロビーのソファーでは、草壁、ゆかり、あやの3人が揃って座って、自販機で買ったお茶を飲みながら休憩をしていたときのこと。
「あら、3人揃って楽しそうね」
たまたま通りかかった女将のレイコが、そう言って3人のそばにやってきた。
若い人ばかりで何話しているの?なんて言いながら笑顔で近づいてくると。
「そういえば、あやちゃんはもう今日で上がりなんだっけ?バイト」
「はい、短い間ですけどお世話になりました。あっ、それと、お昼、ごちそうさまでした」
「こちらこそ、無理言って引っ張り出してきて悪いなあって思ったからちょっとした御礼よ」
レイコとあやのそんなやりとりを聞いていたゆかりが不思議そうにあやにたずねた。
「なにかごちそうになったの?」
「はい。さっきのお昼に、結構豪華なお重に入ったお弁当を」
「えっ!あやちゃん、お昼、こっちに来てたの?」
「ちょっと早めにきてました」
「私見なかったけど、どこで食べてたの?」
ゆかりとあやの会話を聞いていた女将が笑いながら、草壁たち一同の輪の中に入るみたいにしてあやの隣にスッと腰を落とした。
「事務室でね。他の人の目もあるから、みんなのいる前で特別扱いできないでしょ?」
「ヘヘヘ!ご馳走さまでした」
女将と新入りバイトという立場とか関係なく仲よさそうに笑っているレイコとあやを見ながら、ゆかりは言葉を詰まらせた。
「……」
(私が、厨房の隅っこで一人、あのいつもの安い弁当を食べてたときに……あやちゃんは特別扱い……)
複雑な表情でゆかりが黙り込んでいるが、あやとレイコはそれにはお構いなく二人で話を続けた。
「それはそうと、あやちゃん、あなたお客様からのチップはみんな断ってるですって?」
「はい。そういう決まりですし」
当たり前のことをしているはずなのに、なにをいちいち女将がそんなことを聞いてくるのか?とあやが不思議に思っていると、あやの脇をちょっとつつくような仕草で、からかうように女将が言った
「たまにはもらっちゃいなさいよ!」
一番そういう決まりに厳しくなければならないはずの人の口から出た言葉に目の前の草壁が驚いた。
「女将がそんなこと言っていいんですか?」
「ここだけの話だから、誰にも言っちゃダメよ」
と、あんまり見たことないようなイタズラっぽい笑顔で、人差し指を口にあてて言うのだった。
(バイト相手に、女将がよくそんなこと言えるわね……)
黙って聞いていたゆかりも驚いた。
「あなたも若いんだし、お金ためて彼にレストランで食事でもおごってあげたら?」
「わ、わたし、そういう人はいないです」
なぜか知らないが、女将が随分と砕けたことを言うもんだなと、聞いていた3人が驚いていると、レイコは自分の言葉にふと考えこみながら。
「あっ、でも二人で行ってワインなんか飲むと15万や20万ぐらいはしたりするもんねえ……」
さらっとレイコが言った金額におもわず目を草壁とあや。そんな金額の食事を一回に使うのが当たり前みたいに言うものだ。
まさか、それがレイコの普段の金銭感覚ではないだろうが、草壁はそれを聞いてちょっと吹き出した。
「やっぱり、女将もあの豪邸で育ったお嬢様だから、言うことが違いますね」
草壁の言葉に女将がちょっと意外な顔をする女将。
「あら、あなた私の実家を知ってるの?」
そこで、前年の夏に、あやと草壁が招待をうけて仙台の長瀬家へ遊びに行ったことを知らされたレイコ。
単に友達と思っていたが、想像以上につながりが深い。
「ゆかりさんも外で食事って言ったらそんなところ行くんですか?」
「普段から行ってるわけないでしょ?お父さんやお母さんは知らないけど、私なんかそんなところそんなに連れて行ってもらったことないですから」
「そんなにはないけど、ちょっとはあるんですか?」
「一人10万なんてことは多分ないですよ」
「た、多分……」
お勘定の詳しいことは分からない、が、それに近そうなところなら、ある。ってことだろうか?
