第191話 つれない彼女 ⑤
その後福引バイトを終えた草壁は夕方からの双葉荘の皿洗いへと向かった。
大いにまずいとは思う。このままじゃあせっかく下見までして考えたデートプランが台無しだ。貴重な休日と下見に使ったお金も無駄になる。
いや、それよりも、ゆかりの機嫌をどう直す?
こちらが先決だが、二人とも忙しいせいもあって、顔を合わす機会がこのところ少ない。
バイトを終えた草壁が、双葉荘からの帰りの電車を降りて、自宅に帰るべく夜のひまわりが丘商店街のアーケードを歩いていたときである。
時間帯としては昼間に店を開けているような店は軒並みシャッターを下ろしてしまっているような頃である。
開いている店というのは、数は少ないが飲み屋みたいなところが数件あるぐらいのものだ。
照明は明るいが、人通りは少ない。夜に犬の散歩をさせているような人と時折すれ違うぐらいの閑散としたアーケードを草壁が一人歩いていると。
「草壁ちゃん、捕まえた!」
と言っていきなり背後から抱きつかれたときには、とっさに強盗にあったと思って心臓が縮こまった。
背後から響く、口調は柔らかいが声は妙に野太い、特徴のある喋り方は確かに聞き覚えのあるものだった。
振り返ると、商店街のショットバーのバーテン。オカマのジローさんだ。
相変わらず、草壁のことをなぜか気に入っている様子。
今日も、店の前を草壁が通りかかったのを目にして、とりあえず呼び込みをかけたわけである。ずいぶんこの人らしいやりかたで。
「草壁ちゃん、最近あんまり顔見せてくれないじゃない?たまにはうちのお店来なさいよ!お金ないなら付けでもなんでもいいから」
「えっ、ちょっと待って……」
ジローは草壁の手をとって彼を店内に引っ張り込んだ。
それにしても「ツケ」でいいとは言うが、これほど無理やり連れ込んで、「ご馳走する」とは言わないのだった。
こうして無理やりショットバー「jiro's」の中に引き込まれた草壁。
見ると、カウンターの奥には二人連れの先客が一組。
「あっ、草壁クン!」
大き目の衿をした少し色味のあるカッターシャツの上に臙脂色のセーターを、照明の加減でちょっと銀色に光っているジャケットの下に見せている男は、藤阪公司だった。
何を飲んでいるか知らないが、この人の目の前においてあると、ブラッディーマリーがただのトマトジュースにしか見えない。
そして、そんな彼の隣に座るのは……
「……」
突然バーテンがひっぱってきた客の姿をひと目確認するなり、知らん振りで、オリーブの実の緑を透かせている小さなショートグラスにそっと手をかけたのは、ゆかりであった。
つい数時間前、商店街の福引の受付で並んでいたときには、カジュアルなデニムパンツ姿だったのが、白樺色をした大人っぽいワンピース姿に変わっていた。つまりはデートしてたというわけだな。とパッと見ただけでわかるナリをしているのはいいが、こんな季節に半袖で寒くないのだろうか?とつまらないことを心配してしまう。
「さ、草壁ちゃん何飲むの?」
二人とはもっとも離れたカウンターのもう一方の端に草壁が席を占めると、目の前ではジローが息がかかりそうなぐらい近いところまで顔を寄せてくるのが、すでに鬱陶しかった。
もう、本当に草壁ちゃんはぜんぜんうちに来てくれないんだから?学生だって、軽く一杯ぐらいひっかけるぐらいの余裕はあるんでしょ?えっ、バイトしているの?だったら尚更よ。もっと顔を見せてくれないと私、さびしい思いをしているんだから。草壁ちゃん、ウチの前通ってもいつも素通りだもん。もっと来てくれないと、うちの前通るたびに捕まえちゃうんだから。
草壁の注文したモスコーミュールを作っている間、目の前のオカマバーテンはずっと一人で喋りっぱなし。
だからこの店にはムードもなにもあったものじゃない。
しかし、カウンターの端と端に別れているとは言っても狭い店内だった。小声でゆかりと藤阪が時折笑顔交じりで喋っているその内容はよく分からないが、なにやら仲よさそうだ。
やっぱり、自分が誘っても来てはくれないくせに、藤阪が相手だったら、気軽にこうして二人でお酒飲んでるんだな。
草壁のほうは、あんまり見ないほうがいいと思いながらも、目の前のオカマよりは、少しはなれたところで頭を寄せ合うようにしているカップルのほうへ自然と意識が向いていた。
そんな草壁の様子を悟ったからではないであろう。そんなことはあんまり気にするようなタチではないから。しかし、顔見知りがポツンと隅っこで黙りこんでいるのに、ちょっと気を使ったのかもしれない。
カウンター越しに藤阪がご陽気な声を草壁にかけた。
「草壁クン、今日は一人なの?」
「はい……」
草壁は小さくうなずいた。相変わらずゆかりは草壁を見ようとはしなかった。
「あやちゃんと一緒じゃなかったんだ?」
「はい……」
そうか、藤阪さんって自分とあやさんが付き合っていると今でも思っているんだ。
草壁は頷きながら、いろんな方面で変な風にねじれて思い込まれている辻倉あやとの関係を頭の中で思い浮かべていた。いろいろとややこしい。
すると、目の前のジローさんが
「あんた、本当に柴漬けと付き合ってるの?」
