第195話 ねがいごと ③
そんなお正月の日常のとあるひとコマ、をもうひとつ。
それは3が日も過ぎた頃のことである。
あの、おしゃべり好きの詮索好き、そしてやることなすこといい加減な、変わり者の叔母、長瀬フミコが突然ひまわりが丘の草壁たちの住む部屋に遊びにやってきた。
ちょうど、ツルイチさんが入院しているころのことである。
どういうつもりかはよく分からないが、とりあえず、ゆかり、草壁、亮作が揃える都合のいい日を教えろというので、ゆかりの一時帰宅の頃に、草壁たちの部屋でフミコを迎えることとなった。
お腹すかせておきなさい。と言われたのでなにかご馳走でもしてくれるのだろうか?とは思った。
が、そうして、やってきたフミコが3段がさねの重箱を抱えてやってきたのには驚いた。
おせち、らしい。
もうとっくに正月は過ぎているというのに?
そう思って事情を聞いたら、とんでもないことを言い出した。
「そうなのよ。わたし、すっかり忘れてたんだけど、実家のお姉さんからお金預かっていたのよ!」
草壁たちの部屋のダイニングのテーブルの上に、怪しげな重箱をドサッと乱暴に置いたフミコの言葉を聞いて、ゆかりと亮作が驚いた。
「うちのお母さんから、お金を?」
「そうなのよ。5万円ほどね」
ブルジョアさんと言っても、結構なお金である。
「なんのお金?」
「いや、ほら、あなたたちお正月にも実家に帰らずにいるっていうから、『これでお節でも買って、アノ子たちに食べさせてあげて』なんて言って」
「ちょっと、待ってよ、おばさん、お節ってもうお正月過ぎてるけど!」
亮作があきれた声をあげるのも無理はない。おそらく金額から言ってどこかの有名百貨店の結構なお節セットが変えそうな値段だ。しかし、もうこんな時期にお節を売っているような店はどこにもあるわけない。
しかも、なぜそれを今頃になって言い出したかというと――。
「ほら、わたし、正月3が日はハワイに遊びに行ってたから、すっかりお節のこと忘れちゃってたのよ」
「……」
自分の大失態をこともなげに、笑い飛ばしているフミコを見て、親類のゆかりと亮作だけでなく、一緒に居合わせた草壁も言葉を失ってしまっている。
彼らは知らされなかったが、事実は最初フミコもこちらで正月を過ごすというつもりだったらしい。その話を聞いたゆかりの母、長瀬登善子から「だったら、あなたも一人じゃさびしいだろうし、アノ子達にもお節ぐらい食べさせてあげたいから、いいの見繕ってお節注文しておいてよ」と頼まれたのだった。
その後、気まぐれな本人は急に旅行に行きたくなりお節の約束と5万円の送金をすっぽかして出かけてしまった。
帰ってきて急に思い出した。お金を受け取っておいて知らん振りもできないので、とりいそいでお節持参でやってきたのだった。
が、フミコはそんなことまったくお構いなしに話を続けた。
そして、実は本当の驚愕は、このあとに待っていた。
「けど、もうお節なんて売ってないでしょ?」
「まあ、そうでしょうね」
「だから、わたし、自分で作ってみたのよ」
「ええっ!!!」
フミコの言葉を聞いて、ゆかりと亮作の姉弟が揃って叫んだ。
ものすごく、驚いたようだ。
その瞬間の驚きというのは、他人である草壁にはわからなかったが、やがて、フミコの持ってきた重箱をジッと見つめながら、ゆかりと亮作がこんなことをコソコソと言い合っているのが聞こえてきた。
「フミコ叔母さんって料理したっけ?」
「うううん。わたし、聞いたことない」
そうなの?と草壁もその話を聞いて驚いた。
一人楽しげなのは、フミコである。
「なにしろ5万円って言ったら相当な金額でしょ?山海の珍味をこれだけ使って料理できるなんて、そうはないだろうから、いい経験だと思って、面白そうだし、ちょっとがんばってみることにしたの」
