第172話 双葉荘奮闘記 ④

 というわけで、ついにキャパ完全オーバーの団体さんたちのやってくる日となった。



 その日は平日のため、大学の都合もあって草壁はちょっと遅い出勤であった。ちょうど夕食の準備が終わってからの旅館到着であった。


 もう日はすっかり暮れているような時間である。




 草壁は洗いものの時間しか経験しなかったが、あの3人組が入っている厨房で誰が夕食の準備の指揮をしたのだろうか、と思っていたら、なんと女将のレイコが社員二人連れて手伝ったそうである。


 「大変だったでしょ?」と後日、草壁が聞いたら、「あなたの苦労はよくわかったわ。でも言うことをよく聞く子達だからそれは助かった」とレイコが笑っていた。ちなみに、そのときのことを岩城がこう言っていた



「怖かったっす。料理長よりデカイ声出すから、厨房の板さんもなんか緊張してるみたいでした」



 だそうで。




 さっそく更衣室でいつものエプロンとゴム長靴に着替えをすませた草壁が厨房に入ってみると……。





 ところで今回のお客さん、全員同じ一つの団体さんである。ほぼ全館貸しきり状態での宿泊だ。


 食事のほうは、家族連れのように各部屋で三々五々バラバラじゃない。同じ時刻に揃って宴会場で夕食となる。


 つまり、洗い物がリフトに乗って降りてくるタイミングというのは、一時期にドバッと固まってラッシュになるわけだ。



 どうでもいいが、聞けば最上階に廊下を挟んで存在する大小各種の宴会場の襖を全部取り払った上で、夜の宴が催されているとのこと。真っ赤な顔した浴衣姿が、もはや裸足のまま廊下を行ったりきたりして騒いでるらしい。




 遅い時間とは言っても、草壁の到着はまだ宵の口。


 ディナータイムは始まってまだ間もない時間である。普通だったら、ちょっと先付けの椀とか蓋の類がちょっとずつ降りてくるのだが。



「あ、草壁さん、すごいことになってますよ!もうこんな数の皿が下りてきました」




 番重にギュウギュウ、かつ無秩序に詰め込まれた汚れ物の皿、皿。それがほぼ洗い場の厨房器具に囲まれた通路一面にちらばっている。力自慢の岩城が片っ端から下りて来た洗い物をリフトから引っ張り出しているが、もうすでに置いておく余地もないぐらいにびっしりなのだ。


 一応、箱に詰められたままではあるがパッと見、まるで地震にでも襲われたのか?と思ってしまうような光景がそこには広がっていた。



 草壁ですら息を呑む光景だ。3人組はなおさら突っ立っているばかりだった。



 時間帯や器の種類から考えても、これはいわば先遣隊。このまま本陣が到着したらどうなるんだ?



「凄い数だと思いませんか?」


 普段、能天気な岩城もさすがに不安そうな顔をしていた。


「……」


「まださっき皿が下がってきたばっかりですでにこれなんですけど、このままじゃあ洗い場が皿で埋まって身動きとれなくなりますよね?」


 さすがにこの状況で残飯に手を伸ばす余裕はない渡辺。早くも汗をかきながらもなんとなく切羽詰った雰囲気は出している。細すぎる目のせいでよく表情がわからないが。


「……」


「この数の洗い物をこなすなんて、やっぱり僕らだけじゃ無理だと思います」


「……」


 福田が動く前から青い顔している。今日はまた倒れるかもしれんぞ。



 そして、草壁は何を言われても固い顔して黙ったままである。



「草壁さん、どうして黙ってるんですか?」


 渡辺にそう言われてやっと、ムッとした顔でこう答えた。



「この状況で、正論言われても腹立つだけなんだよ!」





 とにかく洗ってくしかない。


 長袖Tシャツの袖口を大きく捲り上げると、洗い物用のゴム手袋を装着。まるでオペに臨む医師みたいになった草壁。洗い物用のスポンジは本日のために真新しいものを下ろしてきた。だからどうしたという話ではあるが。


 ちょっとした寿司屋の活魚水槽ぐらいの大きさはある洗い物シンクにはすでにお湯がたっぷり張ってある。さすがにあの3人もそれぐらいの準備はしっかりとできている。


 ならば、足元の業務用食器洗い洗剤のガロン容器のキャップを親指ではじいて戦闘モード突入だ。



「岩城クン、皿、ドンドン水槽の中にぶち込んでいっていいから。……ただし!絶対そっとだ!今日は一枚の皿も割るのはナシ。皿全体を水の中につけるまで、絶対皿から手を離すな!」


「うっす!」



「それから、渡辺君は、いつもみたいに食洗機前に……って、おまえ、さっそく残飯食ってんじゃねえよ!」


「お腹が空いてると動けないんです」


「泣きそうな顔しながら食うなよ……ん?どうした?」


 見ると、茶碗蒸しが入っていたらしい椀をスプーンも使わずに一気に飲み干した渡辺が、草壁の目の前でそれを吐いた。


「タバコの吸殻が入ってた」


「それで泣いてたのか?そのうち本当に吸殻食べるぞ、お前」


「そういうの、ちょくちょくあるんですよね……」


「それでもやめないのはすごいわ……福田……クン?」



 振り返ると、バイト初日のときみたいにして、福田がまた床に手をついて蹲っていた。まだ動く前だぞ?



「ダメだ……この量を処理するんだと思うだけで、めまいが……」


「精神的ストレスにも弱いのかっ!」

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