第192話 つれない彼女 ⑥
「なによ、握り飯!あんた忘れ物でもあったの?」
とたんに不機嫌になるジロー。ゆかりは、
「ちょっと飲みなおそうと思って帰ってきました……ギムレットください」
「せっかくこっちが草壁ちゃんと二人きりで楽しくやってたのに、あんた邪魔よ!」
仮にも客相手に平気でそんなことを言うオカマ。しかし、ゆかりはそんなこと無視するように、さきほど藤阪と腰掛けていた席にまで歩いてい行くとそこにスッと腰掛けて、コートを脱いだ。
急に戻ってきたゆかりの出現によって、店内が静まった。また、彼女も特に誰とも話す様子もなく静かにジッとしているだけであった。
さきほど、殊勝にも藤阪を駅まで見送るなんて出だしたゆかりにはある思惑があった。
もう一度、ショットバーjiro'sに戻って飲みなおすつもりだったのだ。あのうっかり男がなんかの理由で戻ってこないように、彼がちゃんと電車に乗り込むのを確認するためだったのである。
やがて差し出されたウグイス色に輝くスピリットにそっと唇を寄せるゆかりの様子を、草壁は離れたカウンターからしばらくジッと見ていた。
それから、目の前にいるバーテンに小さく声をかけた。
「ジローさん」
「何?ポッキー?」
「違いますよ!」
草壁の求めに応じて、ゆかりのもとにオレンジジュースが届けられる。
「なんですか?」
「オレンジジュースよ。握り飯、ちょっと飲みすぎじゃないのか?って草壁ちゃんが言ってるわよ」
ジローからそんな言葉を聞かされて、ちょっとムッとしながらカウンターの向こうに座っている草壁を見ると、こんどはあっちが知らん振りで、カクテルを飲んでいる。
そういうことなら、こっちだって、ということでゆかりからも注文が……。
「はい、草壁ちゃん、あんたにもジンジャーエール。握り飯からよ。そっちも飲みすぎじゃないのか?だってさ」
浅く肘付いた手のひらの上に頤を乗せているせいで妙に猫背気味になりながら、わざと膨れ面をして見せているゆかりがこっちをジッと見ていた。
「大きなお世話ですよ。そっちほどこっちは飲んでませんから」
「私だって大きなお世話。そんなに飲んでないから飲みなおしにきたんだから」
「だいたい、ゆかりさんちょっと酒癖悪いんですよ」
「何よ!いつもいつも知っているみたいなこと言っちゃって!」
カウンターの隅に別れた二人がそんなことを言い合っているのを、しばらく黙ってみているしかない、ジロー。なんなんだろう?この二人って。付き合っているようにはあんまり見えないんだけど。っていうか好きならさっさとくっつきゃいいだけの話だろうし。
そして、草壁がさらにゆかりをおちょくるような注文をわざと向こうに聞こえるようにバーテンにした。
「あちらのお客に、よく冷えたチューペットを」
からかうつもりだったから、それなりに反応はすると思った。しかし、ゆかりの反応がとても意外だった。
「誰がチューペットよ!誰が!」
ん?突っ込みの言葉が若干不自然な気がするけど……まっいいか。向こうもちょっと酔ってるんだろう。
一方のゆかりは草壁の知らないところで「チュー」という言葉に過敏に反応していたのだった。さっきの藤阪とのことを思い出して。
もちろんご馳走にはご馳走返しだ。
「あちらさんにはチェリオでも出してあげてください!」
……そっちはチェリーのくせに!とでも言いたいのだろうか?
結局
「やかましいわよ!めんどくさいから、あんたらさっさと隣に座ってちょうだい!」
ジローに怒鳴られた二人だった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「で、下見までしたデートプラン決まったんですか?」
「まあ……決まったような決まらないような」
「そんなに悩むことないんじゃないですか?」
「けど、たとえばご飯食べるって言っても、どれぐらいのお店に連れて行ったらいいかよくわからないし。相手がそれで満足してくれるのか、とか思うと……」
ジローの一喝の後、二人はそれぞれ歩み寄るようにして、こんどはバーのカウンターの真ん中に並んで座った。
並ぶと、不思議なことにそれまでのおちゃらけな雰囲気がどこかに飛んでいった。
そして、ゆかりのほうから草壁へかけた一言から、静かに二人の話が続いた。
ただ、ゆかりのほうがまるで「誰かさんと行く」デートの話、という様子で聞いてくる。分かってくるくせにと思うが草壁もまるでここにいない「誰かさんと行く」デートのことというように話を続けた。
正式な申し込みのタイミングはまだつかめない。
「別に自分でいいって思ってそこに決めたのならそれでいいんじゃないですか?それが駄目だと向こうが言うならそれまでの人なんじゃないですか?お互いに無理に合わせようとしても、持たないでしょうし」
ゆかりの言うことは正論。
しかし、自分の気持ちを知っていてそういうことを言っているとして、彼女は一体どんなつもりでこんなことを言うのだろうと、草壁は思わず黙り込んでしまった。
しばらく沈黙が続いたのち
「ところで、今木さんからのプレゼントってなんなんですか?」
随分とそっけない調子でゆかりが聞いてきた。なんか嫌味のひとつでも言うかと思ったがそういう様子はない。純粋に興味半分の様子。
「メガネ、です。といっても伊達なんですけど……彼女いわく、僕はメガネが似合いそうだって……」
草壁がそう言いながら、ポケットからそのメガネを取り出した。
丸みを帯びた四角フチは、いわゆるウエリントン型っていうトラディショナルなそれ、すこしマーブル模様が入っている。
「似合いますか?」
草壁が掛けると、オシャレというより本当に普通にメガネが必要でかけているみたいになった。土台が普通の顔に普通のメガネを掛けても大きく雰囲気の変化はない。1に1を掛けても答えは1のままである。
強いて言えば、ちょっとだけ勉強できそうに見えるぐらい。
しかし、彼が似合うかどうか聞いてくるので、ちゃんと見て答えてあげないといけないと思ったのか、真面目腐ったメガネ顔のお隣さんのほうへ、ちょっと顔を寄たゆかりは、じっと彼の顔を凝視した。
そして、彼のほうも彼女の視線に引き寄せられるように相手の顔を真正面に捉えていた。
顔を見ているつもりが、焦点はだんだんと瞳の奥へと変わってゆく。
お互い、少し不思議そうな顔をしながら見合っているうちに、見詰め合っているという意識もどこか別のものへ解けてしまいそうになった。
その蕩けるような感覚の中で、やがて、二人の顔の軸が左右互い違いに微妙に振れながら、その中心自体は、引き寄せられるように近づいてゆく。そのとき引き合っている引力の中心は瞳から口元へと変わってゆく――。
このまま近づいたら……。
「ちょっと、あんたらなにやってるのよ!」
再び、ジローの一喝で場の空気が変わった。
さっきはお互い飲みすぎだと言い合ってた二人が、あわただしく、なにかを取り繕うかのようにして交互にカクテルのおかわりをした。
妙な雰囲気になってしまったが、むしろ草壁にとっては好都合だ。
この空気の中なら言える。
「マフラーのお返ししたいから、今度どこか行きませんか?」
やっとこれでデートに誘えた!
さすがに、ここで断ることはないだろう。付き合ってくれって言ってるんじゃない。ただ二人でどっか行こうってだけだから。
と、思ったら、だ。
「それは、お断りします。わたしたち、そういう関係じゃないですから」
思わず草壁がカクテル片手に固まった。ええっ!今の言葉、こっちの聞き違いじゃありませんよね?と本気でそう口にしそうになりながら、隣で冷たい顔をして知らん振りしているゆかりを見ているしかない草壁だった。
すると、カウンターから、ジローが妙に冷静な声で草壁に言った。
「それは、そうよ、今回はあんたが悪いわ」
「えっ!どういうことです?」
「あんた、大学には年下の彼女がいて、こっちでは柴漬けと付き合ってて、それで握り飯にちょっかいだそうたって、無理に決まってるじゃない?3股なんてよくやる気になれるわね?」
その晩、一番飲んだのは草壁だったのは言うまでもない。
第39話 おわり
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