微妙に背筋が凍りそうなことを平気な顔で言い切った。が、一人楽しそうにそんなことを言うフミコの本音を端的に言うとこういうことだ――5万円の材料費で何か作るなんて遊びが楽しそうだから、料理の経験はないけど、とりあえずやってみた――ということである。
そして。
銅像の除幕式みたいにもったいぶりながら、重箱を包んでいた風呂敷を広げたあと、
「さあ、どうぞ、召し上がれ。お姉さんのおせち料理にはちょっとかなわないかもしれないけど、叔母さんもがんばって作ってみたんだから」
と言って開いたお重の中身が問題だ。
「……」
中身を見て、フミコ以外の3人が固まった。
思わず「これ、どこかで落っことしたんですか?」とマジに聞きそうになったが、一緒に中身を見ているフミコの顔から笑顔が消えないところを見ると、そんなトラブルに見舞われたわけではなさそうだ。
「やっぱり、お節といったら、お煮しめでしょ?あんまり生ものは日持ちもしないだろうし」
見ると、ほとんどすべての食材には火が通してはいる。
「ちょっと一口召し上がってみてよ」
そういわれて、食べたら、これが、みごとにまずい。
味が全部薄っぺら。よく聞いてみたら、ダシなんか使わずにだいたいがショウユかウスターソースで適当に煮込んだだけなのである。
「だって、せっかくいい材料を使うんだから、余計な味付けはせずに、食材本来の味を楽しめるようにしたかったから」
って言うが、アワビもカニも牛肉もすべてそのやり方で適当に煮込んだだけ。
そして、適当に煮込んだ後に、旨味をすっかりすったショウユ汁のほうは全部すてて、出がらしになった食材を適当に切ってから、独自のレシピに基づいた、臭みのあるソースをしっかり掛けて、高級食材の面目をすっかり潰してから盛り付け。
一個5000円のアワビがきっと泣いている。
「数の子もちゃんと塩抜きしてあるから、ちょうどおいしいと思うわ。私だってそれぐらいの知識はあるのよ」
それはいいのだ。
しかし、塩漬けの数の子は塩抜きする。この中途半端な知識が、彼女を恐るべき暴挙へと駆り立てた。
ちなみに、せっかちな性分であるフミコは、塩抜きをするときに、お湯でグラグラと煮込むらしい。そのほうが時間短縮になるだろうし、塩もしっかり抜けるだろうという、独自の料理理論を披瀝してくれた。
「ちゃんと、だから、これも塩抜きして、おしょうゆで煮込んだのよ」
そういって、フミコが重箱の隅の小鉢の上にてんこ盛りになっているものを指差した。
そして、それを見たゆかりからの質問に、彼女がこの物体の正体をこともなげに言い放ったとき、おそらく、庶民草壁だけでなく、ブルジョア長瀬姉弟すら、言葉を失った。
「おばさん、これ、なんなんですか?」
「それ、キャビアよ。それもロシア産のやつ。高かったわよ。材料費の半分ぐらいこれで飛んじゃったもん」
味はいずれも、塩辛すぎるか、薄味すぎるかのどちらか。
醤油以外につかったらしい調味料の配合がめちゃくちゃで、火の通し方がいい加減なので、あるものはこげてて苦かったり、生臭かったりと、まちまち。
3人が死にそうな顔で、お重のお節をつまんだ。いずれも吐きそうな味ばかりだ。
そして、3段重箱の一番したの箱の中で、まるでアラ入れの中みたいにして散乱しているタラバガニのバラバラ死体が、ちょっとにおうだけで鼻がかゆくなりそうなあの甲殻類特有の腐敗臭を放っているのを確認した3人は、静かに重箱をかさね直すと、こうフミコに言った。
「おばさん、お気持ちありがとう。お節はツルイチさんが帰ってきてからみんなで食べることにしますから、ちょっと置いといていいですか?」
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