いきなり「柴漬け」と言われて、ん?となったが、思い出した。ジローさんってあやさんのことそう呼んでたな。そしてゆかりさんのことは……。
「ハハハ……」
草壁がそんなことを考えながら、とりあえず笑ってごまかしていると、急に握り飯がニコッと笑ってこんなことを言い出した。
「草壁さんの本命って大学の後輩の子なんですよね?」
ゆかり、である。私知ってますよ、って満面の顔でからかうように笑っているが、笑って人を刺しているわけだ。
「何?握り飯、あんた草壁ちゃんの本命知ってるの?」
「私、見ちゃったもん」
驚くジロー。ゆかりはますます笑顔。
「草壁ちゃん、他にも彼女いるの?真面目そうに見えて意外ね……」
「クリスマスプレゼントなんかしあったりして!ねえ!」
珍しく、ジローとゆかりの会話がかみ合っている。いや、多分かみ合ってはないが、一応言葉のキャッチボールみたいなことが成立しているのは珍しい。
草壁のほうは、もはや何も言うことができないまま、知らない顔をして静かにカクテルを傾けるだけだった。
まるで、先日の一人遊園地のときみたいに。
すると、そこで、藤阪がこんなことを言い出した。
「じゃあ、あのときの下見ってのは、その子と行くつもりなの?」
「えっ?下見?」
藤阪の言葉にゆかりの黒髪がパッと翻るように広がった。すごい勢いで顔を藤阪のほうへ向けたからである。
「このまえ、よそのバーであったらデートの下見してたんだってさ。マメだよね」
ゆかりの勢いにはあんまり気づいていない藤阪は、暢気にそう言って笑うだけだった。
その後、藤阪とゆかりは二人そろって店を出て行った。
ショットバー「jiro's」のドアをゆかりが今まさに潜りぬけようとした瞬間に、チラッとそちらを見上げた草壁と目があうと、彼女は何か言いたそうな顔をしていた。
「草壁ちゃん。よそにも行きつけのお店あるの?許せないわ」
「違いますよ。たまたま僕が一見さんで入ったところに藤阪さんも居合わせただけですから」
藤阪たちの退席で、ジローとともに二人きりで店内に残された草壁が、目の前で肘をついて身を乗り出しながら話しかけるオカマの応対に苦労している頃。
「見送りなんて別にいいのに、歩いてすぐだし」
「いえ、今日はどうもありがとうございました。お礼もちゃんと言いたいから、改札まで一緒にいきましょう」
電車で帰る藤阪を見送りにゆかりも商店街を出てひまわりが丘の駅のロビーに立っていた。
こうして二人で一緒に食事して、お酒を飲む間柄とは言っても、恋人と呼べるような付き合いの仕方は一切ないままに随分と「デート」だけは回数を重ねているのだった。
そこは藤阪も慎重だった。
かつて不倫の恋に破れて自殺をはかったその心の傷に簡単に触れることははばかられた。
しかし、もうそろそろ、少しでも距離が縮めることができないものか?
そう思っていたとき、ゆかりが駅まで見送ると言い出した。
今までならショットバーを出たところで、お互いさよならと言い合うのが常だったのに?
乗降客が途切れると、売店もみなシャッターを下ろした駅のロビーに人影はなかった。
二人が、駅務窓口からも死角になるような柱の影にまで肩を並べて歩いていたときである。
ここがチャンスだとばかりに、男は隣で並んで歩く彼女の肩に手を回した。
そのままギュッと抱き寄せた。女の体は風船のように軽かった。おびえたような顔のまま息を呑んだまま急なことに男の瞳に吸い込まれそうに固まるばかりだった。
そのまま、ゆっくりと唇を寄せようとする……
が、天敵の姿を確認したリスがすぐに巣穴に戻ってしまうみたいに、彼女の肩はキュッと硬く縮こまると、さっと彼の腕から逃げてしまった。
「あっ、怒らせちゃったかな?」
急いで自分の失敗を取り戻そうとして、藤阪が笑った。
ゆかりは、申し訳なさそうな笑顔を作った。
「ううん。怒ってるわけじゃなくて、まだ、私、恋愛とかそういうのには積極的になれないんです」
自嘲気味の笑いを作って首を振るゆかりだった。
結局、藤阪との間もまったく進展のないままである。
しかし、なぜゆかりが駅まで見送るというようなことを急に言い出したか?
それは、藤阪がちゃんと電車に乗って帰るかどうかを確認したかったからだったりする。なぜか?それは……。
「じゃあ、じゃんけんキスゲームしようか?じゃんけんで負けたらキスしなきゃいけないの!」
「二人でやったらずっとキスばっかりじゃないですか!」
「あっ、そうだ、草壁ちゃん、退屈だったらツイスターゲームしましょうか?」
「なんで、ショットバーに来てそんなもの二人でしなきゃいけないんですか!」
「ほらほら、ポッキー食べていいわよ!」
「やめてくださいって!なんでそっちが口に銜えているのを食べなきゃいけないんですか!」
「ぎりぎりまで近づいていいから!」
「だからいりません!」
ちょうどジローが口にポッキー銜えながら草壁のほうへ顔を近づけているとき、このショットバーのドアを開けて入ってくるものがあった。
「ええっ!」
目の前の光景に驚きの声をあげて、ドアのノブに手をかけたまま固まっていたその客は――ゆかりだった。
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