やっぱりお嬢様をディナーに誘うとなると、覚悟しないといけない金額の桁が違ってくる……。草壁は話をしながら、自分のデート計画をもう一度見直そうなか?なんて思いながら驚いていた。
自分の目の前でゆかりと草壁がそんな言葉を交わし、気軽に喋っている様子をじっと見ていたレイコが、ふと二人に向かって言葉をかけた。
「そういえばあなたたち、仲よさそうだけど、もともと顔見知りなの?たしか二人ともひまわりが丘だっけ?」
草壁の履歴書は読んだだろうが、住所の細かいところまで詮索はしなかったのだろう。
だから、それを受けてあやが言った
「それも、同じマンションのお隣さん同士ですよ。弟の亮作さんのルームメイトですから」
という言葉を聞いて、エエッー!と小さく叫んだあと、しばらく考え込んだ。
どうしたんだろうと思って、急に静かになったレイコの様子を3人が見守っていると、彼女は急に何か一人で納得した様子になると、ケロッとした顔で
「なあんだ。そういうことか……」
という一言を残して、どこかに立ち去っていった。
その後、あやも最後の仕事に向かうと、ロビーのソファーには、草壁とゆかりの二人が並んで座るだけとなった。
と言っても、二人とも次の仕事の時間がある。
のんびりはしていられない。そして、周りに人がいないというのは絶好のチャンス。
もう、あたって砕けるしかない草壁は、ツルイチさんからもらった例のスポーツセンターのチケットゆかりに見せて言った。
「あの……」
「ん?なんですか?」
「これ、もらい物なんですが、スポーツセンターのチケットなんですけど、ちょうど二枚あるんですよ」
「はあ……」
あっ!と草壁は思った。
話をここまで進めてきたら誰だって言いたいことは分かるだろう。そして、目の前のゆかりであるが、チケットを見ながら表情は固まった。
よく見る、能面みたいなヤツだ。
これは、多分、マズイ。しかし、ここで、言葉を打ち切るわけには行かない。
「気分転換にどうですか?こんど一緒に」
草壁は注意深く『デート』という言葉をはずして誘ってみた。が、そんな工夫をしてみたところで鉄壁のディフェンスは崩れるわけもなく。
「何度も言いますけど、私たち、二人でどこかに出かけるような関係じゃありませんから」
と思ってたとおりの拒否。
もう草壁としては、断られた気恥ずかしさなんかより、またもやパターンみたいにこっちを拒否するゆかりの頑固さが、ちょっと面白くなってきた。
冷たくそっぽを向くゆかりに向かって、飽きれた顔で声をかけた。
「本当に、頑ななひとだなあ……」
半分感心してしまっている。
言われたゆかりはまるで草壁にからかわれているような気がするものだから、余計に表情をこわばらせると乱暴に言い放った。
「私が悪いみたいに言わないでください。そっちがしつこいだけでしょ?」
おいおい、じゃあこっちが悪いって言うのか?
そこまで言われたら草壁じゃなっくったってムカッとくるだろう。彼は、ジッとそんな彼女をにらみつけた。
「な、なによ」
すこし鼻白むゆかり。
「わかりましたよ。これせっかくのペアチケットだし、一人で行ってもおもしろくないから、あやさん誘って行って来ますよ」
草壁があやを誘ってデートに行く?あの子、ぜんぜん奥手なんだから、私誘うより難しいに決まっている!
どうせ、私に断られた反動でムキになっているだけに違いないんだから。
ゆかりは、草壁の言葉を鼻で笑った。
「今更、ちょっかい出そうって言うの?無理よ、あやちゃん草壁さんのことなんとも思ってませんから、絶対断られるだけね」
勝負する前から勝手に敗北宣言をよその人に出されてたまるもんか。
ゆかりの挑発に草壁だってわざと余裕の笑みを浮かべて見せた。
「ゆかりさんがいない間、二人でどっか行く機会もありましたしね、まんざらでもないと思うんですよね」
ゆかりは、相手がなぜか自信満々なのがとても気に入らない。
挑発したくせに、逆に挑発される。
「絶対無理だわ!あなたの誘いなんかに、アノ子がのるもんですか!」
「絶対、デートしてみせます!」
すっかり、同レベルで声高に言い争いをする二人。
もう、そろそろ、チェックインする客だってやって来るころである。
「二人とも早く、仕事についてちょうだい。お客様だってお見えになっているのよ!いい加減にしなさい!」
通りがかった女中頭から怒鳴りつけられた二人だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます