第173話 双葉荘奮闘記 ⑤
とにかくそういうふうにして、修羅場の幕が開くことになった。
草壁の仕事というのはだいたいメインがスポンジ握って皿をゴシゴシやって食洗機用のトレーに次々と詰めてゆくというものだが、現状ではとにかく手だけ早く動かしていたらいいという訳にはいかない。
常に、目を四方に向けて、3人組の動きをチェックしながら、降りてくる汚れ物の推移を見て、この木偶の坊たちをいかに効率よく使うかを考えて、1分刻みに近い間隔で指示を出さなきゃいけない。
始まって2,30分も経つと、先遣隊だったはずの汚れ物の部隊も、だんだんと数を増してきた。
それでもまだ本格的なラッシュではない。
が、その時点で、現在の洗い場の面子で処理できる皿の数より、送られてくる汚れ物の数のほうが多いのは明らかだった。
体力自慢の岩城もリフトから洗い物の詰まった番重をひっぱりだすだけで
「いくらでもやってくる……キリがない……」
そういって疲れた顔をしだした。
さすがに今夜は渡辺だけじゃなく、草壁も額から汗をしたたらせていた。噴き出す汗をぬぐう手間さえ惜しい。が、放っておくと、睫の先に溜まったしずくが目に入りそうになるが、拭っても拭っても汗はにじみ出た。
岩城の足元には汚れ物の大群が溜まる一方で、それをチラッと見るだけで、気がなえそうになる。
これ、終わるのか?
そのとき。
「おまたせ!お手伝いに来ました!」
ようやくこちらに強力な増援が到着。これで戦力のバランスも随分と違ってくるに違いない。
すでに、皆とおそろい(渡辺は除く)のエプロンとゴム長をつけて、まさに飛び込んできたゆかり、後ろで束ねた黒髪が一度ピョンと揺れた。
エプロンの下はオパールブルーのパーカーと、ストレートデニムのボトム。動きやすくてシンプル。だけど卸売市場の仲買人みたいなエプロンつけてても、このルックスの女子。むさい男ぞろいの洗い場に一人飛び込んできただけで、皆の顔がパッと明るくなった。
おもわず、草壁も安堵のため息が洩れた。
と思ったら、入ってくるなり、ゆかりが洗い場の惨状に目を丸くしていた。
「覚悟してたけど、すごい状況ですね……」
「地獄へようこそ。……渡辺、その皿持ってくなら、これも方向同じだから一緒に持ってけ!あの棚だぞ!」
草壁としては、そんなゆかりに悠長に見とれている場合ではない。目はちゃんと奴等につねに向けていないといけない。
「簡単には終わりそうにない?あっ、岩城クン下りて来た皿はとりあえず私がやるから、散らかっている箱、なるべく丁寧に重ねて、あっちにつんでおいて。ここに置いてたらきっと誰かが躓くし」
「少なくとも、僕たちには未知の領域です。渡辺、その皿の一番下!」
「わたし、夜のシフト入っているし……福田君、ちょっと漆器の洗いお願い」
「実は僕も、今夜は泊まりで、夜勤ありです」
何?二人とも?
一瞬、お互いの置かれている状況を知って、顔を見合わせるゆかりと草壁。
「大変!二人とも残業できないなんて!」
「ほんとうに時間通りに上げないと、えらいことになるぞ!」
そんなことを言って、今まで以上に動くスピードが上がるのだけど、実はテンションも二人ともちょっと上がっていたりする。
実は二人がゆっくりと話す時間もないまま、すれ違いばかりの毎日がここのところ続いていた。
それからは、まさに八面六臂というか獅子奮迅というか、まあそんな無双っぷりを発揮しながら働く二人。とにかく動く。こっちで皿を洗っていると思ったら、いつのまにかポジションが交代して、食洗機係。
「遠い棚の皿は、あっちまで行かずにカウンターの上に並べておいたほうが早くないですか?」
「そうですね。ゆかりさんの言うとおり」
テンションが上がるにしたがって、仕事を始めて2ヶ月そこそこの二人の動きが、缶詰工場の超ベテランのオバチャンパートみたいな手つきにスピードアップする。
こんなに動けちゃうもんなんだ。
「♪~♪」
ついにはゆかりからは鼻歌まで聞こえだしてきた。スピードは上がるとさらにご機嫌で動けるようになる。
「うわっ、また床に洗い物が溜まりだした!」
なんていいながらも、パーカーのフードを揺らしながら、皿を両手にかかえて足元の障害物をピョンピョンと飛び跳ねて越えてゆく。ケンケンパッ!って小さい子が遊んでいるみたいにしているのを見た草壁もさすがに笑い出すしかない。
「ゆかりさん、コケナイでくださいよ」
「平気平気!」
そして、中に入っていた皿と残飯をすべて取り出したあとの番重はあとでまとめて洗うから、今は隅っこに積み重ねておきましょう。まずはこうして抱えて……
「5つ重ねてもカラだから、とってもかるーい!こんなこと出来ちゃったりして!」
目の上まで積み重なったクリーム色したプラスチックの番重の山を抱えると、まるで一緒にワルツでも踊るみたいにしてクルックルッと回ってみせる。
それから片隅にポイッと重ねる。
「空になったのは、重ねてホイホイッ♪」
聞いたことないようなメロディーに乗せて変な歌を歌いながら、山積みの番重の箱の上に軽く投げてやる。ちょっと乱暴だけど、見事につみかさなった。
「じゃあ、こっちも溜まってきたから、福田君、オネガイッ!」
ってなぜか妙な歌に乗せて、いつぞや習い覚えたバレエのアラベスクのポーズみたいな格好で、福田に指示を出したりしている。かなりお嬢様上機嫌だぞ。
その様子をジッと見ていた渡辺もちょっと驚いていた。横でしばらくいっしょに見ていた草壁に言った。
「楽しそうですね。長瀬さん」
「アレやりすぎて、ここにいるんだけどね」
が、そんなふうに楽しげに働くゆかりの姿に触発されるものがあったのだろう。
「こうなったら、俺も本気だすしかないな……」
今度は岩城が妙に真面目な顔でそんなことを言い出したと思ったら、バイト中は常につけているリストバンドを外し、ゴム長靴を脱いだ。。
「このリストバンドと長靴に入れていた鉛は外して、本気出させてもらいます!」
「オマエ!今までそんなもん着けて仕事してたのか?」
草壁の目の前で、ごつい鉛の板とワッカがそれぞれ二つずつ、ゴトンと音を立てて床の上に落ちた。
「重い!」
それを手に取ってみて、ゆかりも驚いた。これ、うっかり足の上に落としたら怪我するぐらいの重さがある……。
そんなふうにして、普段よりも急に賑やかに働くチーム洗い場一同。
洗い物の数は相変わらずすごい量が残っている。が皿が下りてくるピッチに押されまくることもなくなった。なんとか、戦線は崩壊せずに維持できている様子。
リーダーの二人、草壁とゆかりの動きがいつも以上によかったからでもあるが、それに釣られるようにして3人組の動きもちょっと知らない間によくなっていた。
「なんか長瀬さん見てると面白いよね?」
「草壁さんがいないときは、もっと普通だったけど今日はすごい明るいもんね」
岩城と福田にもそう見えているようだった。
「ん?福田君どうしたの?疲れたら無理しないで休憩してね」
「大丈夫みたいです、長瀬さん。今日は体が軽いからなんとかなりそうで」
「あっ、そう……い、岩城クン、すごい!よくそんなに持ち上げられる!その箱中身入ってるんでしょ?」
「草壁さんは危ないって言うけど、これぐらい余裕っすよ」
フォローはいいが、あんまり岩城をおだてないで欲しいんだけどなあ……。
横でゆかりを見ていてたまに草壁も苦笑してしまうときもあったが、まあ、たまにはこうやって褒めてあげたほうが、コイツの場合、機嫌もよさそうだし、その匙加減は向こうにまかせといてもいいか。
「みんな!ちょっとずつ、下りて来る皿の数が減ってきてるから、もう一息!ガンバロウ!……って、あれ?渡辺君は?」
すっかり草壁と同じように汗の滲んだ顔を火照らせながらも笑顔のゆかりが、ちょっと辺りを見渡した。どこに居ても目立つはずのデブの姿が消えていた。さっき皿を抱えて棚に戻しに行ったけど、いない。
そのとき、洗い場からは陰で見えない厨房の冷蔵庫の前に突っ立っていた渡辺。
なぜか手に持った小さなカップを手にしばらく固まって立ちすくんでいた。
実は動いているといつものごとく腹を空かせた渡辺。しかし今この状況では、目の前に一杯ある残飯に手を伸ばしたら怒られる。しかし、食べたい。どこかでこっそり食べれるものはないか?
そう思った彼は、もう料理人の消えた厨房にこっそり忍び込んだ。
そして、そこの冷蔵庫に手をかける。いかにヤツでも客に出すものには手をつけては洒落にならないということは重々承知。しかし、この冷蔵庫にはときどきあるものが冷やしてあるのを彼は知っていた。
これなら、食べても「コラッ!」って怒られるぐらいで済む。
と思ってやって来た渡辺が冷蔵庫に冷やしてあったプッチンプリンを手に取って、しばらく動けずにいた。
そのプッチンプリンの上には小さなメモが貼り付けてあった。
「渡辺君、これ食べたらタダじゃおかないからね!」
文面には、怖い顔でジッとこっちを睨んでいるゆかりの似顔絵イラストが添えてあった。
すると……
「渡辺君、君の場合、まだ休憩は早いのよ」
声に振り返ると、ゆかりがニヤニヤして立っていた。
「あっ、長瀬さん!……」
「そのプリン、ちゃんと元にもどしてね」
「あ、あの……なに後ろに持ってるんですか?」
「これ?フライパンよ」
「それ一体なんなんですか?」
「これ?カコーンっていい音がするのよ」
「どんなときにですか?」
「わかってるくせにぃ!」
「ん?草壁さん今なんか音しませんでした?僕、皿割っちゃいましたか?」
「いや、大丈夫だよ。それより、大分と少なくなってきたな、もうひとがんばりで終わるぞ!なんとか時間内に終了しそうだ」
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